31

 家宅捜索以来となる眞木の家はしんと静まり返っていた。ハルとジュンは働きに出ており、レイジは日用品の買い出しに行っていた。

 ミユキはどうしているのか、という問いに答えたのはリクだった。未成年者略取誘拐罪に問われたミユキは、御手洗智代と唯花の証言もあって不起訴処分となっていた。

「今は父親と一緒にいる。こっちに戻ってくるか、このまま父親と暮らすか、よく考えて決めたいと言っていた。俺はどっちでもいいと思うが、離れて暮らすとなったら眞木さんとレイジは悲しむだろうな」

 確かにあの父娘には長い時間が必要だ。ミユキの供述が事実であれば、入江は犯してもいない罪で七年も収監されていたことになる。その間に妻を亡くし、娘とも離ればなれになって、今までどんな思いで生きてきたのだろう。十四年の溝は簡単には埋まらないだろうが、少なくともミユキには選ぶ道がある。

 リビングに案内された桜庭はリクに席を外すよう頼んだ。不愉快そうな顔をしながらも、リクはお茶だけ出して立ち去った。眞木は先ほどから黙りこくっており、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。

「今日話したかったのはこれのことだ」

 早く本題に入ったほうがいいだろうと、桜庭は紙袋の中身をテーブルに置いた。眞木が手を伸ばしてその表面に触れる。

「何でしょう……。本? いやアルバムのようなものでしょうか」

「当たりだ。これは千尋が中学生のときの卒業アルバムだ」

 すると眞木は何か恐ろしいものでも触ったように手を引っ込めた。桜庭は気付かないふりをした。

「先月、千尋がわざわざ実家に戻って取ってきたものだ。親戚の証言によると、埃を被った昔の私物をひっくり返し、やっとのことでこのアルバムを見つけ出したらしい。そのとき言っていたそうだ。あの人にどうしても伝えなきゃいけないことがあると」

「……」

「千尋は俺が仕事から帰ったら大切な話があると言っていた。結局その夜、千尋は歩道橋から転落死して話を聞くことができなかった。だから……ここからは俺の勝手な推測になる」

 眞木が何の反応も見せないため桜庭はひとりで話を続けた。付箋を貼ったページをめくり、テーブルの上に広げて置く。

「もっと早く気付くべきだったのかもしれない。君と千尋は同い年で同級だ。だがまさか中学が同じだとは思わなかった。このアルバムには二人の名が載っている。眞木祐矢と長谷部千尋……」

「何をおっしゃりたいのですか?」

 突然眞木が鋭い声で遮った。桜庭が目を上げると、眞木は瞬きもせず目の前のテーブルを睨みつけていた。

「確認させてください。桜庭さんは刑事として質問しているんですか。それとも被害者の夫として言っているんですか」

「そのどちらかで答えが違ってくるのか?」

「僕から何も言うことはありません。千尋さんの事件は解決したはずです。これ以上何を知りたいんですか」

「眞木くん」

 桜庭はため息交じりに言った。過去を探られたくない彼のことだ。こういう態度に出ることは予想していた。

「さっきの答えを返そう。俺は夫として知らずにはいられない。千尋が伝えたかったことはこの中にある。クラスの集合写真、ここにひとりだけ欠席の生徒がいるが、これは君だね?」

 それは学校の校庭で撮られたと思われる、クラスの全員と教師が映った集合写真だった。その上部にある丸く切り取られた輪郭の中に、無表情の男子生徒が映っている。

「君が視力を失ったのはちょうどこのころだ。以前、君自身が俺にそう教えてくれた。この写真が撮られたのは中学三年生の卒業間際だろう。このとき君は視力を失うほどの事故に遭い、学校に来るどころではなかった」

「軽々しくあんなこと口に出すべきではないですね。事故に遭った話をしたのは随分前のことなのに、さすが警察の人は記憶力がいい」

 テーブルに目を落としたまま眞木は投げやりに言った。親しい間柄だったはずの二人の間にどんどん見えない壁が築かれていく。妻が伝えようとした言葉の意味を探るうち、友人との距離が離れていく。それは桜庭にとってつらいことだった。

「千尋は……関わっていたのか?」

「おっしゃっている意味がわかりません」

「君はこれまでに何度も同じ言葉を繰り返してきた。必ず真実を明らかにしてください、と。つまり君の真実は明らかにされなかった。他の誰かの手でうやむやにされた。千尋も忘れていたんだろう。結婚の報告のために君を訪ねるまでは」

 すぐには思い出せなかったのだろうが、三年ののち何かの拍子に思い至ったに違いない。実家に戻り、当時の卒業アルバムを見て確信を持った。そして自分が忘れていた真実を夫に打ち明けようとした。理由はわからないが、お腹の子の親になることを重く受け止めたのかもしれない。

「そんなもの憶測にすぎません。桜庭さんらしくないですね、証拠がない話を持ってくるなんて」

「君の古傷を抉るような真似をして申し訳ないと思う。だが、もし千尋が謝罪しようとしていたのであれば……」

「桜庭さん、お願いですからもう……」

 眞木がテーブルに両手を置いたとき、弾みで湯呑をひっくり返してしまった。床に落ちて割れ、ガシャンと音がする。

「あっ」

 二人が声を上げたときにはすでにリクがリビングに顔を出していた。一体どこにいたのか、部屋のすぐ外で聞き耳を立てていたのではないかと思われた。

「もう話は終わったんですか?」

 リクは眞木の傍らに立ち、桜庭に剣のある眼差しを向けた。

「ああ、終わったよ。突然お邪魔してすまなかった」

 桜庭はテーブルに出したアルバムを閉じて紙袋にしまった。これ以上無理に居座っても眞木を傷付けるだけだろう。警察犬もたじろぐ形相のリクに殴りかかられるかもしれない。

 椅子を引いて立ち上がろうとしたとき、リビングに置かれた固定電話に目が留まった。自分がかけた公衆電話からの着信を、眞木は誰からかけられたものか捜査員に言わなかった。言っていれば桜庭は刑事としてここにいられなかっただろう。その時点でリクとミユキのことを知っていたのに、あえて捜査本部に情報を上げなかったのだから。

「俺に力になれることがあればいつでも連絡をしてくれ」

 そう言って背を向けようとした桜庭に、眞木が声を投げかけた。

「桜庭さんは間違っていません。僕の真実は遥か昔になかったことにされました。今さら証明しろと言われてもどこにも証拠はありません。もしこの社会に僕と同じ苦しみを抱えた人がいれば、その人のために明らかにしてください。僕はもう充分ですから」

 そう話す眞木の顔を、桜庭は振り返ることができなかった。背を向けたまま小さく頷き、リビングを出る。ここに来ることは二度とないかもしれない。誰にも見送ってもらえぬまま、寂しく風が吹き抜ける家をあとにした。

 途中でふと千尋のことを思い出し、冬の空を見上げた。人はなぜそこに故人の面影を探し求めてしまうのだろう。奇跡のように想い人が自分を見返してくれている、そんな都合のいいことは起こらないとわかっているのに。

 いつもは活力を与えてくれる陽の光が、今日はなぜかわが身を刺し貫くように痛かった。それはまるで、今回の事件で暴かれた数々の秘密が桜庭を責めているかのようだった。

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