第11話:亜光速と光速の谷

「柚希が1週間とか無茶を言うから、こんな地獄になってるんじゃない」


 みおは、端末のホログラム3Dディスプレイから視線を外すことなく柚希にそう話しかける。時間は深夜3時、朝からぶっ続けの作業が続く。


「ぼやかない、ぼやかない。私の名演説のおかげで、1週間だけJUXA日本宇宙研究開発機構が全面協力してくれるって話になったんだから感謝してほしいくらいよ。それに『1週間考えて糸口が見つからない研究は、それ以上考えてもムダ』がみおの口癖だったはずだけど?」


 そう言って柚希はみおの抗議を軽くあしらった。みおは続けて柚希に抗議しようと思ったが、このチャンスをもぎ取ってくれた柚希への感謝の気持ちがその思いを押しとどめた。


「柚希、この計算をスーパークアンタム量子コンピューターに入れといて」


「了解って、みお、スーパークアンタム量子コンピューターはメンテナンス中みたい。HPCHigh Performance Computerセンターに、メンテナンス時間をずらしてくれるよう掛け合ってくるから、ちょっと待ってて」


 柚希がみおの言葉に明るくそう応え研究室から出ていくと、その瞬間、慌ただしかった研究室を沈黙が覆う。


 窓の外から聞こえる風の音、風に揺れる木々の葉の音、警備用ドローンの羽根の音。そんなささやかな自然音と機械音はみおをさらなる深い思考に導いていく。


 つきつけられた現実はとてつもなく厳しい。ベストシナリオは、アナクティシが機体の制御を取り戻して地球に帰還することだが、それを達成するための時間と部品がアナクティシにはない。


 次に、現有技術で対応するのがベターシナリオになるが、どんな仮定をおいても、何回計算を回しても、現有技術では、ギリギリのところでアナクティシには追いつけない。


 そして、宇宙船を理論上最高速度の光速まで上げたとしても、一樹を救出する猶予は2時間しかない。しかも、そのたった2時間という刹那を手に入れるため、亜光速航行の崖から、光速航行の崖まで、科学と言う名の橋を架ける必要がある。


 とはいえ、亜光速航行と光速航行の技術の谷を乗り越える手段は明確だ。例えば、みおが原理を発明した世界最高の出力を持つエンジンに、その力を常に発揮できる燃料が無限にあったとする。しかしその条件では、いくら時間をかけたとしても宇宙船は光速に達することはできない。なぜなら光速を可能にする唯一の物質である光の構成要素「光子」という素粒子には大きな特徴があるからだ。


 一般的に、重いものと軽いものを同じ力で投げた場合、軽いものの方が速度が速くなる。当たり前のことではあるが、軽ければ軽いほど物質は速い速度を得る。極端なことをいえば、質量が0になれば、物質は最も速い速度を得ることができる。


 つまり、原子より小さい物質の構成要素である光の素粒子、光子の質量は0なのだ。それどころか光子は電荷さえ持たない。だから光は、質量によって発生する万有引力、電荷によって発生する電磁力、質量の減少によって発生する強い力、素粒子同士を結合する弱い力の影響を受けない。そう、光子は、自然界に存在する4つの力すべての影響を受けないのだ。そのため光は減速することなく、常に光速で直進し続けるのだ。


 つまり光速を出すには、物質の質量を0にする必要がある。しかし、今、発見されている質量0の物質は光しか存在しない。


「光で宇宙船を作ることができればいいんだけど……」


 みおは椅子の背もたれに寄りかかり、そう独り言をつぶやくと急に後ろから若い男の声。


「そうですね。イルミネーションで作った宇宙船に人は乗れませんから」


「え、星野くん。まだ残っていたの?」


 みおはその声に驚いて、思わず大きな声を上げる。


「なに言ってるんですか、澪先輩。みんな一樹先輩を助けたい気持ちでいっぱいなんです。僕を含め一週間を無駄にしたくない人ばかりなんです」


 星野はそう言ってにっこり微笑ほほえむが、すぐにその表情は曇った。


「でも、すいません。みお先輩に頼まれていたメモの件、JUXA日本宇宙研究開発機構でわかる人はいないみたいです」


「ありがとう、星野くん。一生懸命調べてくれたその気持ちだけで充分じゅうぶんだから、そんな顔しないで、ね」


 みおのこの言葉にもかかわらず、星野は申し訳なさそうな顔を崩すことなく、みおから預かっていた電子electronicペーパーを手渡すと、肩を落として研究室から出ていった。


 みおは、その気持ちに心が温まる何かを感じると、自分に力を貸してくれるJUXA日本宇宙研究開発機構の人々の気持ちに必ず応えてみせるという強い決意を胸に、再び思考の海に乗り出した。


「イルミネーションで作った宇宙船に人は乗る事ができない。わかってはいるんだけどね」


 みおは、再びそう独白すると、端末のホログラム3Dディスプレイに視線を向ける。たとえば、今、光以外に質量0の物質が見つかったとしよう。しかし、その物質を宇宙船で使うとなると、その物質を検証し、宇宙空間で安全性を確認するという作業が残る。そして、その作業が4年で終わるとは思えない。いや、たとえその作業が1年で終わったとしても、3年でその物質を使用した宇宙船を作れるとは思えない。間違いなくこのアイディアの先に答えはない。


 そうなると……。そう言ってみおはマグカップの残りのコーヒーを一気に飲み干した。そうなると、既存の宇宙船の質量を0にする仕掛けが必要ってことね。つまり、正の質量を打ち消す負の質量、エキゾチック物質。


 そうは言ってもねぇ。みおは、自分の人差し指をそっと唇にそえる。そうは言っても、エキゾチック物質って、まだ見つかってないのよね。


「うーん、いったい、どうしたものか……」


 みおは、そう言ってもう一度考え直す。宇宙船の材料として使える負の質量の固体は見つかっていない、しかし、液体であれば負の質量のものはあるにはある。


 みおは、すぐに端末を操作し、2017年7月にワシントン州立大学で発表された研究論文に目を通す。そう、この研究が、負の質量が夢物語でないと証明した研究。負の質量を持つ物質は、液体であればすでに発見され、研究も進んでいる。


 うーん、とみおは再び熟考する。もし宇宙船と同じ重量分の負の質量を持つ液体を宇宙船に組み込むことができれば、宇宙船全体として質量を0にできるかも。


「これはいける」


 みおは思わず大声を出した。


 ただ単純に質量のトータルを0にすればいいというものではない。ある場所に負の質量の液体を集めておいて、宇宙船全体の質量が0になったとしてもうまくいかないはずだ。ある程度一様に宇宙船の質量を0にしなければならないはずだ。しかも同じ場所に留める事が難しい液体で。


 ならば宇宙船に配管を巡らし、その物質を一定の圧力で循環させ、負の質量分布を安定させるというのはどうか? それならば安定して局地的な質量を0にできる、これならいける! みおは心の中で大きくうなずいた。


 最後の問題は光速航行を実現するため、疑似的な質量0を満たす空間の大きさをどこまで物理が許してくれるかよね。宇宙船全体としたざっくりとした空間でいいのか、それとも1ミクロン単位までの質量0が求められるのか。


「ま、いいか。そんな数値は、これから計算して最適解を見つければいいだけだし」


 みおは1つの問題を解決した安堵感あんどかんから、ほっと大きな溜息ためいきをついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る