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 そのころ利峰署では、記者クラブ向けの会見を終えた田所が愚痴をこぼしていた。

「今日一日でかなり老けた気がするよ。わたしにばかり話をさせて、自分は素知らぬ顔の刑事部長にも腹が立つ。警視庁長官に呼び出されてさすがに堪えたと思ったんだが……」

「現職の都議会議員によるDV疑惑と、その秘書が起こした誘拐未遂事件を暴いたんです。しばらく本庁から目の敵にされるでしょうね」

 邦子は分厚い黒縁眼鏡を磨きながら半ば上の空で答えた。刑事課は相変わらずがらんとしていて、管理職の田所と邦子しかいなかった。

「詮索好きのマスコミたちだ。警察が明かさずともどこかで情報を仕入れてくるに決まっている。それなら真実が明らかになったほうがあの二人のためだ」

「署長、珍しくいいこと言いますね。ちょっと見直しました」

「大いに見直してくれて構わないんだけどね。それよりあの何とかいう弁護士はどうした? さっきまで青柳くんが取り調べをしていたあのいけすかない男」

「帰しました。正当な理由があれば別ですが、これ以上取調室に閉じ込めておけません。今夜はホテルに泊まるそうです」

「つまり今のところ疑うに足る理由はない、と」

 飯塚夏苗の遺体は裁判所の命令に基づき、正式に司法解剖に回されることになった。地元の医科大に搬送され、利峰署とも馴染みの深い小早川が執刀医となる。

「少なくとも裁判所がうんと言うような決め手はありません。ただ違和感があるというだけです」

「御手洗夫妻の事件があったからそう思うのかね?」

「それもそうですが、桜庭くんの奥様が亡くなった現場にあったメモが気になっています。飯塚夏苗の死が本当に事故ならあのメモはどうなるんです? 桜庭千尋さんの名前を旧姓で書いた謎も解けていません」

「謎ばかりだな……。ちょっと気晴らしに自販機まで行ってくる。青柳くん、ブラックでいい?」

「ごちそうさまです」

 邦子が田所を送り出してすぐ、疲れた顔の亜須香が帰ってきた。署長の言い分ではないが、こちらも十ほど歳をとった顔をしている。

「お疲れさま。どこかに寄ってきたの?」

「参考人として任意同行していた三人を送ってきたんです。ミユキと名乗っていた女性とは共犯関係にないことがわかりましたので」

「えーと、レイジにハル、ジュンだっけ? それぞれ素性のはっきりしない子たちだけど、事件には関わっていなかったのね」

「あとひとり、飯塚夏苗の自宅で見つかった指紋の持ち主が残っています。桜庭さんが時間をかけて聴取しましたけど、この若者については何も聞き出せなかったみたいです」

 亜須香がそう言ったとき、缶コーヒーを二本持った田所が戻ってきた。自分用の甘いカフェオレと、邦子が好きな濃いブラックが一本ずつである。

「桧野くんが一番乗りか。速水と市ノ瀬はどうした?」

「速水さんはわたしより先に出たのに変ですね。市ノ瀬さんは桜庭さんの代わりに残っています。あの眞木祐矢っていう人を家に帰すかどうか、辰巳さんがギリギリまで悩んでいたので」

「家宅捜索に入った家の主だな。最後の会見で潔白だったと伝えたが、さんざんマスコミに追及されたよ。素性不明の若者を住まわせている変人だとか、面白おかしく書き立てられなければいいんだが」

「まだ容疑が晴れたわけじゃないですよ」

 念押しするように言いながら、亜須香はコンビニのビニール袋を掲げた。湯気の立つ肉まんを取り出してデスクに並べる。

「そこのコンビニで買ってきました。誘拐事件のほうはめでたく解決しましたので、ちょっと休憩しましょう」

「いい考えだ。桧野くん、これで好きな飲み物でも買っといで」

「ありがとうございます」

 亜須香は小銭を手に嬉しそうに自販機に向かった。それを見送った田所は自分のデスクにどっこいしょと座った。左手に肉まんを持ち、右手で報告書をめくる。

「うーん、桜庭千尋と飯塚夏苗、どちらも既婚の女性というだけで、それ以外の共通点は見当たらないな。桜庭千尋は十二月十五日、零時から二時の間に歩道橋から転落死。死因は外傷性ショック。飯塚夏苗は十二月十四日、午後九時から十一時の間に自宅で死亡。死因は急性硬膜下血腫」

 独り言のような呟きに、同じく肉まんを持った邦子が応じた。

「二つの現場は歩いて十分ほどの距離にあります。飯塚夏苗を自宅で殺害したあと、歩道橋に呼び出した桜庭くんの奥様を殺害したとして、時間に無理はありませんが問題は動機です。なぜ続けさまに二人を殺す必要があったのか」

「そうだなぁ。二つの事件を関連づけたのはあのメモだ。あれがなければどちらも事故として処理されていたかもしれない。我々は警察に対する挑戦だと思っていたが、もしかしたら逆だったのかも……」

 田所は例のメモを映した現場写真を手に取って内容を黙読した。

「あのメモは二つの事件に目を向けさせるため、わざとあそこに置いたということですか。事故死として処理されることに抵抗がある人物といえば……。被害者の身内とか?」

 ブラックコーヒーを飲もうとした手を止め、邦子は宙を振り仰いだ。

「仲のいい友人、仕事仲間……。一番可能性があるのは身内だな。しかも被害者の旧姓を知っていたぐらいだから、かなり近しい人物と考えられる」

「署長、それって……」

 邦子が言いかけたとき、利峰署の自動ドアが開く音がした。視線を向けると、市ノ瀬が白杖をついた男に付き添って入ってくるところだった。

「課長、すみません。家まで送っていく途中だったんですけど、どうしてもお話ししたいことがあるからって……」

 市ノ瀬はその男、眞木祐矢を気遣わしげに見た。初めて訪れる場所であるためか、眞木は不安そうにあちこち見回している。

「あなたが眞木さんですね? 報告は受けています。刑事課の青柳と申します」

 邦子は受付の前に出てきて眞木に挨拶した。

「あの……。桜庭さんはいらっしゃいますか?」

「もうすぐ戻ってくると思います。お急ぎでしたら電話で呼び出しましょうか」

「いえ、いいんです。そのほうが話しやすいですから」

 眞木は慌ててそう言って、気を落ち着かせるように何度か深呼吸した。そして意を決したように顔を上げて話し始めた。

「行方を知りたい人がいるんです。飯塚さんという方の死亡現場に指紋が残っていたリクという若者です。彼が事件に関わっているとは思えませんが、昨日から帰ってなくて心配しているんです」

「その男性に関しては警察も行方を捜しています。このようなことは言いたくありませんが、人が亡くなった現場に指紋が残されていた以上、事件に無関係とは思えません」

 すると眞木はそう言われることを予期していたように頷いた。

「わかっています。僕は彼を擁護するために来たのではありません。実はリクが行きそうな場所に心当たりがあるんです。でも僕ひとりじゃどうにもならないから、警察に探し出してほしいと思ってここに来たんです」

 これに驚いたのは邦子だけではない。市ノ瀬と自販機から戻ってきた亜須香、それに田所も注目した。一度に四人分の眼差しを浴び、眞木にはそれが見えなかったのが幸いといえる。

「以前リクがよく利用していたネットカフェがあるんです。その近くに閉店したカラオケ店があって、ひとりになりたいときはそこに行くと言っていました。確証はありませんが、もしかしたらそこにいるんじゃないかって思うんです」

 言っているうちに自信を失くしたのか、眞木は口を閉じてうつむいた。邦子がちらりと振り返ると、田所はこくんと頷いた。

「行ってみる価値はあるな。今のところ任意同行で引っ張ることしかできないが、もし抵抗したら公務執行妨害で現行犯逮捕だ。遺体発見現場で見つかった指紋と照合し、一致すれば逮捕状も楽にとれるだろう」

「わかりました。桧野ちゃん、速水くんに連絡を取って一緒に向かってくれる? 市ノ瀬くんは眞木さんを送り届けてから現場に合流して」

 邦子はてきぱきと捜査員の采配を決めた。

「あっ、でも桜庭さんはどうするんです?」

 亜須香が飛び出していったあと、市ノ瀬が思い出したように言った。邦子が答える前に、横にいた眞木が口を開いた。

「あ、あの、僕が口を出すことじゃないですけど、連絡しなきゃいけないんですか?」

「刑事ですから容疑者を追うのは当然です。それとも桜庭に連絡を取ってほしくない理由でもあるのでしょうか?

「そういうわけじゃありませんけど、あの人の声、何となくうさんくさく聞こえるんです。何もかも知っているのに知らないふりをしているような、そんな気がするんです」

 眞木はふっと不安げな表情を浮かべてそれきり黙り込んだ。そして市ノ瀬と一緒に利峰署を出ていく姿を、邦子はじっと無言で見送った。

「どうしたんだね?」

 気付いた田所が尋ねると、邦子は小さくかぶりを振った。

「何でしょう、胸騒ぎがして。嫌な予感がします」

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