第23話 危なっかしい天下無双
揺らぐ意識の中、辺りは暗い。一条の光すら奪われた漆黒の闇だ。見える物、触れる物のない世界で、ただ声だけが聞こえてくる。それは男の懸命なもの、あるいは女が嘆くものであるが聞き取れない。響きが不明瞭で、輪郭がない為だ。ともかく必死である事だけは理解できた。
その声が過去に聴いたものか、それとも荒唐無稽な妄想かは、アクセルには分からない。考察を重ねても思い当たるフシもない。
やがて意識が徐々に覚醒に向かうと、それに伴って声も遠ざかっていく。そして全てが聞こえなくなった頃、視界は白み始めた。
「ここは……?」
アクセルが最初に視たのは、ガラス作りのシャンデリア。窓から指す光で微かな輝きをみせた。身を起こそうとした所で、妙な柔らかさに気づく。純白のシーツと綿の詰まったマットレスは、彼の身分には不釣り合いだった。両手を伸ばしても余るサイズのベッドは、庶民に取っては手の届かない、貴族御用達の一品である。
そして足元の方へ目を向ければ、人の姿があった。椅子に浅く腰掛け、ベッドの端に顔を伏せながら寝息を立てている。あどけなさを残す顔立ち、アゴ先にかかる青い髪。今や見慣れた相手である。
「サーシャ。そこで何をしている」
「えっ……アクセルさん……ッ!」
緩やかに持ち上がった顔は、憔悴しきっていた。頬は涙に濡れ、両目の周りも黒く、不健康そうに見える。
しかしこの時ばかりは、サーシャも自分の見た目など顧みない。今度は頬を感涙に濡らして、アクセルの首元に抱きついた。
「良かった、生きててくれて良かった! 死んじゃうかもと思って心配したんだから!」
「すまない。私としては、眠りこけていた気分なのだが」
「全然そんなんじゃなかった。丸一日起きないんだもん。寝返りもしないし。たまに呼吸が止まって、フゴッていうの。もういつ死んじゃうかと、気が気じゃなかったもの」
「そんなにも長々と? 私としては実感が薄い。その間の世話をしてくれたのなら、感謝する」
「そこは良いよ、アタシも大した事してない。でもね、村長の家まで運ぶのはスゴく大変だったの。あぁ、もう元村長だよね」
「重いのは剣のせいだろう。かなり苦労したはずだ」
「大人10人くらいで運ぼうとしたんだけど、全然ダメで。結局は丸太を並べて、上で転がす感じで運んだんだよ。大規模建築かよって、誰かが言ってた」
「うむ。なんというか、世話になった」
アクセルは時間の感覚が曖昧になっていた。ほんの仮眠程度のつもりでも、今はコエルを討伐した翌日だという。
何か短い夢を見ていた気もしているが、既に忘れてしまっている。確かな達成感と気怠さが、不確かな夢の記憶を遠ざけるのだ。
「そうか。私は一日中寝ていたのか」
「よっぽど疲れてたんだね。村の方は、あれから落ち着いてるよ。魔獣も襲って来てないんだ」
「いや待てよ、それはマズイな」
「どうして? どこがダメなの?」
「師匠への報告を怠った。ここまで遅れると問題になりかねん」
「あぁそっち? 別に良いんじゃないかな、たまにはお休みしても」
「ともかく私の荷物を。頼む」
アクセルは薄汚れた革袋を受け取ると、すかさず通魂球を手に取り、ソフィアの名を呼んだ。
すると反応は、普段よりも早かった。まるで、今か今かと待ち受けていたかのようなタイミングである。
「師匠、お待たせしております。報告の……」
「遅すぎるぞ、何かあったのかアクセルゥゥ! 無事か? 生きているか? 首は胴に繋がっているか? 両手は、足は、指はあるか? 優雅に寝転がっておらんで早く全てを見せろ!」
「はい、申し訳ありません」
アクセルは幻影の正面に立って、健在な全身を見せつけた。それからローブの裾をまくり、雄しべもボロンと出そうとしたが、激しい叱責で止められた。
コノ ドヘンタイチーフ!! モウシワケナイス。
「まったく、スヤスヤと眠りこけていたとはな。一言くらい連絡を寄越せ。こっちは徹夜までしたというのに」
「はい。以後気をつけます」
「貴様は今、叱られているのだぞ。何をニマニマ笑っている?」
「金輪際、心配いただけないものと考えていました。そのお気遣いが嬉しくて堪りません」
「今のは違うし! ちょっと確認したかっただけだし! だから心配じゃない調子に乗るなよ!」
「はい。申し訳ありません」
「まぁ良い。貴様が無事なら、後はどうとでもなる」
「それはそうと師匠。薬が尽きてしまいました。作成法を教えていただけますか?」
「何!? 一体どれだけ怪我をすれば、こんなに早く無くなるのだ……」
調合法を尋ねてみたのだが、再作成は極めて難しい事が分かる。素材が希少品ばかりで、入手の目処が立たないのだ。
「無いものは仕方がない。当面は市販薬で凌げ。薬が出来次第、また貴様にくれてやる」
「ありがとうございます。今後も魔獣と闘う事が予想されるので、あの薬があると安心できます」
「それはそうと、グレイウルフの件はどうなった?」
「既に撃滅したようです。大した敵ではありませんでした」
「事もなげに言うがな。本来であれば、軍を組織して、数的有利を活かして戦うものだぞ」
「確かに冷や汗を覚える局面はありました。しかし通常状態ならば、難敵とは思えず。ただ気になるのは、目眩です。何の前触れもなく、唐突でした」
「ふむ。さては貴様、長々とその剣を抜いたな? 恐らくは魔力損耗を起こしたのだ」
「マリョクソンモー?」
「気づいているとは思うが、その剣は特別な剣だ。精霊の力を借りる事で、無類の力を発揮する。だが絶大な威力を発揮する代償として、使用者の魔力を容赦なく奪ってゆく。安易に抜くなと命じたのは、そんな理由でもあるのだ」
「なるほど。長時間の使用は控えるべきであると」
「貴様の事だ。どの精霊を呼び寄せたか察しがつく。刀身は炎のように赤々としたものか、あるいは流水を思わせる蒼に輝いたのではないか?」
アクセルは僅かに考え込む。剣は数多の色が混ざり合い、純白の輝きを放っていた。色彩の按配も、根本と切っ先でまた違う。とりあえず返答に窮した。
「色を問われましても、少し悩ましいです。どう答えたものか……」
「フン。大方、ぼんやりしすぎて失念しているのだろう。貴様のことはお見通しだ。師匠の眼力を甘く見るな」
「申し訳ありません。以後、注視する事にします」
「そんな必死にならんでも。今抜いてみれば答えが分かる」
「はい。では剣を……?」
アクセルの腰にあるべき物が無い。辺りを見渡すと、剣はベッド脇の床に転がされていた。それを手に取り、鎖を解こうとした。しかし上手く外せない。
身体から力が抜けてしまった感覚がある。留め金を外すために鎖を持ち上げようと試みるも、全く持ち上がらない。それは彼にとって初めての経験である。
「アクセル、あまり無理をするな。剣の件は、また後日に見せてもらう」
「はい。ご期待に添えず、申し訳ありません」
「今のは後遺症だ。一度、魔力損耗に陥ると長いぞ。体力が戻るまでは安静にしていろ」
「承知しました」
それからも対話は続いた。するとどこかで、乳首がどうのという話題になり、最終的にはソフィアの叱責によって幕を閉じた。
「ふむ、魔力損耗か。あまり派手に動かん方が良いらしい」
「アクセルさん。最後におっぱいの話する意味ってあったの?」
「だが寝たきりも身体に毒だろう。少し村の様子を見て回ろうか」
「ねぇってば」
アクセルは革袋を背負うと、豪奢な部屋を後にした。屋敷の廊下を行く。ゆっくりと緩やかに、さながら老人のように。
「相変わらず邪魔くさいというか、物で溢れているな。この家は」
時々つまづいて、窓辺の花瓶を落としてしまう。無数の破片となって散らばるのは、数万ディナもの調度品だ。しかしアクセルには価値がわからない。変な形の瓶が壊れた、と思うばかりだ。
サーシャはある程度の価値を認識しており、まず青ざめた。そして下手くそな口笛を吹きつつ、あらぬ方に顔を向けては、後ろ足で破片を物陰に追いやる。人知れず証拠隠滅する様は、どこか涙ぐましい。
それからもアクセルは遠慮なく、縦横無尽になる。絨毯をカカトで引っ掻き、あるいは壁の油絵に寄りかかっては粉砕してしまう。
どうにか旧コエル邸から出たのだが、全く安心できない。アクセルは坂道や段差を迎える度に転げ落ちそうになり、怪我こそないものの、全身は砂埃に塗れてしまう。
ついにサーシャは手に負えないとばかりに、アクセルの背中に抱きついた。
「どうした? 今は余裕がない。寄りかかられても困る」
「これは、その、支えるためだから。だってフラフラなんだもん!」
サーシャは潜り込むようにして、アクセルの側面へと回った。そして脇の下から担ぐ姿勢になる。
「私はそんなに危なっかしいか」
「そうだよ、普段から」
「普段も? さすがに言いすぎだろう」
「この際だから言っておくけど、アクセルさんは格好良いの」
「そうか」
「戦えばもう、シュバァッて強くて、最強だと思う」
「そうなのか」
「でも割と変な人だよ」
「そう見えるか?」
「うん。だから、アタシがこうして支えてあげるの。そしたらきっと、上手くいくから!」
サーシャは自らの意志で語ったにも関わらず、途中から疑問になる。自分は一体何を言っているのかと。咄嗟とは言え、多感な年頃の少女が男に抱きつく事は、かなりの動揺を与えるものである。
熟れたリンゴのように染まる頬が恥ずかしくなり、さらに赤くなる。そして、恐る恐る顔を見上げてみると、アクセルの微笑みが見えた。
「そうか。ならば今だけは、その好意に甘えよう」
サーシャは口角を大きく持ち上げると、だらしない笑みをアクセルに向けた。その心のうちは、彼女の語り口調の端々からも自明だった。
「それにしても、こんな姿でエヘッ村の中を歩エヘッいたら、恋人エヘヘ同士とか噂されちゃいそうエヘーー」
「いや、違うな。介護だと言われるだろう」
アクセルは道の先を指さした。そこには、杖つきの老人が孫娘に支えられながら、曲がり角を行く所である。奇遇なことに、立ち位置や支え方もアクセル達と同じだった。
「介護、フフゥン介護ね。そっか残念だなーーウフフ」
この時、真っ赤に染まった乙女心は蹂躙されてしまい、手堅いダメージを受けた。無防備に開かれた心は、哀れにも大きな浅傷を刻まれてしまう。
無論、アクセルにその自覚はない。心に浮かんだ言葉を、素材そのままにリリースしただけだ。こういった短所はいまだに治らない。
「こうして見てみると、意外にも被害が少ない。村は破壊を免れたのだな」
「そうみたいだね。まぁ皆が皆、家の中も外も逃げ回ったから、色々壊れてるみたいだけど。お皿が割れたり、椅子が壊されたり」
「些末だ。どれも命には代えられん」
「うん、そうだよね。死んだ人は1人も居なかったって。それだけでも本当、感謝すべきだよね」
村の破壊は軽微だといっても、一部では深刻だった。主に村の中央付近である。馬鹿重たい鎖が穴を穿ち、巨大な魔獣を叩きつけた事で石畳は激しく割れた。人は歩けても馬車は通れない。村の動脈とも言える大通りが歪になった事は、損害としては大きい方だ。
破壊の原因はアクセルなのだが、彼を非難できる者などいやしない。むしろすれ違う人が皆、帽子をとってまで会釈をする。概ね感謝、あるいは敬愛されていると言って良い。
「これを直すには時間がかかりそうだ。金も要るのだろう?」
「そこは、元村長のお金を使うんだってシナロスさんが。あっ、噂をすればホラ!」
曲がり角から現れた白髪の老人をサーシャが指さした。彼の足取りはどこか覚束ない。
「おうアクセル。ようやく目覚めたのか」
「シナロスか。私は意図せず、丸一日眠っていたらしいな。ところで、その杖はどうした?」
「情けないことにな、あの晩に腰をやってしまったよ。しばらくはコイツが手放せんな」
「いわゆる、年寄りの冷や水というものか」
「やかましいわ。お前さんも人の事を言えんだろうが。その姿はさながら、介護を受けるジジイの様ではないか」
再び介護と評された事で、サーシャの笑みが暗くなる。シナロスも乙女心に疎い性質(タチ)らしい。
だが、そんなものは比較にならない程、青天の霹靂とも言える衝撃発言が飛び出した。
「そうそう、アクセルよ。お前さんに用があったのだ。目覚めているなら好都合というもの」
「何の話だ?」
「魔獣から解放されたのだから、酒で祝おうという話になった。豪勢なメシも出る。主賓にお前さんを招きたいと思ってな。どうだろう?」
「だそうだ。サーシャ、お前もどうだ?」
「せっかくだから参加するよ。というかアクセルさんはお酒を飲んじゃダメだからね? ただでさえ弱いのに、療養中だもん。ロクな事にならないよ」
「そういう事だ。食事を2人分用意してもらえるか」
「あぁモチロンだとも。それよりもだアクセル。お前さんは引っ張りダコになると思うぞ、覚悟しておけ」
「どういう事だ? タコを演じろと?」
「人気者になったという話だ。若い娘連中など、お前さんの話題で持ちきりだぞ」
その言葉を聞いた途端、サーシャは息を飲んだ。そして抱きしめる腕の力を強めてゆく。すがるような視線もアクセルの横顔に向けながら。
想いよ届け。他の女になんか興味を持たないで。それは儚くも、いじらしい祈りであった。この一途な乙女が向ける、ひたむきな顔と言ったら、精霊石に勝るとも劣らない美しさである。潤んだ瞳が長いまつげを湿らせ、何かを伝えようとして開かれた口は、ためらいから言葉が出ない。完璧だ。1枚の絵に残したくなるほど、会心の懇願である。
よほどの相手でなければ、心を震わせて靡き、サーシャに注目するだろう。だが哀しいかな。お相手は乙女心を一切理解しない、絶望的なまでの朴念仁であった。
「ではシナロス。諸々準備を頼む」
「分かった、特等席を用意しよう。女どもに囲まれて忙(せわ)しないだろうが、そこは上手くやれ」
「ンガァァ……アクセルさん、出るの? 出ちゃうの、その淫靡なる集いに?」
「そのつもりだ。サーシャは楽しみでないのか? 豪勢な料理だと言うぞ」
「今は、興味無いかな! そんなのよりアクセルさんの手料理とか食べたいな!」
「悪いが、身体が動かない。金もないから店で買うこともできん。料理をご馳走してくれるなら、渡りに舟だ」
「えっと、その、今日くらいはアタシがやろうか? 実はコオロギ捕まえるの得意でさ」
「そんな苦労をする必要はない。シナロス、その催しはいつから?」
「間もなく始まる。場所は、村を出てすぐの広場だ。近くまで行けば分かるだろう」
「分かった。では行こうかサーシャ」
「あぁ何てこと。アクセルさんの貞操はアタシが守らなきゃ……!」
こうして2人は宴に参加する事になった。ご馳走の上にタダ飯である。無一文の境遇においては、何よりも有り難い。それにアクセルからすれば、ようやく嫁探しに専念できるのだ。自然と足取りは軽くなり、鋭い眼も穏やかである。
一方でサーシャは神経を尖らせた。丸い瞳を一層大きく見開き、怪しい挙動が無いか監視する。敵は大人の色香を纏う女たち。分が悪い自覚はある。それでも想いだけは曲げられない。場合によっては身を挺して庇い、淫靡な猛攻を凌ぐ覚悟である。
2人の真意が噛み合わなくとも、やがて広場へと辿り着く。待ち受けた人々に、歓声とともに迎えられた。果たしてアクセルは、この機会に嫁を手に入れる事ができるのか。答えは間もなく明らかとなる。
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