7 彼女の名は

武丸ビル


 「バレてるって……、それを早く言えよ!」


 ツッコみながらファイが慌てて手帳のページを切り離す。


 「待て!今棗が追いかけてる、下手にテレポートしたら身一つで上空に投げ出されるかもしれない」

 「クソッ、どいつもこいつも作戦通りになんて動きやしない」


 ファイが周囲に聞こえるくらい大きな音で舌打ちをする。


 「悪かったよ、愛流たんが上手だった。心拍音を一つも変えずにいつの間にか店を出てた。棗が追わなきゃ気がつかなかったところだ」


 素直に謝られて怒りの行き場を失ったらしく、ファイはギリリと歯軋りをして黙ってしまう。


 「まあまあ、ここで鉢合わせる前に気が付いて良かったよ。それに、バレているなら遠慮なく突入できる」


 そう言ってレガリアがドアノブに手を伸ばし扉を開ける。フワッ、と扉の中に充満していた魔力が空気とともに溢れ出す。


 「ああ、やっぱり君なのか」


 身体を通り抜ける魔力に触れながら、レガリアが呟く。


 「知り合いか?」

 「昔ちょっとね」


 懐かしそうに目を細めながら、レガリアが部屋に足を踏み入れる。床一面を植物のようなものが覆っているらしく、踏みしめるごとにパキパキと何かの潰れる音が響く。壁に手を当て、手探りで照明のスイッチを押し込む。パチン、と突然差し込む光に一瞬目が眩む。

 明かりに慣れた視界に映ったのは、一面が薔薇に包まれた部屋だった。


 「もう間違いないね、僕は彼女を知っている」


 レガリアの後ろからファイと肇、その後ろから玲司が恐る恐る部屋に足を踏み入れる。


 「……!せーやさん!」


 部屋の端、壁沿いに蔓で四肢を拘束された男の元に、玲司が駆け寄る。


 「せーやさん!返事してくださいッス!」

 「大丈夫、生きてる」


 レガリアが彼の首元に手を当て脈を確認する。部屋に張り巡らされた薔薇の蔓は、そのまま床から天井へと伸び、せーやと呼ばれた男の他にも壁一面に人間を張り付けていた。


 「事情を聞きたいけど、そうもいかなそうだね」


 レガリアが辺りを見渡すが、全員ぐったりと頭を落としており話ができそうなものは居ない。


 「割り込むようで悪いが、探偵。愛流たんと棗の戦闘が始まった。ここへ来る途中通った路地だ」

 「了解。とりあえず僕はそっちへ行ってアンリを止めてくる。お前らはここでそいつらを助けてやれ」


 そう言ってファイはくるりと踵を返す。


 「ファイ」


 その背中を引き止めるようにレガリアが声をかける。


 「彼女に会ったら試して欲しいことがあるんだ」



♢♢♢



歌舞伎町・路地


 「さて、交渉といこうか」

 「あら、吹っかけてきておいて今更何の交渉かしら?」


 愛流の臨戦体制は崩れない。ファイは手をヒラヒラと頭の上にあげ、敵意がないことをアピールしながら近付く。今にも飛び出しそうになっているアンリを目で制し、愛流の目の前までたどり着くと、その場に跪き愛流の手を取り、そして。


 「〜〜〜〜〜〜!?!?!?」


 見ていたアンリが顔を真っ赤にして声にならない声を上げるのも無理はない。跪き愛流の手を取ったファイは、その白く小さな手の甲を優しく撫で、そして、接吻くちづけをした。もう一度言おう、接吻けをした。何を言っているのかわからないと思うが、その場にいた誰もが何が起こったのかわからなかった。


 「なっ……!?!?一体何のつもり!?!?」


 これには直前まで噴火寸前の臨戦体制だった愛流も困惑である。怪しく赤い光を放っていた瞳も、すっかり元のブラウンへと戻っている。


 「何のつもりも何も、見てわからないか?口説いてるんだ」

 「口説!?は……え……?」

 「なあ、愛流。僕じゃダメか?あんな男たちやめて僕にしとけよ」


 まるで台本を読んでいるかのように辿々しい愛の言葉。そこに蕩けるような甘さなんて物は微塵もなく、口説く、というにはあまりにも不器用で初々しい。しかし、だからこそこれまで無数の愛を受け止めて来た、愛の言葉になんて慣れているはずの愛流が困惑する。その切なげな表情と切実な言葉は確実に愛流の胸を打ち、優しく触れてくる手を思わず握り返しそうになる。

 あれ、ちょっと、アリかもしれない。

 愛流の表情が緩み、完全に臨戦体制が崩れる。その瞬間を待っていたと言わんばかりにファイが畳み掛ける。


 「なあ愛流、愛してるんだ。僕なら君の望むものも、君が生きられる居場所も」

 「見くびらないで」


 愛流が強くファイの手を振り払う。あと一押し、と畳み掛けたファイのセリフが、悔しくも愛流を現実に引き戻してしまう。


 「貴方にはわからない。人と違って、悪魔は生き方を変えられないの。私を満たすのは生きる術でも居場所でもない。愛なの。心も身体も、全て捧げても惜しくないと思える程の、ただ純粋な愛だけなの!!!!」


 轟音。周囲の風速が爆発的に増す。風向きの中心、愛流の瞳が燃えるような赤い光を放つ。


 「ーーーーーーー」


 最早悲鳴にも近い叫び。耳をつん裂くような高周波がコンクリートの地面に反響して地割れを起こし、その隙間から鋭い棘を持つ無数の蔓が、星の見えない歌舞伎町の空に向かって伸びていく。


 「クソッ、結局こうなるのかよ」


 ファイの中で反芻されるのは、少し前の肇の言葉。


 『殺すしか脳のない魔捜に捕まるよりは、その前にお前らに頼った方がマシな結末になるんじゃないかって』


 --悪いな肇、どうやらお前の期待には応えられそうにない。


 短く息を吐き、手帳のページを捲る。殺さずに済むなら、その方が良かった。救う方法があるのなら、救ってやりたかった。

 己の力不足を嘆くように、荒っぽくページを一枚破る。目線の先には、狂乱状態の愛流。瞳は赤黒く沈み、額からは、瞳の赤と同じ色の大きな角。人としての自我がほぼ消え、生まれたままの、悪魔としての本能に支配された暴走状態。


 「僕が悪かった。君を救えなかった。だからせめて、苦しまないように逝かせてやる」


 身体中の血管が膨張する。血液とともに、体内を濃密な魔力が爆速で駆け巡る。一撃で確実に仕留める、持ちうる限りの最大火力の魔術は、他に類を見ないほどに体内の魔力をごっそりと吸い上げる。

 くらり、と体が揺れ膝を吐きそうになる。まだだ、もう少しだけ。

 崩れそうな足に力を込める。胸元から血管に沿って流れる青い光が、愛流の方へと真っ直ぐ向けられた魔法陣へと集約する。周囲を照らすほどの眩い光。最大には及ばない、多く見積もっても80パーセント程度。それでも、アンリとの戦闘で多少消耗した愛流であれば充分に屠ることができるだろう。


 「bla……」


 発動間際。呪文を口にしかけたファイの唇に、なにか冷たくて柔らかいものが触れる。続けてファイの背後からゆっくりと地面を踏みしめる足音。振り返ると、後ろから手を回しファイの唇に人差し指を立てるレガリアと、ファイの方を一瞥もせず真っ直ぐに愛流の方へと歩いていく肇が居た。


 「もう少しだけ待って」


 レガリアの声に小さく頷き、ゆっくりと魔法陣を下ろす。周囲を照らしていた青白い光が消え、小さな紙に込められていた膨大な魔力が、行き場を失いファイの身体に逆流する。まるでダムが決壊したかのような激流が身体中を巡り、クラクラと頭を揺らす。視界が濁り、脱力感とともに襲ってくるのは、立っていられないほどの浮遊感。

 立ちくらみ、バランスを崩したファイの体をレガリアが受け止める。チカチカと光る視界の端で、肇がゆっくりと、しかし歩みを止めずに愛流の起こす竜巻の中に入っていく。


 「肇ちゃん……?」


 じっと見つめるファイとレガリア。少し離れた場所でアンリだけが肇に声をかける。レガリアが手を翳す。肇の周りにだけ展開される小さな防御結界。

肇の周囲を照らす儚く青い光が、巻き上がる風に小さな穴を開け、やがてその姿は轟々と立ち登る竜巻の中に消えていく。


 「どのくらいで回復する?」


 レガリアが視線を落とし、腕の中のファイに声をかける。


 「全充填はしなかったから、長くて三分」

 「了解。あとは肇ちゃんに期待だね。三分持たなかったら仕方ない、僕が出よう」


 タタタッと小気味いい足音が聞こえる。見やれば、アンリが小走りで二人の方へとやってくる。


 「なになに?どういうこと?」

 「大方二人で勝手に決めてきたんだろう。ここからの作戦は?」

 「彼女は夢魔だからね、おそらくこうするのが最適解だ。肇ちゃんが説得しきれたらそれで良し、止められなかったら」

 「あっちに送り返すか、殺すしか無いってことか。了解」


 レガリアが再び顔を上げる。


 「彼女を救えるとしたら君だけだ、頼んだよ、肇ちゃん」



♢♢♢



 体の制御が効かない。濁流のように魔力が体を駆け巡り、ただただエネルギーを求め続ける。


 「私達は恋をしてはいけない」


 大昔、私に階位を譲る直前に、族長である私の育ての親が言っていた。その言葉の意味がようやくわかった気がする。

 夢魔むま。受け継いだ名は“サキュバス”。他人から受ける恋心こそが私達の主食であり、生きるために、私達は無条件に他人を恋に落とす。私も、そうやって生きてきた。今まで出会った男達のことも、きっと私なりに愛していた。けど、それは恋ではなかった。ずっと、うまくやってこれたから。

 人の世に降りて数百年、愛すべき男を見つけてはその恋心をつまみ食いし、愛情が冷めきる前にまた新しい男に乗り換える。女が女を売る商売、風俗業が発展してからはそこに身を置いた。売る側と買う側という距離感が心地よかった。客は私との疑似恋愛を求め、いただいた恋心への対価に私もそれに応える。一線を越えようとする客が出て来れば、容姿を変えて店を移れば誰も追ってこない。生きるのに最低限必要な分だけをいただいて、それを超える前に姿を消す。そうやってうまく人の世を渡ってきた。今回も、できるはずだった。


 「紗夜さやちゃんだよね?あ、名前変わったんだっけ、今は…そう、愛流ちゃん!」


 「彼」は、容姿も名前も変えて店を移った私を追ってきた。私が捨ててきたはずのものを、「彼」は全て持って現れた。


 「事情はわかるけどさ、“君たち”が一箇所に留まり続けると歳を取らないだのなんだの言われちゃうだろうし」

 「えー?いったい何の話ですか?」

 「話し方や声色は変えられても、体が発する無意識の音は変えられない。例えば、心音とかね」


 そう言って「彼」は得意げに鼻を鳴らす。


 「君、悪魔でしょ。僕の前では隠さなくていいよ」


 ドクリ、と心臓が鳴ったのは図星を突かれた焦りだろうか。いや、違う。これは……。

 キャバクラに通う客にしては珍しい若い男。童顔な容姿とラフな服装も相まって、酒を口に運ぶ仕草にすら違和感を感じる。つい見惚れてしまっていると、「彼」は度の強いレンズ越しに目を細め優しい笑みを私に向ける。


 「大丈夫、怖いとかじゃないから。色々あってさ、周りに結構多いんだよね」


 わたしの焦りを見透かすような「彼」の言葉。表情は変えていない、はず。だとすれば、一瞬心音が乱れたことに気付かれたのだろう。聴力強化か、そういう家系なのか。悪魔の存在を知っているのならば、その程度の事は出来てもおかしくはない。


 「何故?」


 我ながら要領を得ない。多分、聞きたい事は沢山あった。だけど、うまく言葉が紡げなくて、口をついたのはほんの短い二文字だけ。

 一瞬、考え込むように顎に手を当てる「彼」を見てハッとする。慌てて言葉を添えようと口を開くのとほぼ同時に、「彼」の声が耳に届く。


 「君にさ、食べて欲しいんだ」

 「は?」


 聞こえてきたあまりにも頓珍漢なセリフに、自分でも驚くような低い声が出てしまう。質問した側の私も大概であるが、彼の言葉はそれ以上に要領を得ない。


 「えっと、何を?」

 「ん?あれ、言ったほうがいい?」


 あ、もしかしてこれ、そういうやつですか?アフターとか誘われてます?僕の童貞をもらって欲しいとかそういうのです?

 ……いや、それにしては表情に何の恥じらいもない。だとすると、あれか、童貞じゃなくてむしろ経験豊富で、行為のことを軽い運動くらいに思ってるタイプか?……うん、それならばこの表情にも納得がいく。

 しかし、だとすると腹が立つ。異性の好意を貪ることに特化し、数多の男を泥沼に沈めてきたこの私が、この冴えない男の欲求を解消する不特定多数の女の中の一人にしかすぎないとでも?……いや待て、まだ本当にそうと決まったわけじゃ……。


 「見た感じ、誰かと契約してるってわけでもないでしょ?」

 「は!?いきなり結婚の申し込み!?」

 「結婚!?まあ、僕としてはそれもやぶさかじゃないけど……いや、そうじゃなくて、こんな所でつまみ食いするくらいだし、誰かの召喚を受けてるわけじゃないんでしょう?ってことなんだけど……」


 顔中が沸騰しそうに熱い。見なくてもわかる。多分耳まで真っ赤だ。バレたくないのに、こういう日に限って化粧が薄い。軽く叩いたパウダーだけではこの火照りは誤魔化せない。


 「ふっ……あははっ!」

 「っ…!何がおかしいんですか!」

 「ごめん、けど、そんな顔もするんだと思って」


 「彼」は相変わらず可笑しそうに笑っている。本当に腹が立つ。異性に、しかも人間に、こんなにも心を惑わされたのは初めてだ。湧き上がるのは、敗北感。そのどうしようもない悔しさに、ぷくりと頬を膨らませる。


 「それで?食べて欲しいって何なんですか?」


 思わず語調が強くなってしまう。今日はダメな日だ。作り込んできたはずの「愛流」がどんどん剥がされていく。


 「そのまんまの意味さ。僕はね、君の糧になりたいんだ」

 「何それ、自殺願望?悪いけど人を食べる趣味はないの」

 「なら、食べたくなったらでいい」

 「はい?」


 意味がわからない。そもそも私の主食は人間そのものじゃなく、彼らが自身に向ける愛情だ。それをくれる人間を食べてしまったら元も子もないじゃない。


 「契約が無いとこっちで生きるのも大変なんでしょ?なら、いつか君が我慢できないほどに飢えることもあるかもしれない。その時は、他の誰でもなく僕を食べて欲しい」


 言葉の重さとは裏腹に、その表情と口調はあまりにも飄々としている。人間というのは、少なからず自らの生に執着を持つものだと思っていた。しかし、彼の言葉には生への執着はおろか、死への渇望すらも感じない。こんなにも爽やかに死を願う人間を見たのは初めてだ。

 少し、「彼」に対する興味が湧いてきた。


 「いいわ、もしそんな日が来ることがあれば、あなたを最初に殺してあげる」


 これまで何百年もこちらで生きてきた。きっとそんな日は来ない。そんなことになるほど下手な生き方はしない。だけどこう言えば、これからも「彼」に会える気がした。


 「うん、約束」


 差し出された小指を小指で握り返す。ゆびきりげんまん。


 これが“愛流”となった私と、「彼」、神山肇の出会いである。

 

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