十六 孤影悄然
「なあんや、みんな気使うてくれて。ひとりぼっちやわ」
「狐火様は独りではありません」
「ふむ。そうやろか」
まるで自虐するように狐火が笑む。貂の視線は狐火の座っている辺りとじっと見つめる。狐火の顔を見る事ができなかった。
「なあ、貂。桜王から抜け出たばけもんをどうにか対処せなあかん。御所ちゃんがおらんなれば、朝廷には徒党を組んだ輩が出入する。好き勝手されるわけにはいかん。これから幕府や魂喰の関係をどうするか、公方はんと話し合って。新しく
つらつらと喋る顔に何かが覆いかぶさり狐火が言葉を止めた。狐火の前に回り込んだ貂が狐火の頭を抱きかかえる。優しく自分の体へと引き寄せると、狐火の顔が貂の胸の下あたりに
「なんでお前がそんな顔になるねん」
呆れた物言いで話すと、貂の腕にさらに力が込められる。
「こうすれば泣いている事を周りに知られないと、平助に教えてもらいました」
貂の胸の中、狐火が安らいだ顔をみせる。
「なんや、若虎か」
「ですから、狐火様も泣いていいのです」
「別に、うちは泣くつもりあらへんねんけど」
思わず声が震える。せり上がってくる感情をギリっと歯を食いしばり押し殺す。どうしても人前で涙を流すのは心が許さなかった。それなのに体温に触れると箍が外れそうになる。
狐火がそれでも気持ちを保つため、貂の背中に手を回すと服をぎゅっと掴み握った。一度何かにすがってしまえばその心に歯止めがきかなくなる。どれだけ強く掴まれようと、貂は動じずに狐火を包み込み続ける。貂だけには泣き声の無い咆哮が聞こえるようだった。
将軍家茂に続き、帝が崩御すると民だけではなく諸藩や朝廷内も騒がしくなった。静かに身を潜めていた長州藩も水面下で動き出し、朝廷でも工作せんと各所から手が回され始める。会津藩を信頼しきっていた孝明天皇の崩御はこれまでの在り方がひっくり返るほどの機会を与えていた。
新選組内でも小さな渦が次第に大きくなり始めようとしていた。
「魂喰は新選組から手を引く」
貂が重々しく口を開く。横で聞いていた藤堂がまんじゅうにかぶりついた。西本願寺の屋根は八木邸よりもずいぶんと高く見晴らしが良い。
「ほうなの?」
「うん、新選組と手を組む案は孝明天皇が出したものだった。狐火様も元々乗り気ではなかったから」
「
「口元にカスが付いてる」と貂が袖で藤堂の口を拭う。
「会える。今までと変わらない。暇の時は会いに来る」
「私も、貂の屋敷はすぐそこだし」
まんじゅうをごくりと飲み込んだ藤堂が笑う。
「それにね、伊東先生には今いろいろと考え事があるみたい。徳川慶喜様が将軍となられて、孝明天皇が亡くなって。孝明天皇は伊東先生にとっても尊い存在だったから」
貂も孝明天皇を慕っていた人物に思いを馳せる。
「狐火さんは、大丈夫?」
「大丈夫」だと貂には言えなかった。当の本人は以前と変わらず立ち振る舞っている。しかし心の中に抱えるものがあると、狐火と帝の関係を知っていれば考えなくとも分かった。
「そういえば帝を襲った呪詛使から化け物が出たらしい。大きな朱色の鳥のようだと。狐火様が警戒されるほどに強い力を持つ。いつまた現れるか分からないから平助も用心してくれ」
「貂がやっつけてくれるんでしょ? だったら私は安心して過ごすだけ」
能天気な言葉に貂が眉をひそめ笑う。いつもの藤堂でいてくれることが貂の心を軽くした。
「平助は、もう大丈夫なのか?」
藤堂がカラっとした顔を貂に向ける。
「伊東先生がいるから。伊東先生は山南さんの分まで心を引き継いでいくと仰ったから。私は着いて行きたい。支えていきたい」
生きる糧を失わずにいれたことに心の底から安堵する。それがどんな道に繋がろうと、生きてくれるならとただ願う。
「貂がいてくれたからだよ」
にこりと笑う藤堂に今は微笑み返す。士魂とは何か、貂にとって時に不可解なままだった。選ぶものが正しくても間違いでも、生きて語り合えればきっと道は続く。そういう生き方をしてほしいと、願うばかりだった。
その頃、狐火の元を伊東甲子太郎が訪れていた。山南の一件後、顔合わせをすませていた二人は慣れた風に話す。
「狐火さん、孝明天皇のことは誠に残念でございました」
「おおきに。でもな伊東はん、そんなかまってくれんでええよ」
伊東が思っているより狐火は気丈にふるまう。それは強がっているのではなく、すでに自分の中で方をつけた様だった。
「さようでしたか。実は狐火さんに折り入ってご相談があり参りました」
何かと狐火が促す。狐火の中ではすでに伊東は信用に足る存在であるようだった。
「私は近々新選組を抜けようと考えております」
「はあ。なにゆえ?」
「私が上洛したのはあくまでも尊王攘夷の思想を貫くため。国は帝の権威を重視すべきと考えます。そこで狐火さんに助力願いたい」
ぱさりと開いた扇を狐火が口元に当てる。
「なあ伊東はん。その前に一つ。倒幕の為薩摩藩と組んでるいうんはどない?」
伊東もあまりにも率直な質問には不意を突かれたようだった。
「それはありませんよ。組むというのは違います。私は話し、伝え、和することを目指したいのです」
なるほどと狐火が開いていた扇を閉じた。
「それで、うちになにを頼みたいと」
「この度の崩御でおさめられた御陵を守る役を担いたい」
「なるほど。新選組を脱するに正統な理由がほしいと」
伊東がふふっと笑いを零す。
「狐火さんは鋭く手厳しい。しかし帝を利用しようなどとは考えておりませんよ。本心なのです。御陵を守る事は私の本懐であり、ここから大政を変えていかんとするための士気となるのです」
多少の疑念の目を向けつつ狐火が続ける。
「利用されるのも、変な画策にこちらが巻き込まれるのもお断りや。怪しい思うたら手は切らせてもらいます」
「貴方の帝を汚すことなど、私は決していたしませんよ」
伊東の笑顔に慈悲さえ感じた。狐火が咳払いをすると、伊東の申し出を受け入れると返事する。
定めを繋ぎとめていた糸が一本、また一本と消えていく。そしてそこには新しい糸がまた違う定め同士をつなぎ合わせていく。誰もがその先を想像できずにいた。
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