わたしは花瓶。呪文のように言い聞かせる。
からした火南
第1話 オルファの黄色いカッターナイフ
ベッドの中で独り、耳をふさいでいる。
静けさに耐えきれず頭から毛布をかぶった。眠れない夜に聞く、静寂の音が嫌いだ。
もう三十分以上もこうしているだろうか。耳から手をはずそうとしたのだけれど、肘の関節が油の足りない機械のように悲鳴をあげて動かない。きしむ腕をゆっくりと伸ばして、ベッドの中からはいだした。
照明は消したままだけど、窓から差し込む月明かりのおかげで部屋を見渡すことができる。半年ほど住んでいるワンルーム。綺麗に片付いたワタシの部屋。憧れていた独り暮らしは自由で気ままだけど、眠れない夜の心細さだけは
ベッドの縁に腰を下ろし、大きくため息をつく。バッグをたぐり寄せて膝に抱えると、バッグの底を探って黄色いオルファのカッターナイフを取りだす。
どうしようか。ものすごく手首に引きたい気分だけど、傷痕が目立ってしまうのは良くない。やっぱり二の腕で我慢しようか……。
傷が見つかってまた大学の友だちに心配されるのも嫌だし、変な噂になるのも勘弁してほしい。心配も噂も大きなお世話だ。どうしてみんな、放っておいてくれないのだろう。この程度のリストカットやアームカットなんかで死んだりしないのに。ワタシがワタシとして在るために、どうしても必要なことなのに……死にたがりとか、カマッテちゃんだとか、勝手なレッテルを貼るのは止めてほしい。わかりやすい記号で分別されるのは、まっぴらゴメンだ。
上着を脱いでそっと二の腕に触れると、右手の指先が細かい凸凹をとらえる。幾度となく繰り返してきた自傷の痕……今ではバーコードみたいに帯状に連なっている。
深い傷は作らないように気をつけているのだけれど、それでも痕は残る。切り裂かれた皮膚を埋めるようにして盛り上がっていく。でも、それで良い。いびつにひきつれた傷痕、ワタシがワタシとして在る証……愛おしさすら感じる。
中学生の頃から一本、また一本と増え続けてきた。高校生になるとあまり引かなくなったのだけれど、受験が近づくと再び増えた。受験が終わって大学に通うようになった今も、心がざわめくたびに、そして耐えきれない何事かにぶち当たるたびに傷痕は増えていく。
カッターの刃を出して、カサブタが取れたばかりの傷の隣に当てる。ひんやりとした刃先の感触、鉄の匂いがする。少し力を入れるだけで、カッターの刃が簡単に皮膚を切り裂くだろう。
初めて腕を切った時のような恐怖や
カッターを持つ手に、少しだけ力を加える。皮一枚だけを切るように、ゆっくりと滑らせる。刃先の通り道に熱を感じる。裂けた皮膚からじくじくと赤黒く血がにじみ、珠のように丸く溜まっていく。珠と珠とが重なりあってとどまり切れない大きさになると、一本の筋を描いて肘まで流れ落ちた。
カッターを握ったままで、二の腕の小さな流れにしばし見とれる。まだ血がにじみ続けているけど、痛みなんて感じない。ただ熱くしびれるような感覚が在るだけだ。
ワタシの中から、ワタシの一部があふれだしていく……赤黒く小さな流れをながめていると、さっきまで胸で渦巻いていた不安が消えていくのが判る。息苦しくて仕方なかったのに、呼吸までもが楽になったような気がする。
どうして腕を切るだけで、こんなに気分が落ち着くのだろうか。もしかしたらワタシの血はものすごく穢れていて、傷口から穢れを抜くことで楽になってるんじゃないだろうか……そんな風にも思ってしまう。
肘まで流れた血液が、したたり落ちそうになる。こぼれてしまう前に、人差し指ですくって口へと運ぶ。鉄の味。鉄と塩の味。傷口から流れ出たワタシの一部が、またワタシの中へと還っていく。せっかく外に出した穢れを、再び取り込んだことになるのだろうか……。いや、そんな風に考えるのは良くない。自分の事を穢れているなんて思うのは良くない。解ってる。解ってるけど、やっぱり自分の事は好きになれない。
もっと自信を持った方がいい……みんなが口をそろえて言うのだけれど、自分のことが嫌で仕方がないのに、自信なんてどうやって持てばいいというのだろうか。自信を持てというのならば、どうすればそれを成しえるのかきちんと教えてほしい。自信の持ち方も教えられないのに、自信を持てなんて言うのは無責任だ。
いや、解ってはいる。みんな親切心から言っているのだ。他人の親切に無責任と腹を立ててしまう自分が嫌だ。ワタシのことを心配して自信を持てとアドバイスしてくれているのだから、素直に感謝できる自分になりたい……。
左腕の流れは水分を失い、やがて赤黒く干上がってしまった。せっかく気持ちが落ち着いていたのに、胸のあたりで再び苛立ちが渦巻き始める。いや、苛立ちというよりも、自己嫌悪と呼ぶ方が正しいのだろうか。自分が嫌で消えてなくなってしまいたいと思うことがある。ダメな自分は、もっと罰を受けなければならない、そんな風に思うこともある。
赤黒く固まった血液に触れると、ホロリとはがれて落ちた。傷痕から再び、薄っすらと血が滲む。もう一本引きたい気持ちを押し殺して、カッターナイフを鞄の奥へと仕舞い込んだ。
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