八話

「いってらっしゃい」


 シシリーは笑顔で見送るが、ジェロームは黙ったままかばんを持つと、そのまま廊下へ出て行った。しばらくすると遠くから玄関扉の閉まる音が聞こえた。その後はただ静寂が館内に居座る。その中でシシリーは机の上の朝食を見下ろしていた。そこには二人分の食器が並んでいたが、すべて空になったシシリーの皿に対して、ジェロームの皿には半分ほど料理が残されていた。それを見てシシリーは小さな溜息を吐く。


「どうしてだろう……」


 食器を片付けながら首をかしげると、また溜息が漏れた。シシリーには料理を残される理由がわからなかった。


 一緒に朝食を食べるようになってから、ジェロームは毎回料理を完食してくれていたのだが、最近になって残すことが増えていた。最初は自分の料理の腕を疑ったシシリーだが、ジェロームに聞くと味はいいと言われ、まずいから残しているのではないようだった。しかしなぜ残すのかと聞いても、腹がいっぱいだという理由しか言われず、シシリーは納得できずにいた。これまでは同じ量の朝食を問題なく完食できていたのに、急に小食になるとは考えづらい。料理自体に問題がないのだとしたら、あとは食べるジェローム側に問題があるのかもしれなかった。


 夏はそろそろ終わりを迎えようとしており、日が沈めば涼しさを感じられる日も多くなったが、それでも晴天の昼間はまだまだうだる暑さが残っている。外出ばかりで日に当たり続けたせいで、夏バテを起こしているのかもしれない。あるいは、仕事に没頭し過ぎて気付かない疲労が溜まり、それが食欲に出てきているのかもしれない――台所で食器を洗いながら、シシリーはジェロームの様子を思い返してみる。


 初めて会った時からジェロームは痩せており、肌艶もいいとは言えなかったが、朝食を共に食べるようになってからは、それが少し改善されたように見えた。血行がよくなったのか、頬には赤みが差すようになった。しかし痩せた体は相変わらずだ。むしろ当初より痩せてしまったかもしれない。それも無理はない。ほぼ毎日、朝から夜、休みなくどこかへ出かけていれば、体が肉を付ける暇などないだろう。やはり、料理を残すのは、体を酷使したための食欲減退といったところか……。


 そう結論を出したシシリーだったが、それを解決するのは至難の業だと気付き、手元の食器を睨んで考え込んだ。毎日の忙しさが原因なら、休日を作って休めばいいわけだが、ジェロームに限ってはそう素直に休むはずはないと断言できた。何しろ誰にも構われたくない人なのだ。休んでくれと頼んでも無視されて終わるだろう。妻であっても、ジェロームの行動を引き止めることはできない。では何をしてやれるだろうか……。


 洗い終えた食器を見つめ、シシリーは考えた。これ以上食欲が落ちてはさらに体力が減り、体に支障をきたしてしまうだろう。それを防ぐには完食できなくても、食べ続けてもらう必要がある。つまり、高栄養かつ、食欲を増進させる料理を作ればいいのだ。しかし――


「どんなものを作ればいいんだろう……」


 料理が得意なシシリーでも、作れる品目には限りがある。新たな料理を作ろうにも、すぐには着想が閃かない。それに料理の材料は商人がその日に選んだものを裏口に置いて行くので、こちらが欲しい材料を指定することはできない。用意された材料という制限が加わるとさらに難しかった。新たな調理法を知りたくても、聞ける相手は側にはいない。ジェロームのために、どうにか食欲の増す料理を作ってあげたい――シシリーは天井を見上げ、妙案をひねり出そうと思考する。


「……そう言えば」


 シシリーの頭に、ふと思い浮かんだことがあった。館内の掃除で何度か入っている書庫……聞ける相手がいないのなら、そういう書物を探してみるのはどうか。しかし何度か入っているとは言え、それはあくまで掃除のためなので、どんな書物が置かれているかは把握していない。領主の書庫に料理本が収められているのは想像しにくかったが、万が一ということもある。見るだけ見てみようと、シシリーは早速台所を出た。


 一階の西側に書庫はある。扉を押し開け、薄暗い中に入ると、ここだけに漂う古い紙とインクの匂いが鼻先に触れてくる。夏の暑さがこもった空気を入れ替えようと、とりあえず窓を開け、改めて部屋を見回した。壁の端から端まで、大きな本棚が十台以上は並び、そのすべてに書物が詰め込まれている。それらをシシリーは初めてじっくりと見て回った。


 掃除中は気付きもしなかったが、並んでいる多くの書物は色あせ、かなり古い時代のもののようだった。どんな内容の本かと一つ一つ手に取ってページをめくってみるが、シシリーにはさっぱり理解できない文章だったり、異国の本なのか、見たことのない文字で書かれていたりして、内容はまるでわからないものばかりだった。それでも見て回っていると、それらの書物に共通するものが見えてきた。


「魔術……」


 いくら文章を繰り返し読んでも、やはり理解することはできなかったが、その中に時折出てくる魔術という単語だけはシシリーの目に何度も留まった。理解できない内容は、もしかしたら魔術について書かれているのかもしれない。


「……この本、大分読み込まれてる」


 ある本を手に取り、開いてみると、文章の隙間やページの余白に大量の書き込みがされていた。それは本の終わりまで続き、かなり熟読された様子がうかがえた。書き込みのインクはやや薄れているが、文章のものと比べるとまだ新しいように見える。ジェロームが書いたのだろうか。しかしシシリーがジェロームの文字を見たのは、村で読んだ結婚の申し込みの手紙だけだ。判断するには心許なかった。


 それにしても、ここにはなぜこんなにも魔術に関すると思われる書物があるのだろうか。そもそも魔術は大昔に存在したもので、かつては王宮にも魔術師がいたとされているが、現在はそんな存在も忘れ去られ、一般的には不思議な技で楽しませる奇術師と混同され、認識されている。ジェロームが奇術師の芸に興味があるとは思えないが、それが本来の魔術のほうに向けられていたとしても、シシリーにとっては不思議なことには違いなかった。


 本棚の隅々まで目を通し、目的の料理本探しを続けるが、やはり大半は小難しそうな書物ばかりだった。窓からの風もなく、空気を入れ替えても書庫の中には熱がまだこもっていた。額にじんわりと汗を滲ませながらも、シシリーは諦めず本棚を見て回った。


 すると、壁際の本棚の一画に、今までとは違う部類の書物が置かれていた。恋愛小説、女性のための服装、編み物事典……これらは明らかに最近書かれた本だ。しかしどれも女性向けのものばかりだ。ジェロームのものではないとすると、以前ここに住んでいた女性――たとえば、亡くなった先妻などが読んでいたものかもしれない。


「……あ、これ……」


 一つの本に目が留まり、シシリーは手に取った。その表紙には「料理における新作法」と書かれていた。中をぺらぺらと見てみれば、題名通り料理に関する文章と、初めて知る料理の調理法がいくつか書かれていた。料理本には違いないが、これは料理に関する知識や技術の紹介を主にした本のようだ。シシリーが求める内容とは少し違うが、それでも新たな料理作りの着想には役立つだろう。


 他に料理に関連しそうな書物は見つからず、シシリーはその一冊を持って書庫を出ようとする。


「そうだ、窓を……」


 はっと気付き、シシリーは開けたままの窓へ向かう。と、その窓の縁に黒い塊が見えた。一瞬何かと身構えたシシリーだったが、しなやかに揺れる長い尻尾を見て、いつもの黒猫だとわかった。黒猫は黄色の大きな目でシシリーをいちべつすると、丸い体を伸ばし、窓の縁から飛び下りて、そのまま廊下へと出て行った。いつの間に入って来たのか。本当に神出鬼没な猫だが、ここに閉じ込めるようなことにならなくてよかった――シシリーは小さく安心しながら窓を閉めると、足早に書庫を後にした。


 その本を参考に新たな料理作りを始めたシシリーは、何度かの試作を経て、肉を使った新しい料理を作ることが出来た。焼き方とソースの味付けを本から学び、今まで作ってきたものとは一味違う料理になっていた。新しい味を感じてもらい、少しでも食欲が増してくれればと、シシリーは満を持して新料理を出したのだが、ジェロームの食欲に変化が起こることはなかった。美味しいとは言ってくれるものの、完食には至らず、シシリーの努力は実らなかった。


 料理だけで体調を整えるのは難しく、やはりジェロームには休養が必要なのだと思えた。シシリーは顔を合わせると、それとなく休むように言ったが、それに対して何も答えないジェロームに、その意思はまったくなさそうだった。


 変化がないまま、時間だけが過ぎる――そんなある日だった。


「何だか、怖い風ね……」


 食堂でジェロームと朝食を食べながら、シシリーは不安そうに外へ視線をやった。窓には強風と雨が叩き付け、ガタガタと震えるような嫌な音を鳴らし続けていた。空は三日ほど前から曇り始め、昨日からは風も吹き始めていた。そして今日は雨も加わった。どうやら夏の終わりの嵐が来ているらしい。今夜にはきっと大荒れになるだろう――強風にさらされる庭を眺めながら、シシリーはそんなことを思っていた。


「……ごちそうさま」


 小さな声に振り向けば、ジェロームの皿にはいつものように料理が半分ほど残されている。だが今日に限ってはそんなことはどうでもよかった。


 席を立ち、かばんを持って食堂を出ようとするジェロームに、シシリーはすかさず声をかけた。


「あの、今日も出かけないといけないんですか?」


「……何か用でもあるのか」


 ジェロームは足を止め、シシリーを見やる。


「そうじゃなくて、こんな、嵐が近付いてる日に出かけるなんて、危険だと思って……お休みできないんですか?」


「私の仕事に天候は関係ない」


「でも、こんな日じゃないと、お休みする理由も作れないんじゃないですか?」


 ジェロームは怪訝な目を向ける。


「私は休むつもりはないし、そんな暇もないんだ。……近頃、やけに休むことを勧めてくるな」


「顔色がよくないように見えて……疲れてませんか?」


 シシリーは心配そうに聞いた。ここ数日、感じていたことだった。痩せてはいるが、顔色はよかったジェロームなのだが、数日前からどうも青白さが目立つようになっていた。太陽の隠れた薄暗い室内で見ているせいかもしれないが、今日は顔色の悪さが一段と悪く感じられた。


「どうであろうと予定を変える気はない。……行ってくる」


 シシリーの心配を振り切り、ジェロームは食堂を出て行った。わかってはいたことだが、何を言っても、どんなに心配をしても、ジェロームは聞いてくれはしないのだ。シシリーは不安を覚えながら、無事に帰って来ることを祈るしかなかった。


 予想通り、時間が経つにつれ、雨風は荒れ狂うように激しさを増していった。びゅうびゅうとうなる暴風雨の音は、家事をしているシシリーの不安を何度も煽ってくる。こんな中をジェロームは出かけていると思うと、ぼんやりと座っていることもできなかった。夕方になり、日は暮れて、辺りが漆黒の闇に包まれても、嵐の勢いは弱まる様子を見せなかった。明日までこれが続くのかもしれない。雨風は館を揺さぶり、壁をきしませ、窓を叩く。それらの音は薄暗い廊下を通り、館内全体に響き渡っていた。ジェロームに帰りを待つ必要はないと言われているシシリーは、これまで仕方なくその言葉に従っていたが、今夜はさすがに聞けなかった。雨風の騒音のせいもあるが、無事にジェロームが帰宅する姿を見なければ、どんなに疲れていようと眠ることはできそうになかった。


 深夜、燭台を傍らに置き、シシリーは礼拝室で神に祈っていた。この時間に帰って来ないことは日常茶飯事であり、普段なら特に心配することではないのだが、嵐に見舞われている今日は少しばかり帰りが遅く感じられていた。心配が気持ちを焦らせ、そう思わせているだけかもしれないが、今朝の青白い顔を思い出すと、そんな気持ちに拍車がかかり、祈りにはより思いがこもった。


「ジェロームが、無事帰りますように……どうか……」


 レリーフに浮かぶ神に、シシリーは手を握り合わせ、呟き声で長いこと祈りの言葉を繰り返していた。もうすぐ帰って来るはず、あと少しで帰ってくる――自分にそう何十回と言い聞かせていた時だった。


 バタンッと硬い何かがぶつかる音が遠くから聞こえ、シシリーは背後に振り向く。それは廊下を伝い、一階から響いてきたようだった。燭台を持つと、シシリーは小走りに階段へと向かった。


 何段か下りて行くと、階下から猛烈な風が吹き上がってきた。どこから風がと暗い玄関広間を見下ろせば、玄関の扉は大きく開き、壁に何度もぶつかって音を立てていた。あまりの強風で勝手に開いてしまったのかと思ったが、よく見ればその扉の側には人影があった。風に翻弄される扉を必死に閉めようとしている。


「……ジェローム?」


 呼ぶと、顔がシシリーに向いた。髪は乱れ、雨でずぶ濡れだが、その顔は紛れもなくジェロームだった。シシリーは駆け出すと、燭台を置き、すぐにジェロームの隣に並ぶ。そして二人の力を合わせ、風に押される扉を閉めた。


「助かった……」


 鍵をかけながらジェロームが小さな声で言った。


「ずっと心配だったけど、帰って来れてよかった……早く着替えないと風邪をひいちゃいます。服の用意を――」


「こっちでやるから、構うな……」


 そう言うとジェロームは背を向け、階段を上がって行く。相当疲れているのか、その足取りは緩慢で、力が入っていないように見えた。シシリーが心配な目で眺めていると、ジェロームは段差につまずき、危うく転びそうになった。


「あの、大丈夫ですか? 手を貸しま――」


「平気だ。お前も疲れているだろう。早く休め」


 手すりにつかまり、体勢を戻したジェロームは、やはり力のない足取りで階段を上がり、自室のほうへと進んで行った。疲れた様子は気がかりではあるが、構うなと言われては無理に付いて行くこともできない。シシリーも階段を上がると、見えなくなったジェロームを気にしつつ、自分の部屋へと向かおうとした。


 だがその時、ドサッと重い音が聞こえ、シシリーは足を止めた。音のした先にはジェロームの部屋――嫌な予感がしたシシリーはすぐに踵を返し、廊下を突き進んだ。


 角を曲がり、右へ進むと、それはすぐに見えた。開いた扉の奥に上半身だけを入れた状態で、うつ伏せに倒れたジェロームの姿があった。はっと息を呑んだシシリーは慌てて駆け寄った。


「ジェローム! どうしたの? しっかり……」


 呼びかけても反応はなく、微動だにしない。焦りながらシシリーはジェロームを抱え、仰向けにさせた。濡れそぼった頭を支え、目を閉じた顔をのぞく。青白い表情は苦しげに歪んでいた。


「もう、少し、で……」


 かすれた声でジェロームは言った。しかし目は閉じられたままだ。どうやらうわ言のようだった。シシリーはジェロームの額に触れてみる。


「……熱がある」


 手のひらには明らかに異常な熱さが感じられた。やっぱりジェロームは体調を崩していた――そうわかると、シシリーはぐったりした体の両脇を持ち、引きずってジェロームの部屋に運び入れた。

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