糸口

 『壱番街』は寂れたビルの一階にある。おそらく、大正時代に建てられたであろうそのビルは、白い外壁の半分が蔦に侵略されるがままとなっていた。

 和洋折衷のレトロモダンな建物で、一階部分の外壁だけが赤レンガで装飾されている。窓は、格子の一部に赤の色ガラスの入ったアンティーク窓で、異国情緒が感じられるつくりだ。

 糸原は、古いガス灯を再利用した玄関灯が照らし出す、これまた年季の入った木のドアをゆっくりと開けた。

 カランッ、と来客を告げる渇いたベルの音が鳴った。

 店内の奥まった席の客が、入り口へと視線を向けてくる。葛西と藤田である。

 藤田が立ち上がり、嬉しそうに手を振る。糸原は軽く会釈をし、厨房から出てきたマスターにコーヒーを注文した。

 カウンターにいる常連客らしき男性が視界に入ったが、客はそれくらいのようだ。

 糸原は、薄暗い灯りの照らす店内を、葛西たちが座るテーブルに向かって真っ直ぐに進んだ。

 席に近づくと、藤田が「どうぞ、どうぞ」と葛西の向かいの席を勧める。背もたれに透かし模様の入った赤い布張りの椅子だ。糸原は言われるがまま、そこへ着席した。

「すみません、お待たせしました」

 まず、謝辞を述べる。仕事が押して、約束の時刻を三十分も過ぎてしまった。

「いえいえ。ちょうど腹ごしらえもできたので、大丈夫です」と、葛西は和かに笑った。

 言われて幾何学模様の描かれたタイルテーブルの上を見る。通路に面したテーブルの端に、二人分の空の器が置いてあった。

「それなら良かったです」と、糸原は肩に掛けていたリュックを隣の椅子へと下ろした。

「ここの料理はお口に合いましたか?」

「ええ、とても」と葛西が頷く。

「チキンドリアをいただいたのですが、あっさりとしたベシャメルソースとチキンライスの相性が良く、大変美味しくいただきました」

 予想外にグルメな答えが返ってくる。

「僕は生姜焼き定食を頼んだんですけど、ご飯のおかわりが自由なところがいいですね」

 こちらは若者らしくボリューム重視の発言だ。

 二人の和気あいあいとしたやりとりを聞いていると、「失礼します」と、マスターがテーブルの横でお辞儀をした。それから、ゆっくりとした動作で、糸原の前にコーヒーを置く。香ばしい酸味のある匂いが鼻をくすぐった。

 次いで、藤田の前にティーカップと紅茶の入ったフレンチプレスが置かれる。最後に、葛西の前にチェリーの乗ったクリームソーダが置かれた。

「クリームソーダ、ですか?」

 意外な組み合わせに、糸原は目を瞬かせた。

「クリームソーダ、好きなんです」と、葛西は憮然とした顔で、乗っていたチェリーを指でつまみ、口の中に放り込んだ。

「葛西さん、行儀悪いですよ」と、藤田が嗜める。

 その間に、マスターは空の器を下げ、再びお辞儀をして、厨房へと戻っていった。



「では、そろそろ、本題に入りましょうか」

 マスターが去っていくのを見計らって、葛西が言った。

 そうですね、と藤田がショルダーバックの中からクリアファイルを取り出し、「頼まれていた資料です」と、糸原に恭しく差し出す。

「ありがとうございます」と、糸原は受け取ったそれに目を通し、何枚かめくったところで、手を止めた。

「何か?」

 バニラアイスを食べながら、様子を窺っていた葛西が、目敏く糸原の変化を捉え、尋ねる。

 ええ、と糸原はクリアファイルから紙を一枚抜き出し、テーブルの上に置いた。

 被害者の竹浪葵の戸籍謄本である。

「実は先ほど、藤田さんがおっしゃっていた被害者の父親の名前に、心当たりがありまして」

「竹浪敬さんのことですか?」

 そうです、と糸原は今度は隣の椅子に置いたリュックを漁る。急いでいたので、リュックの中に適当に物を投げ入れてしまった。おかげで、目的のものになかなか行き当たらない。

「あっ、ありました」と、ようやく見つけたそれを糸原はテーブルの上へと置いた。

「こちらは?」と、怪訝そうに、葛西がピンクの紙ファイルを一瞥し、尋ねた。

「対馬教授が残した実験日誌です」

「対馬教授? ということは、由佳さんのお父様の実験日誌ですか?」

 糸原は、ええ、と頷いた。

「笹本部長が亡くなった日に、菜緒子さんから渡されました」

「菜緒子さんから? 由佳さんではなく?」

 葛西も藤田もいまいち話が掴めないようである。キョトンとした顔で糸原を見つめた。

「この対馬教授の日誌は、部長が持っていたようで……」と、糸原は指の先で頬を掻く。

「それで、菜緒子さんは、部長がお盆で帰省した時に預かった、と言ってました」

「つまり、笹本さんが持っていた対馬教授の日誌を、菜緒子さんが預かり、糸原さんに渡した、と……」

 そういうことです、と糸原は答えた。

「随分と複雑な経路を辿りましたね」

 葛西が苦笑する。まったくです、と糸原も同意し、紙ファイルの付箋が付いたページを開いた。付箋は、糸原自身が貼り付けたものである。

「ここなんですが」

 糸原の言葉に、葛西と藤田は顔を見合わせ、頭を突き合わせるように、ファイルを覗き込んだ。

「──被験者、竹浪敬」

 葛西はページの一項目を読み上げ、糸原を凝視する。糸原は大きく頷き、「被害者の父親と同姓同名ですよね」と、名前を指差した。

「なので、同一人物か確認したくて、葛西さんに戸籍謄本をお願いした次第です」

 なるほど、と葛西が再びファイルに視線を戻す。それから顎に手を当て、考えを巡らせた。

「……日誌の日付は十一年前で、当時の竹浪さんの年齢は二十八才。つまり、現在の年齢は三十九才になりますね」と、独りごち、葛西は戸籍謄本の出生日を確認した。

「年齢も一致しますね。……同一人物でしょうか?」

 名前と年齢が一致しただけでは、同一人物であるとの確信は持てないらしい。葛西は疑問の目を糸原に向けた。

 ですよね、と糸原も曖昧な笑みを浮かべ、相槌を打つ。糸原自身、その判断には確信を持てないでいたのだが──。

「次は、これを見てください」と、紙ファイルの別の付箋を貼り付けたページを開く。それから、二人目の被害者である『三浦悠太』の戸籍謄本をテーブルの上に置いた。

「この悠太くんの父親の名前が、義史さんになっていますが……」と、戸籍謄本の名前を指差し、その指を紙ファイルの方へと動かす。

「──三浦義史」と、藤田が息を呑んだ。

「そうなんです。やはり、父親の名前と被験者の名前が一致しますよね。年齢も一致します」

 そう言って、神妙な面持ちで、二人の刑事を見つめた。


「では、最初の被害者である山崎颯人さんのお父様のお名前も載っているのでしょうか?」と、葛西が静かに尋ねた。平静を装ってはいるが、はやる気持ちを必死で抑えているのが見て取れる。

 しかし、その期待とは裏腹に、糸原はゆっくりと首を横に振った。

「被験者の中に、山崎という苗字はありませんでした」

 そうですか、と葛西が残念そうに肩を落とす。せっかく掴みかけた事件の糸口が、なくなってしまったことにがっかりしたのだろう。

 そんな葛西を横目に、糸原は、ですが、と続けた。

「母親の名前が、旧姓で載ってました」

「お母様ですか?」

 葛西はパチパチと目を瞬かせた。

「颯人くんの母親の旧姓は、『小笠原』です。その名前で、日誌に記載されていました」と、糸原は該当のページを開き、葛西の前にファイルを置いた。

 それを素早く確認し、確かに、と葛西が頷いた。

「糸原さんは、この対馬教授の実験日誌に載っている、被験者の子供たちが、今回の事件の被害者だとお考えなのですね?」と、葛西が尋ねた。

 糸原は大仰に頷き、「どう思いますか?」と、刑事二人に意見を求めた。

 そうですね、と葛西はテーブルの上に両肘をついて手を組み、思案する。対して、藤田は困惑したようにボリボリと頭を掻いて沈黙した。

 会話に代わって、憂いを帯びたBGMが、耳をくすぐる。

 カラン、とクリームソーダの氷が溶けた音を合図に、葛西が口を開いた。

「私は、糸原さんの意見に賛成ですね」と、眼鏡の位置を正しながら言った。

「藤田くんは、どうでしょう?」

 葛西にうながされ、藤田は戸惑いながらも、「自分も、無関係ではないような気がします」と、答えた。それに、葛西は目を細め、満足そうに頷いた。藤田の成長を喜んでいるようだ。

「ただ、気になることが」と、藤田は再びガシガシと頭を掻いた。

 葛西は感心したように、ほおっ、と短く息を漏らす。

「気になること?」

 糸原は首を傾げた。

「三浦悠太くんですけど」と、藤田は戸籍謄本を指差す。

「これを見ると、彼にはお兄さんがいます」

「ええ」

「ターゲットが、被験者の子供なら、悠太くんのお兄さんも狙われるんじゃないですか?」

 藤田の疑問はもっともだ。糸原の仮説通りなら、被害者の兄弟も危険なはずだ。

 しかし、糸原は、「大丈夫です」と、明確にそれを否定した。

「随分はっきり言い切りましたね」と、和かな笑みを浮かべ、葛西が真っ直ぐ糸原を見据えた。

「何か根拠があるのでしょうか?」

 葛西を見返し、糸原は頷いた。

「実験の日付です」

「実験の日付……」

 葛西は日誌の三浦義史のページを開き、「実験日は、十一年前となっていますね」と、日付を確認する。

 その視線を糸原に移し、「それがどうかしたのでしょうか?」と、尋ねた。

「悠太くんのお兄さんは、現在、十四才で、義史さんが被験者になる前に生まれています」

「そうですね」と、葛西が頷いた。

「今回の事件が対馬教授の実験と関わりがあるとすれば、実験前の出来事は関係ないはずです。

 なるほど、と葛西は得心したようだ。

「だから、悠太くんのお兄様は安全だとお考えなのですね」

 はい、と糸原はコーヒーカップへと手を伸ばした。すっかり冷めてしまったコーヒーを口に含むと、香ばしい匂いが鼻を抜け、糸原の気持ちを幾分リラックスさせた。

「糸原さんの言いたいことは分かりました」

 糸原がコーヒーカップをソーサーに戻すのを見計らって、葛西が言った。

「対馬教授の実験が、事件の発端である可能性も理解しました」

 では、と葛西の眼鏡の奥の瞳が鋭い光を宿す。

「教授は一体、何の実験をされていたのでしょう?」

 その問いに、糸原はゴクリと喉を鳴らした。

 その質問が、避けては通れないものだと、糸原は理解していた。が、答えるには抵抗がある。

 なぜなら、対馬の実験は、正当な手順を踏まずに行われたものだからだ。

 新しい医療技術の有効性や安全性を、実際に人の体で試してみることを『臨床研究』という。

 臨床研究には、製薬会社が主体となって行う『治験』と、医師が主体となって行う『自主臨床研究』があり、対馬の研究は後者にあたる。

 その場合、所属する団体によって手順は異なるが、西城大学の場合は、研究の正当性を審査する委員会である『臨床研究審査委員会』に申請を行い、承認を受けなければならない。

 しかし、対馬は、この承認を受けないまま、実験を行っていたのだ。

 正規の手順を無視し、人体実験を行っていたことが公の知るところとなったら。ましてや、今回の事件の発端になっているとしたら──。

 対馬が非難の的となることは、手に取るように想像できた。彼が積み上げてきた数々の功績さえもなかったことにされてしまう可能性だってある。

 そうなったら、父を慕い、誇りに思っている由佳を傷つけることになるだろう。それは極力避けたかった。

 だからといって、もう既に三人もの犠牲者が出ている現状では、知らぬ存ぜぬで通すわけにもいかない。

 今回の事件に、対馬の実験が深く関わっているのは、紛れもない事実なのだから。

 糸原は、激しいジレンマに襲われていた。

「糸原さん?」

 急に黙り込んだ糸原に、葛西が声を掛けた。糸原は瞬時に現実に引き戻され、葛西の顔をぼんやりと眺めた。葛西にしては珍しく、心配そうな顔をしている。

「すみません、ボーとしてました」

 糸原はコーヒーを含み、渇いた口の中を湿らせた。それから、姿勢を正し、「葛西さん、藤田さん」と、目の前の刑事を正視した。

「お願いがあります」

 糸原の真剣な面持ちに、葛西と藤田も居住まいを正し、糸原を見返した。

「これから話すことは、できる限り、内密にして頂きたいのですが……」

 その申し出に、葛西は「善処します」と、答えた。二つ返事で引き受けないのが、葛西らしく、逆に誠実さを感じさせる。

 糸原はもう一度コーヒーを啜り、カップをソーサーに置くと、ゆっくり口を開いた。

「──対馬教授が実験していたのは、『MA1ウィルス』による効能についてです」

「MA1ウィルス? 聞いたことがありませんね……」

 葛西は顎に手を当て、首を捻った。

「それはそうです。他の研究者には発見もされていないウィルスですし、対馬教授も発表する前に亡くなっていますから」

「つまり、未知のウィルスということですか?」

「まぁ、そうなりますね」

 なるほど、と葛西は頷いた。

「──しかし、そのようなウィルスで、人体実験を行ってよろしいのでしょうか?」

「きちんとした手順さえ踏んでいれば、問題ありません」

 そう答えた糸原の表情が陰るのを、葛西は見逃さなかった。

「では、対馬教授は、きちんとした手順に則り、人体実験を行っていた、ということですか?」

 葛西は核心をつく質問を投げてくる。糸原は言葉を詰まらせ、俯いた。

 ──きっと葛西はわかっていて質問している。

 糸原は唇を固く結んだ。膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、しばらく逡巡する。やがて、糸原は意を決し、顔を上げた。

「……対馬教授は、然るべき手続きをせずに、実験を行っていました」

 糸原の告白に、藤田は驚いたが、葛西は、やはり、というように目を細めた。

「それが、糸原さんが内密にして欲しい理由ですね?」と、尋ねる。

 ええ、と糸原は頷いた。

「しかし、なぜ教授は、正式な手続きを踏まなかったのでしょう? 手続きさえしていれば、問題にならないのですよね?」

 葛西の質問に、それは、と糸原は頭を掻いた。

「焦っていたのだと思います」

「焦っていた?」

「葛西さんは、手続きと簡単に言いますが、その手続きも口で言うほど楽なものではないんです」

「そうなのですか?」

「まず、その医療技術が本当に安全で有効なものなのか、確証を得なければなりません。そのために、充分な期間、動物実験を行います。通常、三〜五年ほどでしょうか」

「そんなにですか?」

「当然です。人へ使用するのですから。そして、動物実験を行った後、『臨床研究』と呼ばれる人での実験に移行するわけですが……」

 糸原はそこで一息入れてコーヒーを啜った。つられて、葛西と藤田も飲み物を口に運ぶ。 

 糸原はカップをソーサーに戻し、続けた。

「西城大学の場合、この臨床研究を行う前に、『臨床研究審査委員会』の承認を得なければなりません」

「なるほど、対馬教授は、その委員会の承認を得ていない、ということなのですね」

 すっかり溶けたバニラアイスをスプーンでかき混ぜながら、葛西が言った。糸原は無言で頷いた。

「対馬教授は誠実な方です。自分の研究のために、むやみに人の命を危険に晒すことはしません。委員会の承認を得てからでもよければ、そうしたでしょう」

「では、なぜそんな暴挙に出たのでしょう? 何か急がなければならない理由でもあったのでしょうか?」

 葛西の問いに、糸原は少し躊躇い、「──由佳です」と、答えた。

「由佳さん?」

「由佳が中学に上がった頃、心臓は最悪の状態で、移植するほかに治療方法がなかったんです」

「心臓移植ですか……」

「しかし、適合する心臓が見つかるまでには時間もかかりますし、何より当時は子供からの臓器提供もありませんでした」

 なるほど、と葛西は頷いた。

「だから、MA1ウィルスを使用したと。つまり、MA1ウィルスというのは、心臓に効果のあるものなのですね?」

 葛西の問いに、糸原は、いいえ、と首を振った。

「MA1ウィルスは、万能薬です」

「万能薬?」

 いまいちピンときてない顔で、葛西が糸原を見つめた。藤田も同様である。

「お二人は、iPS細胞を知ってますか?」

 糸原の問いに、藤田は「名前だけなら」と答えた。

「確か、人体のあらゆるものに変化できる細胞ですよね」

葛西は記憶を探るように視線を彷徨わせて言った。

「大体、当ってます」と糸原は小さく笑い、少し考えをまとめる。

「──例えば、皮膚や筋肉を構成する細胞は、『体細胞』と呼ばれます。体細胞は、皮膚から筋肉になるといった変化、正しくは『分化』というのですが、これができません」

 そこまで説明して、糸原は二人の様子を窺った。話を理解したようで、うんうんと頷いている。

「一方で、様々な組織や臓器に分化できる細胞を『多能性幹細胞』と言います。多能性幹細胞は人の体の中にも存在しますが、人工的に作り出したものを『iPS細胞』と呼んでいるのです」

 ここまで、理解できましたか、と二人を見ると、藤田は微妙な顔をした。対して、葛西は、ええ、と事もなげに頷いた。とりあえず、葛西が理解しているようなので、話を進める。

「このiPS細胞は『再生医療』、つまり、欠損部位や病変のある臓器の代替を新たに作りだせないかと、近年研究が勧められています」

 糸原の説明に、葛西は、なるほど、と相槌を打った。

「iPS細胞の話は理解できました。しかし、それと対馬教授の実験がどう結びつくのでしょう?」

 もっともな疑問を投げてくる。

「MA1ウィルスは、感染することによって、それ自体がiPS細胞のような役割を果たすことが分かっています」

「それ自体が、iPS細胞の役割を果たすとは?」

「簡単に言えば、感染することで、再生能力が身につく、ということです」

「再生能力……。随分と話が飛躍しましたね」

 葛西は面食らったように笑う。

「まぁ、にわかには、信じらない話ですよね」と、糸原はコーヒーを啜り、間を置いた。

「しかし、事実なのです。──対馬教授の実験では、マウスのちぎれた尻尾が、翌日には生えてきた、となっています」

「それは、素晴らしいですね」

 葛西が大袈裟に感心して見せた。

 それから、すぐに真顔に戻り、「ですが、どのような素晴らしいウィルスでも、事件の原因となってしまっては、よろしくありません」と、苦言を吐いた。

「まったくその通りです」

 人を救うはずの医療が、命を奪う原因となってしまったのでは、本末転倒だ、と糸原も思う。

 対馬は娘のことを愛するあまり、医者としてはあるまじき行為をしてしまった。反面、糸原には、その気持ちが分からなくもない。

 もし、由佳が命の危機に陥ったとしたら、自分も対馬と同じことをするだろう。

 ──実際、今だってそうだ。

 由佳の気持ちを重んじるあまり、葛西に相談しなかったことが、三件もの事件を招いてしまった。

 結局、自分も医者失格だな、と糸原は心の中で自分を嘲た。

 糸原さん、と葛西が穏やかな声で呼びかける。葛西はいつも通りのにこやかな顔のまま、「大変貴重な情報をご提供頂き、ありがとうございます」と、綽々と頭を下げた。

「いえ、もっと早く、葛西さんに相談していれば、未然に防げる事件があったかもしれません」と、糸原は唇を噛んだ。

「それは無理です」

 糸原の後悔を、葛西はあっさりと否定した。

「拉致変死事件と実験日誌の内容が結びつくなど、誰も思いつきません。糸原さんが気付いたのも、単なる偶然にすぎません」

 悔やむ糸原に、葛西は淡々と告げる。

「ですから、あまりご自分を責めないでください。──身内の罪を暴くことは、簡単に出来ることではありません。しかし、糸原さんは包み隠さず話してくれました」

 それだけで充分です、と葛西は笑った。

「ただ、糸原さんからお聞きしたお話は、ここだけの話に留めておくつもりですが、万が一の場合は……」

 わかりますよね、と鋭い視線を糸原に向けた。

「それは、覚悟しています」と、キッパリと言い切った糸原に、葛西は満足そうに頷いた。

「では、対馬教授の実験について、もう少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 葛西が改めて尋ねる。どうぞ、と糸原はまな板の鯉のような気持ちで、葛西の質問を待った。

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