四章 十六年前 沙湖 十四歳
窓から雨の気配が侵食している。机も床も黒板も、教室全てがしっとりと湿気を含んでいる。吸気までも雨に満ちてゆく、鬱陶しい春の長雨。先週私は誕生日を迎え、十四歳になった。あの日の美湖ちゃんと、同じ年。
「おー、静かにしろ。授業始めるぞ」
担任の先生が教室に入ってきて、ざわざわしていた教室が少しずつ静かになる。外では相変わらずしっとりと糸雨が降る。「卯の花腐し」この前、国語の授業で習った。梅雨に入る前の長雨は花を腐らすんだって。雨は人も腐らす。私は雨が嫌いだ。
やる気はないけれど、仕方なく教科書を開く。教科書の紙まで雨を吸って湿っている気がする。ここから何を学ぼうと、私には何の価値もないように思える。
中学校は、昼食の時間が一番憂鬱だ。食べるのが怖い。怖がって食べられない自分も嫌いだし、叔母さんがせっかく作ってくれたお弁当を眺めるだけ眺めて、結局毎日捨てている自分も心底嫌いだ。お弁当箱の蓋を開ける。今日はご飯の上に桜デンブが乗っていてきれい。卵焼きには、細かく刻んだ枝豆が入っていて色取りが豊かだ。ほうれん草は胡麻和え。その隣に、一口サイズのハンバーグ。
箸で表面をつつきながら、どうしたら食べられるのか考えてみる。卵焼きを箸で割ってみる。ミルフィーユのように美しい断面。枝豆の青柳色が映える。食欲をそそるはずの光景。箸で卵焼きを挟むと、むっという弾力。ゆっくり口に近付けてみると、ふっと甘い匂いがして、その瞬間、喉に苦いものがこみ上げてきた。唇を噛んで息をはく。
食べられない。今日も食べられない。食べたくない。
「沙湖、食べないのー?」
机をくっつけて一緒にお弁当を食べていたユイが話しかけてくる。
「うん、食欲なくて」
「ダイエット? 沙湖は十分痩せてるから、少しは食べたほうがいいんじゃない?」
「うん、そうだね」
「これ、超おいしそう! 一個もーらい」
ユイは私のお弁当箱から卵焼きを一つ箸で刺して食べた。
「うまー! 沙湖のお母さん、超料理上手」
邪気のない友達というのは本当に大事だ。人畜無害。友達は、それに尽きる。ユイとは毎日お弁当を一緒に食べるし、教室の移動も一緒に行くけれど、私の母がもう死んでいて、叔母さんが母代わりであることは話していない。友達なんて、その程度の仲のほうが、過ごしやすい。
ユイが食べた卵焼き以外、結局手をつけられなかった。毎朝、叔母さんが作ってくれていることを考えると、申し訳なくて居たたまれなくて、私なんかいなくなったほうがいいんじゃないかと思う。私がいなくなったら、ユイは泣いてくれるかもしれない。叔父さんも叔母さんも悲しむだろう。でも、美湖ちゃんは悲しむより先に、傷付くだろう。そう思うと私は、決して自分では死ねないのだ。いつか長雨が花を腐らすように、この体が朽ちていくのを待つしかない。できれば早めに朽ちてほしい。もしくは、通学中に車が私に突っ込んで、不慮の事故というのもありだ。親を交通事故で亡くしておきながら不謹慎なことを考えると怒られそうだけれど、本当に思ってしまうのだから仕方ない。そう思いながら、教室のゴミ箱にお弁当を捨てた。
それから急いでトイレの個室に駆け込む。ブラウスのボタンをはずし左肩を露わにする。そこにカッターナイフで一本細い傷をつける。刃が皮膚を裂く瞬間、一瞬だけキリっと痛い。そのあとは、手の指先がさーっと冷たくなるような、ふわふわした気分。ハンカチで傷を覆ってブラウスを直せば、何もなかったのと同じ。毎日一本ずつ増える、誰にも見えない、私だけの罰。
家でも私はほとんど食べない。ときどき食べても、隠れてすぐに吐いてしまう。特に十四歳になってからは、ほとんど食べていない。あの日の、十四歳だった美湖ちゃんの言葉の意味を理解してから、私は食事がとれない。叔父さんも叔母さんも、すごく心配しているのはわかっている。でも、食べられないのだ。
学校の帰り道。パトカーのサイレンが聞こえて一瞬身をすくます。私は自分の汚れた手を制服のポケットに突っ込んで、俯いて速足に歩いた。
夜、部屋で漫画を読んでいると叔母さんが来て「ちょっと話していい?」と言われた。食事のことだとはすぐにわかった。叔母さんは、食べなくなった私が、まだ何とか飲んでいるアイスティを持って、部屋に入ってきた。小さなテーブルに二人で並んで座る。
「沙湖は、どうしてご飯を食べなくなったの?」
叔母さんは静かに言った。怒っているというより、悲しんでいるように見えた。
「わからない」
下を向いて答える。
「叔母さん、いろいろ調べてみたの。そしたら、沙湖と同じくらいの年齢の女の子が、食事をとれなくなるのは、よくあることなんだって。神経性食欲不振症っていうんだって」
思春期特有の精神的なバランスの不安定さからくるものらしい。私も、そのくらいは自分で調べた。
「食べられなくなる原因はね、母子関係に何か問題がある場合が多いんだって。叔母さん、知らなかった。見放すのが行けないのかと思ったら、過保護、過干渉っていって、構いすぎるのも良くないんだって」
そうなんだ。そこまでは知らなかった。
「ごめんね、沙湖」
えっと顔をあげる。
「叔母さん、ちゃんと沙湖のお母さん代わり、できてないんだなって、反省した」
弱弱しく微笑む叔母さん。違う。叔母さんのせいじゃない。
「このパンフレット、良かったら見てみてね。無理にとは言わないけど、叔母さんも叔父さんも、沙湖の力になりたいと思ってるから。じゃ、おやすみ」
穏やかに言うと、叔母さんは部屋を出て行った。テーブルに小さな冊子が置かれている。淡い水色のパンフレットで、手にとってみると心療内科のものだった。冊子を開くと、摂食障害の若い女性向けの外来が充実していると紹介されていた。
「叔母さんのせいじゃない。いつも感謝してる」
言えなかった言葉を口にした途端、涙が溢れてきた。苦しい。心も体も苦しい。こんなにありがとうって思っているのに、態度で示せなくて悔しい。苦しい。私は膝を抱えて、しばらく泣いた。
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