勘違い


昼食休憩が終わり、午後の仕事が始まってからも、香織と雫は黙々と作業をこなしていった。

そのまま時間が過ぎ、時計の針が定時を示した時、初めて香織が雫に声をかけた。


「時瀬。どこまで終わった?」

「あ、あと30件ほどで終わります!」

「そうか。ならそれは明日でいいから……」

「いえ!最後までやってから帰ります!」

「……そうか。なら、好きにしろ」

「はい!佐伯主任はお帰りですよね。お疲れさまです!」


指導という指導もしていないが、一日の感謝も込めてペコリと頭を下げる雫。

だが香織は、一瞬考え込む素振りをした後、雫の言葉を否定する。


「いや、私も少し残業して行く。今日までにやらなければいけないことがある」

「あ、そうなんですね!では邪魔しないように致します!」

「……別に邪魔にはならない。分からないところがあったらきちんと聞け」


冷たい声色で発されたとは言え、香織にしては優しい言葉。

それを受けた雫は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうにニコッとはにかんだ。


「ありがとうございます!佐伯主任!」


満面の笑みでお礼を言った雫は、機嫌良さげに再びパソコンと向き合い始める。

そんな雫の横顔を物珍しそうに見つめていた香織だが、すぐに我に返り、自分のパソコンに向かい合った。

そうして、周りの社員たちが次々と帰っていく中、40分ほど残業した雫は、凝り固まった体をほぐすように両手を上に伸ばす。


「終わったのか?」

「あ、はい!確認お願いいたします!」

「いや、それは急ぎじゃない。明日にしよう。もう帰りなさい」

「はい!分かりました!」


元気よく返事をした雫は、テキパキと退勤の準備をしていく。

ものの5分ほどで身支度まで終えた雫は、まだ自分の席に座ったままの香織に声をかける。


「佐伯主任はまだ残られますか?」

「ああ。もう少しやっていく」

「分かりました。では、お先に失礼いたします」

「ああ」


素っ気ない返事を返す香織に、深々とお辞儀をした雫は、そのままオフィスを出て行った。

部分的に電気も消され、薄暗く、寒々しいオフィスに一人残された香織は、雫が出て行ってから3分ほどボーッとPC画面を眺めていた。

が、「……もういいか」という呟きとともに、パソコンをシャットダウンさせ、カバンを机に置き、帰り支度をしようとする。

と、その時だった。

ガチャッという音が静かなオフィスに響き、パッとそちらに視線をやった香織。

その視線の先には、何故か帰ったはずの雫がいた。


「あれ?佐伯主任お帰りですか?」

「あ、いや……。どうした?忘れ物か?」


まさか雫が戻ってくるとは思っておらず、少し動揺を見せる香織の問いに、笑顔を浮かべた雫は、「これ良かったら」と両手を香織の方へ伸ばす。

その手には、会社の自動販売機で売っている缶コーヒーが握られていた。


「今日一日お世話になったのと、これからよろしくお願いしますという意味も込めて買ってきたんですけど、コーヒーはお嫌いでしょうか?」

「……いや。いただこう」


出来るだけ冷たく接し、好印象は抱かせない。

そう徹底してきた香織だが、流石にここで断る非情さは持ち合わせていないようだ。

素直に雫から缶コーヒーを受け取った香織。

すると、雫がちょっと迷いを見せながら、おずおずと尋ねる。


「あの……もしかして、私の仕事が終わるのを待っていてくださったのでしょうか?」


雫の質問を受けた香織は、ちらっと自分のデスクに視線を移す。

電源の落とされたパソコンに、帰り支度中ですと言わんばかりにデスクに置かれたバッグ。

それらを見た香織の脳は、僅か数秒で合理的な回答を導き出した。


「いや、紙書類の確認が残っている。その前に一服しようとしていたところだ」


全く顔色を変えず、冷淡に紡がれた言葉に、雫は恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「そ、そうだったんですね!すいません。恥ずかしい勘違いを……。あ、では、私はそろそろ帰宅いたします!」

「ああ」

「はい!お先に失礼致します!」


先程もしたというのに、再び深くお辞儀をしてからオフィスを後にした雫。

その後ろ姿を見送った香織は、ふと視線を自らの手元に落とした。

そのまま、まだ十分暖かい缶をしばらく眺めていた香織は、おもむろに、バッグに入ったタバコは持たずに喫煙室に向かう。

そして、いつもの定位置に座ると、缶コーヒーのプルタブを開け、口を付けた。

瞬間、香織のポーカーフェイスが僅かに崩れ、眉間に皺が寄る。


「………苦い」


そんな呟きを漏らしながらも、ちびちびコーヒーを口に運ぶ香織は、飲み慣れない味に苦戦しつつも、タバコとは違う苦味で一服するのだった。

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