第30話 消えない炎
「お姉様だなんて呼ぶんじゃないわよ。あんたを妹なんて思ったこともないし思いたくもないわ」
ガーネットお姉様は不快感を隠そうともせず表情を歪めた。
「……何か御用でしょうか」
警戒心を露わに問いかけたイリアム様は、後ろ手に私を背中に庇ってくれた。イリアム様の大きな背中が少しだけ私の心を落ち着けてくれる。一人ではないのだと、そう思わせてくれる。
「うふふ、そう警戒しなくてもいいじゃない。その子は私が招待してあげたんだから」
裂けたように弧の字を描く真っ赤な唇に、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。怖い。心の奥底に眠る子供の頃の記憶が反芻するようで、縋るようにイリアム様の服の裾を掴む。途端にガーネットお姉様の目が鋭く細められた。
「ふぅん、やっぱりそうなのねえ。弱い女のフリをしてイリアムの懐に入り込んだってわけ。醜いわあ」
「……黙れ」
あははと口元に手を添えて高笑いをするお姉様に、イリアム様が低い声で抗議した。
「まあそんな怖い顔しないで?ところで料理は楽しんでる?このお酒、アルコール度数がかなり高いのよ。飲んでみる?」
お姉様はどこか楽しそうにシャンパングラスをクルクル回して中のお酒を光に翳した。薄緑色の液体がキラキラとシャンデリアの光を反射して、とぷりと揺れた。
「……ご遠慮します」
イリアム様が警戒心を強め、ジリ、と一歩後退りをする。
その様子を見たお姉様の顔から笑顔が消えた。
周囲の気温がすうっと下がったように錯覚し、私はぶるりと身震いをした。何か嫌な予感がする――
「あらあ、私の勧めるお酒が飲めないって言うの?あなたはいつもそう。私が言うことは絶対なのに、あなただけが簡単に断りを入れてくる。そういうところが不快で不快で……だけど手に入れたくて、服従させたくて仕方がなかったの」
「……」
「だけど、私のものにならないと言うのなら…もうあなたなんか要らないわ」
あまりにも勝手な物言いにイリアム様の顔が歪む。
お姉様の声は氷のように冷たい。
私の身体は固まったように動かない。
目の前の出来事がずっと遠くで繰り広げられているように、意識がグッと遠くにいっているような感覚に襲われて音が遠くなる。
「うふっ、アルコールって、よく燃えるのはご存知?」
「?ええ、それぐらいは存じておりますが…まさかっ!?」
イリアム様が声を荒げたと同時に、お姉様が掲げたグラスがボウっと勢いよく燃え盛った。
「あははははっ!!!さあ!飲みなさいイリアム!!飲めないのなら…こうしてあげる!」
お姉様は充血した真っ赤な目を見開いて、燃え盛るグラスをイリアム様目掛けて振り下ろした。
イリアム様は咄嗟に服を翻して私とご自身の身を守ったものの、燃えるお酒がイリアム様の服に降り注ぎ、激しく火柱を上げた。
「ぐああっ!」
「イリアム様っ!」
視界いっぱいに広がる火の手。
イリアム様の苦悩に歪んだ声だけが耳元で響く。
「あははははっ!!この炎は水では消せないわ!!私の魔力を強く練り込んでいるもの!!さあ、燃えなさい!骨の髄まで燃え尽きてしまいなさい!!」
イリアム様が水魔法で火を消そうと試みるも、炎の勢いは収まることを知らない。燃える服を脱ぎ捨てようとしたけれど、既にイリアム様の半身を覆うほど炎は大きくなっていた。
「ソフィア、離れろ!!」
ドンっと鈍い衝撃が走り、私は遅れてイリアム様に突き飛ばされたと理解した。
その瞬間、イリアム様の全身が炎に包まれた。
「イリアム様っ!!」
「ぐおおおお!」
「あはははは!いいわ!もっとよ、もっと苦しみなさい!」
目の前の光景に理解が追いつかない。
イリアム様を包むのは消えない炎。
耳に残るのは狂ったように笑い続けるお姉様の甲高い声と、ゴウゴウ燃える炎の音。
――このままだとイリアム様は、どうなるの?
思考が停止していた脳が、ようやく事態を理解した。
………嫌、いやいやいやいや!!
イリアム様が居なくなるなんて…イリアム様が居ない世界で生きていくなんて、私にはもうできない!
優しく微笑むイリアム様が、照れ臭そうに顔を隠すイリアム様が、勘違いしそうになるほど愛おしそうに目元を和ませるイリアム様が、脳裏に浮かんでは炎に焼かれて消えていく。
「イリアム様ーっ!!」
私は涙に塗れた目を腕で拭い、目一杯の力でイリアム様に向かって飛び出した。ようやく世界を取り戻したように、耳に喧騒が届く。
私は炎の塊となったイリアム様に抱きついた。
ゴウッ!と炎が私の身体をも包み込む。
キャァァァァッ!とあちこちから鋭い悲鳴が上がる。
熱い…でも絶対に離さない。
イリアム様、イリアム様っ、私はあなたのことが――
強く強くイリアム様のことを想ったその時、パァンと眩い光が弾けた。
光を放ったのは私とイリアム様の身体だった。
光が粒子となって周囲に降り注ぐ。
光と共に、イリアム様を苦しめていた炎も消失した。苦しげに喘いでいたイリアム様は信じられないとばかりに目を見開いている。
私はイリアム様の頬を包み込み、ぺたぺたと無事を確かめるように触った。
「イリアムさま…ぐすっ、無事で、無事でよかったです。私、私…」
「ソフィア…信じられん。火傷の跡すら残っていない…」
イリアム様は服が焼け焦げたものの火傷の一つもなく、いつもの麗しいお姿だった。
「な、ななな、何が起きたっていうの!?」
目の前で起こった奇跡とも呼べる事態に、お姉様が髪を振り乱して喚いている。
ガシャガシャと甲冑を着た兵士たちが慌ただしく集まり、お姉様を取り押さえている様子が視界の端に映った。「なにすんのよ!私を誰だと思っているのよ!!」とお姉様は抵抗しているけれど、魔力を封じる手枷をされて兵士たちに担がれるように会場から連れ出されていった。
「そうか、そうだ…ソフィア、これが君の本来の力なんだよ」
「え……」
「ソフィアの『封魔の力』が悪意の炎を収めてくれたんだ」
驚き目を見開いていたイリアム様が、納得したように頷くと私の肩を掴んだ。
「ありがとう。あなたを守るつもりが、あなたに守られてしまったな」
私はとめどなく流れる涙を拭うこともせず、イリアム様の胸に飛び込んだ。
「イリアム様…うっ、ぐすっ」
「無事だったんだ、泣かないでくれ」
「でも、でもっ」
「あんまり泣き言を言われると、その口を封じたくなってしまうだろう?」
「え?」
「……いや、調子に乗った。すまん、分からなくていい。忘れてくれ」
すんすん鼻を鳴らして尋ねると、イリアム様はいつものようにほんのり頬を染めて顔を背けてしまった。
それだけのことが無性に嬉しくて、自然と笑みが溢れた。
「団長っ!!」
「マリク、ガーネット王女はどうなった?」
人混みをかき分けて駆け寄って来たマリクさんは、私たちの無事を確認すると、はーっと深く息を吐き出した。
「衛兵に連れて行かれた。これだけの騒ぎを起こしたんだ。だが、どれほどの罪に問われるかは…期待できねえな」
「そうか……」
「とにかく、今日は慰労会どころじゃねえし、ソフィアちゃん連れて早く帰りな」
「ああ、そうさせてもらう」
私たちは互いに支え合いながら混乱する会場を後にした。
扉を抜ける直前、肩越しに玉座を振り返ると、そこには既に誰の姿もなかった。
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