第14話 宿命は風に攫われて
お前は『兎贄(とにえ)』だと言われた日の事を、サーシャは鮮明に覚えている。
まともな灯りのない、月光だけが差し込む一室で告げられた。暗闇に浮かぶコエルの横顔は、背筋が凍るほどに冷たかった。かつて両親が見せたような、優しく包み込むような、慈愛に満ちたものとは全く違う。
冒険者を父に持つサーシャは、旅人一家である。しかし不運なことに、街へ移動する最中に家族全員が流行り病に倒れてしまう。唯一、辛うじて生き残ったサーシャだけが、シボレッタ村に囲われたのだ。
身寄りの無い子供が、果たしてどのように扱われるか。それは庇護者のモラルに依存する。
「お前は兎贄だ。大事があれば人柱として死ぬ役目が与えられる。その日が来るまでの衣食住と、身の安全は保障しよう」
自分が、牛などの家畜よりも劣る命だと知った時は、体の底から震えた。その一件を境に、彼女の世界は色を喪った。揺らぐ炎も、夜空に煌めく青い月も、季節の花々でさえ灰色一色になる。全てが自分と無縁の物だと、心の中で切り離してしまったのだ。それが原因かは定かでないが、あまり気にしなかった。傍目から眺めていても、愉快な世界ではないからだ。
「どうせそのうち、アタシは居なくなっちゃうし……」
一応は生かされている。粗末であっても食事はあり、ボロの服は用意され、最低限の寝床は確保できた。
しかし、生き続ける事は許されていない。自由に村の外を出歩くことも出来ず、村の中で季節が流れゆくのを眺める日々。村長宅の下女と揃って雑用をこなし、夜はたった1人で眠る。生の実感は乏しい。ただ動くから手足を働かせ、眠たくなるから瞳を閉じるだけである。
人並みの幸せなんて見えやしない。例えば仕事を得て、恋に落ちて結ばれるという将来は、コエルによって奪い去られていた。
「それも仕方がない。運命なんだ。本当なら、アタシはあの日に死んでいたはずだから」
心が苦しくなると、サーシャは決まって遺品を取り出した。金色に輝く金貨。何かあった時の為と、父から預かったものだ。価値は一千ディナに値する。優に半月は食い繋げる額面なのだが、手放そうとは思えなかった。今となっては唯一とも言える、家族との繋がりなのだから。
手に取ると、金色の輝きが眩しく、温もりも感じられた。彼女の世界は色を喪っている。ただ1つ、この金色だけが残されている。それは慰めるようでもあり、この世に繋ぎ止めるようでもあった。
「アタシもさ、すぐにそっちへ行くから。もう少しだけ待っててね……。父さん、母さん」
囁きには無音だけが返ってくる。金貨に映る自分の顔も酷いものだ。これは妄想だとか、悪い夢だとか思い込もうとしたが、結局は虚しさに囚われてしまう。
だから、楽しかった記憶だけ呼び覚ます。記憶の海に溺れていく。サーシャは1人きりの長い夜を、そうやって過ごした。
それから眠気を覚えたなら、金貨を胸元にしまって眠る。敷き詰めたワラの中へ潜り込み、体を折りたたむようにして。胎内、という言葉が頭を過ぎるが、深く考えはしなかった。眠れるならば、それで良かった。
そんな暮らしを続けて1年余り。珍しくコエルから呼び声がかかった。とうとう、来たるべき日を迎えたのだ。
「サーシャ。これからお前は兎贄として、命を捧げてもらう」
遂に来たかと思う。生きているか、死んでいるかも分からない日々が、ようやく終わるのかとも。
「覚悟なら、ちゃんと出来てる」
「フン。生意気にも恩義を感じているらしい。それとも殊勝な言葉で同情を買う気か? まぁ良い。死んでくれるなら、腹の中なんて関係ない」
そこで純白のローブに月桂樹の冠が手渡される。初めて目にする品々だ。これに何の意味があるかは知らない。ただ、申し付けられるままに袖を通し、身支度を整えるばかりだ。
それからはコエルとも別れ、別の村人に連れて行かれた。村から渓谷を1つ挟んだ山の中。そこが死に場所なのだと告げられた。
「良いかサーシャ。暗くなりゃ魔獣どもが襲ってくる。せいぜい上手く食われろよ!」
村人が馬にムチを入れて駆け去っていく。それを見送るサーシャには、何の感傷もない。斜面に腰を降ろしてはボンヤリと過ごし、魔獣の到来を待ち続けた。
やがて迎えた日暮れ。辺りの気配が突如として変わる。潜めた足音、唸り声、そして獣の臭い。木立の隙間で、赤い光が点在するようになる。最初は夕焼けのせいかとも思ったが、実は魔獣の瞳だったのだ。
「ひっ……来ないで……」
一頭、また一頭と現れては、周囲が魔獣で満ちた。大勢に囲まれるうち、サーシャの心は激しく揺さぶられた。諦念に押しつぶされた様々な願望が、この場になって暴れ始めたのである。
嫌だ。
まだ死にたくない。
これからも生きていたい。
しかし、いくら渇望しても声にはならない。既に歯は噛み合わない程に震えており、言葉はおろか、まともに呼吸さえも出来ていない。手足も、膝も、首も腕も瞳でさえも不自由になる。ただひたすら無様に震えるのみ。まさしく恐怖の虜であった。
「だ……誰か、助けて。誰か……キャァァーー!?」
よろけた拍子に段差でつまづき、その場に倒れた。しかし幸運な事に、飛びかかりの攻撃を偶然にも回避する。灰色の狼が、牙を剥き出しにしながら眼前を飛び去るのを見た。
だが、奇跡なんて一度きりだ。徐々に狭まる包囲、逃げ道は見いだせない。間もなく、狼たちが飛び掛かるだろう。そして自分の体は、四つに八つにと切り裂かれるに違いない。
恐怖が吐き気となって込み上げてくる。それも命があるから起きる事。反射的に、頭を抱えて座り込む事だって、生きているから出来るのだ。
「嫌だ、嫌だ、死にたくない! お願いだから助けて……!」
「大丈夫か? 手を貸そう」
「えっ……?」
サーシャは幻聴だと思った。恐ろしさのあまり、物音を聞き間違えたのだと。しかし、狼たちの唸り声が、徐々に遠ざかってゆく。何が起きたのか。静かに両手を緩め、顔を持ち上げてみる。
すると目の前には、確かに何者かが居た。逞しい背中に、芯のある声。ワラにもすがる想いの人間にとって、彼の体は長大な城壁よりも頼もしく感じられただろう。
「危ないから、逃げて。辺りは、魔獣がいっぱいで……」
どうにか言葉をひりだしたのだが、男に反応はない。それどころか、その場で身構え始めた。1人で闘う気なのか。そして腰の剣を抜かないつもりか。サーシャは、目まぐるしく変わる状況について行けなかった。
すると間もなく、事態は動き出す。男は瞬きのうちに何体もの魔獣を倒してしまったのだ。
「す……すごい……!」
サーシャは夢中になって成り行きを見つめていた。男の戦い方は美しく、まるで舞のようにさえ見えた。全ての攻撃を華麗にかわし、そして反撃を確実に与えていく。多勢に無勢でも圧倒する様は、筋書きでもあるのかと疑いたくなる。そして戦いは優勢のままで終わり、危なげ無く勝利を掴み取った。
「あなたは、いったい……?」
男はアクセルと名乗った。知らない名前だと思う。
「あの、助けてくれて嬉しいけど、私には……」
役目がある、と言い切る事が出来なかった。言い淀んでいるうちに、アクセルに抱えられてしまい、移動が始まった。同時に村までの案内も頼まれた。
このまま、おめおめと村に帰れない。道半ばで降ろしてもらうよう告げたかったのだが、言い出せなかった。
「キレイな顔……」
アクセルの横顔を見つめる内に、声が出せなくなる。切れ長だが、どこか茫洋とした瞳。削げた頬に鋭いアゴに余分な肉はない。そして何よりも胸板。鉄のように硬く、温かい。
サーシャは、唐突な肌の触れ合いに困惑しながらも、あるがままを受け入れた。この坂を越えた所で言おう、あの橋を渡り終えたら、降ろしてと言おう。温かな胸から離れよう。
そうして先送りを繰り返すうち、とうとう村まで舞い戻ってしまう。
「どうしよう。このままじゃアタシ……」
最早、帰るべき場所は無い。あるとすれば墓穴くらいだ。そのうちコエルに見つかり、予想通り、激しい叱責を受けた。
この先自分はどうなるんだろう。また生贄か、それともコエルの手で殺されてしまうのか。どう足掻いても同じ結末が見える。少なくとも、コエルの怒り様は、過去に無いほど激しいものだった。
絶望が再びサーシャの足首を掴む。しかしそれは、たった一言で打ち払われるのだ。
「報酬は、サーシャの自由だ」
初めは理解できなかった。自分の自由がアクセルの報酬となる事が、頭の中で繋がらない。それでも腕を引かれて連れ去られ、今もこうして2人きりで、夜道を歩き続けるのだ。
夢でも冗談でもない。確かな温もりが、握られた手首から感じられる。
「アタシ、死ななくてもいいの? 本当に……?」
半信半疑のまま、アクセルの後を追い続けた。そのうちサーシャは気づく。先程から延々と、同じ区画をうろついている事に。
「あの、アクセルさん? ずっと同じ道だけど……」
「むっ? すまん。少し考え事をしていた」
「アハ、ハ……。それよりも色々とありがとう。魔獣からも、村長さんからも」
「気にするな。成り行きだった」
「でも、どうしてアタシを助けてくれたの? ああいう依頼って、金貨何十枚も貰えるヤツだって、聞いたことあるよ」
「何故だろうな。私にも分からん。ただ無性に腹がたっただけ、というのが正直な気持ちだ」
「本当にそれだけ?」
「言語化できない。敢えて言葉にすれば、怒りなのだが、少し違う気もする」
「だからって、あんな危険な仕事、見返り無しにやるつもり?」
「そういう約束だ」
「じゃあ……。せめて、せめてこれを!」
サーシャは反射的に胸元を広げ、谷間から金貨を取り出した。手垢の付着を懸念したので、念のため何度もローブで拭ってから、両手に乗せて捧げる。
「これは?」
「父さんから貰ったヤツなんだ。お礼には全然足りないと思う。でも他に出来る事なんてないから、受け取って欲しいの。使うつもりは無かったけど、アクセルさんにならって、思ったんだ」
「これは何だろう。金色に光る金属……価値ある物だとは思うが……」
サーシャは耳を疑った。問いかけは「なぜ金貨を持っているのか」ではなく、金貨そのものについて尋ねるものだったのだ。
この歳まで貨幣と無縁で生きるとは、どんな人生だったのか。たとえ貧乏で、金に恵まれない人生であっても、存在くらいは見聞きするハズだ。子供だって知っている。市場に赴けば頻繁に見かけるのだから。
そんな会話はさておき、金貨は差し出した。今のサーシャに出来る、たった1つのお礼なのだ。
だが、直前まで胸元にしまっていた物でもある。手に取った上に、あまりシゲシゲと眺められると気恥ずかしくなる。臭いをクンクン嗅がれた時などは、飛び跳ねたくなる程だ。
しかし、金貨は上に下にといじくり回された挙げ句、結局は元の場所へと戻る。サーシャの掌の中へと。
「えっ……?」
「私には必要ない。金など無くとも生きていける」
「でも、アタシには、これくらいしか……」
「その金貨からは念のような物を感じた。大切な物なのだろう。これからも手放さずに居ると良い」
「あっ……!」
その時サーシャは、アクセルの微笑みを見た。仏頂面でも、不機嫌顔でもない。ここへきてようやく、笑顔を目の当たりにしたのだ。
すると不意に、風を幻視した。いや、吹いたハズだ。無数とも思える桃色の花びらを撒き散らしながら、サーシャの下を駆け抜け、そして世界を塗り替えていく不思議な風が。
「色が……視える……!」
炎は紅い、月は青い、金貨は金色。その当たり前の事実を、一つひとつ確かめるように眺めていく。それと同時に、父との記憶も脳裏を駆け巡った。
――なぁ、サーシャ。世界ってのは広いんだぞ? 海を渡った向こうの島国にはな、なんと、桃色の花びらで包まれる木が沢山あるんだぞ!
――えぇ? そんなの聞いた事もないよ。どうせ嘘なんでしょ?
――本当だってば! いつかサーシャが大きくなったら連れてってやる。それはもうキレイなんだぞ?
桃色に咲く木は見ていない。しかし、その花びらは見えた。それが本物か幻か、彼女には分からない。ただ、目頭を焦がすほどの喜びが、胸の中で強く高鳴っている。
「アクセルさんって、そんな風に笑うんだね……」
「そう言うお前も、ようやく笑顔を見せてくれた」
「じゃあさ、お互いが初めて同士だね。アハハ」
「フフッ。そうらしいな」
「貴方のこと、色々教えて欲しいな。旅の剣士様なんだよね? それってやっぱり武者修行とか、そういう感じの……」
暗い夜道、かがり火に照らされる2つの影が、いずこかへと立ち去っていった。しばらくして「嫁探しの旅ッ!?」という叫び声も続いたが、それはまた別の話である。
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