第20話 老いの後悔
雑貨屋の主シナロスは、商才に欠ける男であった。父から受け継いだ店を大きくするどころか、傾かせる一方。彼の生来から来る優しさは、気弱さとなって現れた。幾度となく商機を逃し、損失は大きく、資金繰りも年々苦しくなっていく。
妻に先立たれてからは大きな失敗が続き、窮地に陥ってしまう。さながら、坂を転げ落ちていくようであったと言う。
「思い返せば、自棄になっていたのかもしれんな。子宝に恵まれなかったワシら老夫婦にとって、お互いが唯一の拠り所であった。妻を亡くした当時、自分が何をして、何を思ったか。あまり覚えておらんのだよ」
それからも経営不振は続き、下降線を辿ってゆく。過酷なる運命は、傷心の老人に対しても容赦がない。働いても働いても報われぬ日々。徐々に目減りする蓄えは、いつしか底が見えるようになる。そこで一念発起し、投資を始める事にした。
「王都で新事業が立ち上がるからと、出資を誘われたのだよ。必ず儲かると聞かされ、散々悩みはしたが、乗ってしまったよ。それが良くなかった」
シナロスは迂闊にも、店の運転資金を注ぎ込んでしまった。形勢不利な人間は、現状の窮屈さを嫌い、逆転の策を選びがちだ。そしてそれは、往々にして失敗するものである。
「とうとう商品の仕入れすら出来なくなり、借金を重ねるようになった。店は相変わらず赤字ばかり。頭を下げては目先の金を借り続けたよ。だが、それも限界は来る」
とうとう日銭分すら困るようになり、進退窮まる。もはや最後の手段だと、店を手放そうと決心した。それで借金を返済して、僅かに残るだろう金だけ持って、当てのない旅に出ようと。
「断腸の覚悟だったよ。亡き父と、妻の思い出が残る生家だ。誰の手にも渡したくはなかった。それに、老い先短いジジイが、小銭を元手に何が出来るという。見知らぬ土地で野垂れ死ぬのが、関の山だろうさ」
シナロスが店を畳もうと片付けていると、コエルがやって来た。顔見知り程度の間柄で、特に親しくする相手ではなかった。
コエルは「仕事を手伝ってくれるなら、これをやる」と言い、麻袋を見せつけた。中身は全て金貨で、袋を置いたカウンターが音を立てて揺れた。細かく数えるまでもなく、大金だと分かる。
「庶民の私には、中々お目にかかれない額面だったよ。しかし、魂を売り渡すのに十分だったかと問われれば、悩ましい所だな」
コエルから任された仕事は難しくない。月に一度、村の郊外で取引を交わすだけで良い。確実に『品物』を渡して、受け取った代金をコエルまで届ける。それだけだった。もちろん、他言はしないという約束付きで。
「先程は、石化した犠牲者を売ろうとしたが、以前は生きた人間だった。兎贄だったり、予め捕らえていた遭難者だったり」
「予め捕らえていた?」
「時々、よそ者が山中に迷い込むらしい。不思議と若い娘さんばかりだったが、詳しくは知らない。手配したコエルも、ワシに多くを語ろうとはしなかった」
「今なら分かる。きっと無法を働いたのだろう」
「取引の日はとにかく憂鬱だった。彼女たちを後ろ手に縛り、猿ぐつわを施した上で、人目を忍びつつ現場へと向かう。そうして度重なる取引を。月に数人ほど、何度も、何度も繰り返し……」
シナロスは自身の頭を両手で掴んだ。指先がわななくほど、強い力が込められている。まるで自らの頭を砕きたいかのように。
「彼女らは言葉にならない叫びをあげていた。涙に濡れた瞳は間違いなく、助けてくれと訴えていた。なのにワシは、ワシは……何もしなかったんだ! 取引の後、何者かの下へ連れて行かれて、不幸な目に遭うだろうと知っていても。ワシはおめおめと、黙って見送ったのだ!」
シナロスの白髪頭が乱れる。歯を食いしばった口から、嗚咽も溢れ出た。
アクセルはかける言葉が見つからない。それは背後に佇むサーシャも同じだった。
「今日の今日まで苦しかった。別れ際の叫び声が、頭から離れんのだよ。朝も夜も、飯時も。夢に見て、夜中に跳ね起きる事も珍しくはない。こんな想いをするのであれば、やはりあの時、流民にでもなっておくべきだった。野垂れ死ぬ方がよほど幸せだったろう」
そこで話は終わった。静寂は暗く、重たい。不意に訪れた夜風がシナロスの頬を撫でると、老いた体が徐ろに立ち上がる。そしてアクセルの前で両膝をついた。
「この苦しさもようやく終わる。せいぜい1年程度だが、ワシにはあまりにも長すぎたよ」
シナロスは、うつむいた頭を更に低く下げた。
「アクセルよ、最後の依頼だ。ワシの首を斬り落としてくれ」
「正気か?」
「ワシはもう疲れたよ。商才も無ければ、悪党を続ける鈍感さも無い。自ら首を吊る度胸さえ無いときている。自分の後始末を、行きずりのお前さんに任せるのは、実に情けない事だと思う。だが、敢えて頼みたい」
「本当に死を望むのか?」
「ひと思いに頼む。報酬は、店に残されたもの全てだ。好きなだけ持って行っておくれ」
「後悔しないのだな?」
「もちろんだとも。この世に対して、悔いも心残りもないよ」
アクセルは返事もせずに立ち上がった。剣を逆手に持ち、シナロスの背後に回る。白く細い首が、力なく項垂れるのが見えた。
「ローズよ。あの世で会えたら、お前は何と言うのだろう。泣き顔で叱られるかな。平手打ちくらいは飛んでくるかな。それでも良い。もう一度、お前に会えたなら……」
シナロスが口を閉じたと見れば、アクセルは剣を振り上げた。その時ばかり夜風が止む。虫の音も聞こえない。世界から物音が消えたと錯覚するほど静かだ。
躊躇なく振り下ろされる刃。真っ直ぐ、下に向けて。そしてザクリと響く音が、静寂を打ち破った。
「な、なぜだ……?」
シナロスは、いまだに胴と繋がったままの首を、緩やかに持ち上げた。彼の瞳は、困惑と非難が入り混じっている。
「なぜだろうな、殺してはいけない気がした」
「頼む、後生だ。早くこの罪から解放してくれ!」
「お前は言っていたな。自分で死ぬことが出来ないと。それはもしかすると、この世に為すべき事があるからでは?」
「この、手の汚れきった老いぼれに何が……。一体何をしろと……!」
地面を拳で叩きつつ、身を震わせるシナロス。その背中を小さな手のひらが、優しく撫でた。
「アタシも、おじさんは死ぬべきじゃないと思う。多分、売られちゃった子達も、そう言うんじゃないかな」
「取り返しのつかない事をしたんだ。金のために、ワシが不甲斐ないばっかりに!」
「皆が望むのは、ひどい状況から抜け出す事だよ。恨みを晴らしたいとかは、そんなに考えてないよ」
「……そうか。ワシが死んだとて悲劇は終わらない。兎贄は殺され売られ、どこぞの貴族共の慰みとなるのだ」
シナロスは自らの足で立ち上がった。そしてアクセルの顔と真正面から向き合う。疲れ切った顔だが、瞳には強い生気が感じられる。
「アクセルよ。やるべき事が残っていた。コエルを糾弾せねばならん。ワシも力を貸そう。奴の悪事を明るみにし、証明するために」
「なるほど。それは助かる。生き証人が居るとなれば、かなり有利に……」
アクセルの言葉に、獣の声が重なった。ひとつ、ふたつ、そして無数に。それらはグレイウルフの遠吠えだった。
「こんな時に魔獣か。しかも数が多い」
「いかん! 2人とも馬車の方へ行きなさい!」
アクセルはその言葉に従い、サーシャを小脇に抱えて駆け出した。幌馬車の中は石像で満載だ。仕方なく、幌の口を背にして身構えた。シナロスも馬車を背にして、暗がりの方を睨みつけた。
漆黒の闇に蠢く真っ赤な光。それは右に左にと彷徨うのだが、一向に攻め寄せる気配を見せない。
「襲ってこない。どうした事だ。ランプの灯りによる効果か?」
「いや違う。この馬車には魔法がかけられているのだ。幌に術式があるだろう、それが魔獣除けだ」
「そういう事か。では馬車から離れたら危険なのだな。少し試してみよう」
アクセルは足元に手を伸ばした。そうしてつまみ上げたのは、ローブ姿の男である。いまだに気絶しており、拘束されたままだった。
その男を虚空に向かって放り投げた。落下地点はランプの灯りが届かぬ暗闇だ。そこを目指して赤い瞳が駆けて集まりだす。やがて激しい物音が聞こえ、間もなく静かになった。
「確かに。ここから離れると襲われるらしいな」
「ねぇアクセルさん! 試すってそういうやり方!? 縛った人を放り投げて、だとか、ちょっと酷すぎるけど!」
「サーシャよ。こいつらは、罪無きお前を殺そうとした。それだけで万死に値すると思わないか?」
アンモウ、ダイシュキィィ!
「えっと、アクセルさんがそう言うなら、別に止めないけど?」
「では続けようか。もう少し手前だと、どんな結果になるかな」
アクセルは更にもう一人を投げた。落下したのは、微かに灯りの届く所だ。やはりグレイウルフが集まり、男の体を噛みちぎってゆく。そして薄ぼんやりとした暗闇で、石像が1体出来上がるのに、大して時間はかからなかった。
「なるほどな。ではあと半歩分だけ手前なら、どうなるだろう」
最後のローブ男を摘み上げようとしたが、こちらは意識があった。アクセルの手が伸びると、高い悲鳴を撒き散らした。
「うわぁ止めてくれ、殺さないで!」
「なんだ、起きていたのか。ならば話を聞いていたろう。お前たちは、一方的にサーシャを殺そうとした。ならば、こうして無惨に殺される運命も受け容れるべきだ」
「いやいやいやオレじゃねぇ! そこのガキを殺そうとしたのは最初に投げたやつだ。頼むよ助けてくれ、何でもするから! な、な?」
「そうか。今の言葉を忘れるなよ」
アクセルはそう言い残すと、闇に身を躍らせた。戯れめいた実験は終わり。敵の駆逐に乗り出したのだ。
無数に蠢く赤い光。十重二十重に飛び交う殺意。何十体もの獣の身体は、無明の闇が覆い隠してしまう。視覚など当てにしたが最後、見えない敵に翻弄されるだけだ。体中が爪や牙に蹂躙され、瞬く間に命を落とすだろう。
しかしアクセルには視える。些細な情報だけを頼りに、見えない物を視る技術を培っていた。それは師匠ソフィアによる、厳しい訓練の賜(たまもの)である。
◆
神精山での、とある昼下がり。ソフィアは木剣を片手にしつつ、得意げにふんぞり返っていた。
「ふふん。残念だったなアクセル。今日は中にもう1枚着込んだからな。ポロリなんて期待するなよ」
純白のローブの下に、黒い布が見え隠れ。ゴムを仕込んでいるため、身体にフィットしている。確かに万が一でさえも、胸元がはだける事はあるまい。
しかしアクセルは挫けない。切れ長の瞳を更に細めながら言った。自分には全て視えていると。
「何を言い出すかと思えば。嘘はよせ。どんなに凝視しても無駄だ。透けたりはしない」
それでもアクセルは諦めなかった。眼前の、巨大に膨らむ胸元の先に、薄桃色の先端がある事は知っている。
そこに、ある。確実にある。後は想像力を爆発的にまで膨らませて、現実を補完するだけだ。そうすることで、ソフィアの貞操を守る布は、もはや存在しないも同然となる。
◆
「全て視えているぞ、丸見えだ!」
アクセルは魔獣達に向かって叫んだ。
実際、グレイウルフの攻撃は虚空を裂くばかり。頭上からの攻撃も、背後からの急襲も、数を活かしての包囲戦法の全てが通用しない。彼らが誇る俊足さえも、アクセルの神速に及ばなかった。
結局は、一方的な戦闘となる。グレイウルフ達はアクセルの影すら踏めず、拳や蹴りを浴びせられ、討ち倒されていく。そして、無数の赤い瞳が黒煙に包まれると、攻勢は止んだ。
「終わったか。面倒な奴らよ」
何体打ち倒したのか、死体が残らないので確かめようがない。アクセルも、10体以降は数えるのを止めていた。ともかく、周囲から殺気が消えたことは間違いない。
「さてと。こっちの面倒事も片付けようか」
アクセルは馬車の方へ歩み寄った。驚愕するシナロスの前を通り、熱っぽい視線を向けるサーシャの脇を抜ける。そして足を止めた。拘束されたローブ男の側で。
「ひぃぃ、殺さないでくれ! 頼む!」
「殺しはしない。何でもすると言った事、忘れてはいないな?」
要求は、それなりに強烈なものだった。まず馬車にしまった石像を全て出すように申し付ける。男は一人きりで、額に滝のような汗を流しながら、どうにか6体全てを外に出した。
その間にアクセルは、石化した2人のローブ男を馬車にしまう。その脇に、石像の代金として用意された金貨袋を添えておく。金は手つかずで、そのまま突っ返すつもりだ。
そうして全てが整うと、最後にこう告げた。
「お前の親分に伝えろ。渡せる石像はない、諦めろと」
「いや、それは、閣下がメチャクチャお怒りになるんだが……」
「ならばお前もここで死ぬか? 御者くらいは残した方が良いと踏んだが」
「いえいえいえ! 任されました、そんじゃ失礼しますぅぅ!」
男は慌てながら手綱を握りしめ、馬車を走らせていった。後ろ姿は闇に溶け込み、やがて車輪の音も聞こえなくなる。
「行ったか。残すはコエルの裁きと……」
アクセルは石像を眺めつつ言った。
一応、被害者たちに治療を施した。師匠から譲られた妙薬だ。しかし、石化してからの時間があまりにも長すぎた。いつぞやのアクセルのように、生身の身体に戻ることを期待したが、姿形に変化は見られなかった。
「どうにか治してやりたいが、厳しい。手段が分からん事にはな……」
「もういいよ、アクセルさん。無理なものは無理だと思うから」
「サーシャが良い、と言うのなら」
「こんな形で会えたのは残念だけど。父さんも母さんも、凄く辛そうな見た目だけど、大丈夫。ずっと覚悟してたから」
手遅れである事は一目瞭然だ。サーシャも、長々と食い下がりはしなかった。シナロスも、力なく肩を落とすだけだった。
結局、石像の扱いは保留。森に安置すると決め、彼らは村へと戻った。コエルを糾弾する必要がある。それは翌朝に決行する事になり、今は仮初めの休息が許された。
ただしアクセル達に宿はない。昨日までと同様、厩(うまや)の一角を間借りするのだ。
「ただいま。お馬さん、タヌキさん。今帰ったよ」
「ヒヒン」
「タヌッタヌ」
「起こしちゃったかな、ごめんね。アタシ達ももう寝るから」
「タヌッ」
サーシャは手短に挨拶を済ませると、藁の山に飛び込んだ。見えるのは足の先くらいで、全身が埋もれる格好だった。
アクセルもその脇で腰を降ろし、壁に目を向けた。
薄暗い中、木板にシミが見える。それを眺めるうち、やりきれない想いに包まれた。
「一見して、のどかな村でさえも、悲しみが多く隠されている。せめて新たな悲劇だけでも防いでやるか」
誰に対する誓いか。それとも自分自身に向けたものか。アクセルには分からない。
それからしばらくして。アクセルが浅い眠りに落ちた頃、辺りは騒然とし始める。絹を裂くような悲鳴、そして逃げ回る足音。
その数は多く、まるで村全体が危機に陥ったかのようであった。
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