冥い道を駆ける

柏木椎菜

一話

 瞼に光が染み込んできて、私は目を覚ました。ゆっくりと見え始めた視界には、見覚えのない景色があった。すすで黒く汚れた天井と梁、そこから吊るされた小さなランプ……それを見て私は初めて自分が仰向けに寝ていたことを知った。いや、寝かされていたのか? よくわからない……。


 何となくぼーっとする頭のまま、重い体を起こした。見下ろせば硬いベッドに載っていて、腹から足にかけて毛布がかけられている。自分でかけたものなのか? 周囲を見ると、ここは小さな部屋で、一つだけある窓からは明るい陽光が差し込み、木の床や棚、もう一つの空のベッドなどを照らし出していた。どうやら今は昼間の時間帯のようだ。遠くからかすかに喧騒のようなざわめきが聞こえてくる。ということはここは街の一画なのだろうか。ベッドがもう一つあるのを見ると、この部屋は二人部屋のようだが、私に連れなどいただろうか。それとも仕方なくこの部屋を選んだのだろうか。だとすると覚えがない。なぜ私は見知らぬ部屋にいて、そこで寝ていたのか……思い出せない。


 じっとしていたってわかることでもない。とりあえず動いて誰かに聞いてみないと――そう考えて毛布に手を伸ばした時、私は目を見張った。


「……何、これ……」


 自分の腕を見て呆気にとられた。その表面にはまるで図形のような、かくかくとした絵が描かれていた。それも手首から二の腕まで続くほど大きなものだ。色付けもされており、赤や黄、緑などやけに多彩だ。


 まさかと思い、もう一方の腕も見てみると、そのまさかだった。同じように手首から二の腕にかけて、違う絵だがこちらも多彩に描かれていた。一体いつこんな絵を……誰かのいたずらにしては幼稚なものだ。早いところ消さないと――私は描かれた絵を指でこすってみた。絵具の類なら色が滲むくらいはすると思ったのだが、何度強くこすってみても、絵の形も色も崩れることはなかった。たかがいたずらで、そこまで面倒な絵具を使ったのか? まったく呆れる。絵を落とす身にもなってもらいたい。私は皮膚が赤くなるほどこすり続けたが、やはり変化はなかった。


「……これって、もしかして」


 はっとした。腕を顔に近付け、私は表面の絵をまじまじと見つめた。これは皮膚に絵具で描かれたものではない。皮膚に刺し入れて描かれた絵……いわゆる刺青ではないのか? それならこすったところで消えるはずがない。


 これは単なるいたずらではなさそうだ。もしそうだとしたら常軌を逸している。人が寝ている間に刺青を入れるなんて。でも本当に寝ている間にされたのだろうか。私はなぜここにいるのか思い出せていない。この部屋で寝る前に、自分から刺青を入れてほしいと頼んだとか……いや、入れるにしたって、こんな派手で大きなものを入れるなんて考えられない。それに私は刺青に特段の興味など持ったことはない。たとえ酒に酔っていたとしても、その勢いで刺青を入れるという発想は浮かばない。ではどうしてこんなものを……誰かにそそのかされた? しかしその誰かがいたかどうかすら定かではない。やはり寝ている間に? 思い出せない状態ではどれも自信が持てない。私は一体何をしていたのか……。


 自分を疑いながら、体にかかった毛布を剥がした瞬間、私はまたしても目を見張った。


「なっ……足にまで……!」


 驚き過ぎて思わず声が出た。毛布をめくると、そこには腕のものと同じように、左右の足に一つずつ、大きな刺青が入れられていた。色使いや角張った絵から、腕の絵と同じ人物が入れたと思われる。両腕と両足……他にも入れられているかもしれない。私は自分の体を見下ろし、着ている薄手のシャツの腹部分を恐る恐るめくってみた。


「……!」


 目を疑う余地もなく、それはあった。確認してみると、下腹部辺りから胸の中央まで、角張った絵が入れられている。ぱっと見は子供が数人集まっているような絵に見えるが、独特な筆致過ぎて、見る者によってはろうそくだったり小動物などにも見えるだろう。手足の刺青もよく見れば、動物のような怪物のような、そんな形にも見えてくる。だが図柄がどんなものだろうと関係ない。問題は全身に刺青を入れられたことだ。私の意思なのか、勝手にやられたことなのか……。こんなことをされているのに、どうして何も憶えていないのだろう。自分が気味悪く思えてきそうだ……。


 刺青が視界に入ると顔をしかめたくなってしまう。だからできるだけ見ないようにしてベッドから立ち上がった時だった。


 カチャ、と部屋の扉が静かに開き、私は咄嗟に動きを止めた。


「……あら、起きて歩けるようになったの?」


 私と目が合った中年の女性は、少し驚いた様子で笑顔を浮かべた。


「あなたは……?」


 知らない女性に私は警戒しつつ聞いた。


「ああ、あなたにとっては初めましてなのね。私はもう何度と顔を合わせてるんだけど」


 女性は笑顔を保ったまま、私の前までやって来た。


「私はこの宿の女将よ」


「宿? ここは宿屋だったの?」


「そんなことも知らなかったの? でもまあ、それも仕方ないわね。あなた死にそうなくらい、すごく弱ってたものね」


「え……?」


 私は、弱っていた?


「それも憶えてない? 二週間ほど前のことよ。天気の悪い日でね。ずぶ濡れのあなたを抱えて急に飛び込んで来て――」


「ちょっと待って。私は、誰に抱えられていたの?」


「誰って、あなたの知り合いでしょ? 助けて、助けてって、ずっとうわ言のように言ってたのよ。男性のほうも、あなたのことを随分と心配そうに見てたわ」


 男性の知り合い?


「その人の名前は?」


「聞こうとしたんだけど、異国人だから言葉が上手く伝わらなかったみたいで。それに何だか話したがらない人でね。結局聞きそびれたわ。……知り合いじゃなかったの?」


 男性の異国人……異国人に知り合いなんていた覚えはないと思うが……。


「その人は、今どこに?」


「もうここにはいないわよ。あなたを私に任せて出てったわ」


「どこへ行くとかは……」


 女将は緩く首を横に振る。


「何も聞いてない。悪いわね」


 私は小さく溜息を吐いた。状況を一番知っていそうな人物だけど、名前も行方もわからないのでは仕方がない。女将から思い出せない記憶の手掛かりを聞き出すか。


「私は、どうして弱っていたの?」


「あなたのことなんだから、あなたのほうがよく知ってるんじゃないの?」


「その、記憶があいまいで……ここでのことを教えてくれない?」


「全部忘れちゃったの? まあ、あなたほとんど眠ってたからね……この部屋に運ばれて、彼と私でしばらく看病してたのよ。意識が朦朧としてて、傷なんかもあったから、一時は死んじゃうんじゃないかって心配したわ」


 傷? 今のところ体に痛みや違和感はない。寝てる間に治ったらしい。でも一体どこで傷を負ったのだろう。


「容体が落ち着いてからは、あなたずっと眠っててね。彼に頼まれて私がお世話をしてたのよ」


「そう……それなら、お礼を言わないとな」


「怪我人だったんだから、お世話するのは当然のことよ。そんなのいいわ」


 女将は明るい笑顔を見せる。


「私の看病を終えて、男性はすぐに出て行ったの?」


「すぐじゃないわ。あなたの、ほら、刺青。それを全部彫り終えてからここを出たの」


 手足の刺青を見る女将の視線に促されるように、私も思わず自分の手足を見下ろしてしまった。この派手で目立つ刺青は、私を助けた男性が入れた……?


「この部屋に長いことこもって、どうやら寝る間も惜しんで彫ってたみたいね。それも憶えてない?」


 私は頷いて返した。


「でも、刺青のお願いをしたのはあなたなんでしょ?」


「……よく、憶えていなくて……」


「お願いもしてないのに彫るわけないんだから、きっとあなたの依頼で彫ったものなのよ。まだ完全に回復してないあなたに刺青を彫ってるのを見た時は、正直驚いて止めようと思ったけど、あまりに真剣な顔で集中してたものだから、どうにも声をかけづらくてね……」


「男性は、彫り物師なの?」


「そうなんでしょうね。初めて見るから見学させてもらおうとしたんだけど、気が散るって追い出されたわ。でも出来を見る限り、やっぱりそういうお仕事なんじゃないかしら」


 女将は私の左腕をつかむと、そこの刺青を見ながら聞いてきた。


「……ところで、これは何を彫ったの? やけに角張ってるけど……木? それとも宝石?」


 私には細長く連なった怪物のように見えるが、女将にはそういうものに見えるらしい。


「さあ……私にもわからない」


「わからないものを彫られたの? 図柄の要望はしなかったの?」


「さあ……」


 これしか答えようがない。何せ何も憶えていないのだから。この刺青が望んだものだとしたら、消えた記憶の私は何を考えていたのだろう。不思議でたまらない。


「わかりにくい図柄だけど……でも色鮮やかで綺麗ではあるわね。そこはいいと思うわよ」


 私に気を遣い、女将は正体不明の刺青を褒めてくれる。これが自分の身だとしても、同じように褒められるだろうか。きっと今の私の気持ちのように複雑な心境に変わることだろう。


「ところで、体のほうはもう平気? めまいとかない?」


「ええ、不調は何も感じないけど……私、そんなに弱っていたの?」


「来た時は自分で歩けなくて、ふらふらしてたのよ。でももう大丈夫そうね。私の手も必要ないわね」


「ありがとう。いろいろやってくれたみたいで……私に構わず休んで」


「そうさせてもらうわ。あなたはどうするの? 今夜もここに泊まっていく?」


 聞かれて私は考えた。窓の外を見れば、まだ日は高い。


「いや、出ようかと」


「そう? じゃあ、寝込んでた人にこんなこと言うのも気が引けるんだけど……宿賃、いただけるかしら」


 私の顔をうかがいながら女将が言った。確か二週間ほど前に私はここに来たと言っていたが――


「もしかして、二週間分の宿賃を……?」


 すると女将はすぐに手を振って否定した。


「いえいえ、いただくのは二日分だけよ」


「でも、私は二週間前からここに……」


「その分は彼からいただいてるのよ」


 ああ、なるほど。助けてくれた男性もここに泊まっていたわけだから、ついでに二人分を払ってくれていたということか。


「あなたが回復する期間を考えて、少し多めにいただいたんだけど、二日分足りなくてね……払える?」


 長く世話になりながら払えないとは言えない。しかし私はそんな金を持ち合わせているのだろうか。


「少し、待って……」


 私は女将に背を向け、自分の体をまさぐってみる。シャツとたくしあげられたズボンに手を這わせるが、金が潜んでいる気配はない。他に私は何か持っていないのか――ベッドに目をやるが、枕と毛布しか見当たらない。視線をずらし、ベッドの横を見ると、その陰に革のかばんが置かれているのに気付いた。何となく見覚えはあるが、でも自信はない。けれどここにあるということは私の持ち物なのだろう。


 つかみ、ベッドに置いて中をのぞいてみた。それほど大きなかばんではなく、中にはぎっしりと物が詰まっている。一番容量を取っているのは着替えだ。次に食料……私は旅行でもしていたのか?


 さらに奥を探ると、硬い手触りを感じた。そしてジャリ、という音。よかった。この袋の中に金がありそうだ。私はそれを引き出そうとして、ふと手を止めた。冷たい物が手の甲に触れて、その存在を私に知らせてきた。それは鞘に収まった二本のナイフだった。護身用――すぐにそう思った。特に怖いとも感じず、当たり前のような感覚がある。私は常に、こんな武器を携帯している――


「はっ……」


 頭にわずかな閃きがあった。そうだった。私の職業は――


「宿賃、ありそう?」


 背後からの女将の声に、私は我に返った。


「……ええ。どうにか。いくら払えばいい?」


 私は金袋を取り出し、女将に言われた宿賃を手渡した。


「どうも。確かにいただきました。短い間だったけど、別れるとなるとちょっと寂しいわね。病み上がりなんだから、あんまり無理しちゃ駄目よ。また具合が悪くなったら戻って来ていいからね」


「本当にありがとう。世話になった」


「いいえ。それじゃあね」


 女将が笑顔で部屋を出たのを見て、私はすぐに支度を始めた。まずは着替えよう。薄手のシャツから生地のしっかりした動きやすいシャツに替え、その上にマントを羽織る。たくしあげられたズボンを直し、ベッドの下に隠れていたブーツを履く。これで派手な刺青は隠せた。寝ぐせはないかと首まで伸びた黒髪を軽く整えて、身だしなみはこれでいいだろう。次にかばんから二本のナイフを取り出し、一本をベルトの左側に、もう一本を背中側に差し込む。これで暴漢にも追い剥ぎにも対応できる。準備はできた。出発だ――かばんを肩に背負い、私は二週間ぶりに歩き出した。


 女将に別れを告げて宿を出ると、辺りは喧騒に包まれていた。建物が密集した路地の向こうには、多くの人が行き交う光景が見える。雑多で、活気も感じる、見覚えのある景色と空気――私の知っている街だ。王都の南に位置するアーメルナヤン。記憶が正しければそのはずだ。でもなぜここに? 男性に運ばれて来たらしいが、そもそも私の仕事場は基本的に王都のはずだ。まさか王都からここまで運ばれたわけではないだろう。距離もあるし、途中には峠もある。手段はどうであれ、人一人運ぶには労力もいるし、手間もかかってかなり面倒なことだ。しかし男性は私を助けてくれた。そしてどういうわけか派手な刺青を入れ、姿を消した。この行動だけは、いくら考えても理解ができない。その男性と私は知り合いなのか? 話を聞かされても顔や声すら思い出せない。自分が怪我をして弱っていた理由も……。私は、何をしていたのだろう。こんな荷物を持っているのだから、おそらく何かしらの目的があったはずだ。頭の奥底にちらちらと影のようなものは見えるが、今はそれが限界だ。そのうちに思い出せるといいが――小さな不安を胸に、とりあえず私は街中へ歩き始めた。

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