15

 そのころ渡は『まほろば公園誘拐事件特別捜査本部』と紙が貼られた会議室にいた。特殊班捜査係の刑事たちは今のところ出番がない最新機器に囲まれ、焦れたような顔で控えている。いまだ身代金要求の電話の一本もなく、まさに宝の持ち腐れ状態だった。

 渡は手短に進捗状況を伝え、集中力を切らさぬよう釘を刺した。肝心なときに役に立たなければ、刑事部捜査一課特殊班捜査係の名も、これまで受けた訓練も、金をかけて揃えた最新機器も意味を為さない。

 隅のほうに置かれた応接セットには、被害者の母親である御手洗智代が座っている。誘拐犯から電話があった場合に備え、智代のスマートフォンは全員の目が届くところに置いてある。それを横目で確認したあと、渡はソファに歩み寄った。

「ご気分はいかがですか」

 そばにいた女性刑事に退席を促し、渡は正面に腰かけた。聞くまでもなく智代は疲弊しきっていて、渡の問いに顔も上げなかった。

「唯花さんの行方が依然としてわからないこと、いまだ犯人確保に至っていないことをお詫びします。相手は相当頭の切れる犯罪者グループか、あるいは行き当たりばったりの素人の集まりであると考えられます」

「……」

「先ほど東京から連絡がありました。御手洗議員がこちらにいらっしゃるそうです」

「あの人が?」

 初めて智代が口を利いた。過度の不安のせいか、その表情は病的なほど青ざめている。朝からずっと部屋に閉じ込められ、スマートフォンも取り上げられ、娘の安否も不明という状況下、普段どおりの振る舞いができる者がいるだろうか。

「駅まで捜査員が迎えに行くことになっています。二時間もすれば本部に到着されるでしょう」

「そうですか……」

 智代は心ここにあらずの様子で、ぼんやりと窓のほうを向いた。今はどんな言葉がけも無意味だろうと思いつつ、渡は伝えるべきことを言った。

「現時点での捜査状況を報告します。唯花さんをさらった誘拐犯ですが、ある程度の目星はつきました。これから家宅捜索を行なう予定です」

「わたしや夫が知っている人ですか?」

「証拠が出揃うまで素性は明かせません。わたしどもの前提が間違っていて、事件とは無関係かもしれませんから」

 そう前置きしたあとで渡は一枚の書類を差し出した。先ほど刷り上がったばかりの事件関係者のリストである。捜査線上に浮上した眞木、まほろばフェスタの出店者である富田、通報者の入江などの名前が記されている。

「ご確認いただきたいリストです。ここには今回の事件に関わりのある人物の名が記してあります。過去にトラブルになった、あるいは一方的に恨みを抱かれた、といったような記憶はございませんか」

 智代はリストの名前をひとつずつ見ていき、小さく首を横に振った。

「知らない人ばかりです。この中に娘を誘拐した犯人がいるんですか?」

「実行犯は若い女性と判明していますが、共犯がいるかもしれません。様々な可能性を考慮に入れ、唯花さんの一刻も早い救出と事件の全容解明を急いでいます」

 渡は自信を込めて言ったが、智代の表情は晴れなかった。娘はどこにいるのか。娘は無事なのか。智代の無言の問いかけに答えられるような情報はまだない。しかし捜査は着実に前に進んでいるという手応えがあった。

 最後におざなりの挨拶を述べ、渡は階下の会議室に戻った。相変わらず人声と物音で騒がしいが、この騒がしさこそ捜査が行き詰まっていない証拠である。静まり返った部屋に大勢の刑事が立ち尽くしている光景ほど、危機感を煽るものはない。


 桜庭がその家に到着したとき、捜索差押許可状は手元になかった。捜査本部に届き次第、手の空いている者が持ってくることになっている。

 何の変哲もない木造一戸建ての住宅を囲うように、警察車両と強面の警察官がずらりと並んでいる。それは誰が見ても異様な光景だった。知らずに通りかかった近隣住民は迂回を命じられ、何事かと目を剥いた。

 そんな状況で家の住人が異変に気付かないはずはなく、やがて玄関ドアが開いて若者がひとり顔を出した。伊達によるとレイジという名の男で、物々しい雰囲気に驚いたというよりこれから起こることを予期して怯えているようだった。

 ちょうど目が合った桜庭が用件を伝えるために進み出た。

「君のほうから家主の眞木さんに伝えてくれ。任意でご協力いただいた前回と違い、今回のこれは裁判所の命令によるものだ。君たちには容疑がかかっている」

 厳密には令状はまだ届いていないのだが、そこまでは言わなかった。レイジは本心を探るようにその瞳を見返し、ちらっと自分の背後を見た。

 まるで見計らったように家の奥から別の人物が現れた。伊達が小声で「彼が眞木祐矢です」と告げる。

「お待ちしていました。中へどうぞ」

 眞木は驚きも動揺もない無表情で廊下を戻っていった。支えがないと不安なのか、壁に片手をついている。レイジはドアをいっぱいに開いて刑事が通れるようにし、すぐさま眞木のあとを追った。

「さて行くか」

 桜庭が振り返ると、特殊班捜査係の八重樫班長が冷たく見返した。

「相手は未成年誘拐と犯人隠匿および証拠隠滅の容疑者だ。無闇に刺激しないように」

「わかっている」

 同意のために頷き、桜庭は伊達のあとから家に上がった。八重樫は他の捜査員に指示し、ここで待機するよう言った。令状もないのに大勢で押しかければ相手を過度に警戒させることになりかねない。

 リビングに入ると、そこには眞木を入れて五人の男女がいた。レイジ、ジュン、ハルの三人は報告にあったが、この場にはもうひとり桜庭と同年代ぐらいの女性がいた。

「あなたは?」

 八重樫はやや横柄な口調で尋ねた。警察対策のため眞木が応援を呼んだのかと警戒したらしい。

吉村よしむらめぐみと申します。わたしはここの住人ではありません」

 女性はそれしか言わなかった。レイジやジュンから話を聞いたのだろうか、全身から苛立ちが滲み出ている。警察だろうが何だろうが、この家に他人がずかずか上り込むのは許せないと言わんばかりだった。

「僕たちにはどういう容疑がかかっているんですか?」

 テーブルの天板に片手を置き、眞木は刑事たちがいるリビングの入口に顔を向けた。八重樫は質問に答えず、そう広くもないリビングをぐるりと見回した。

「これで全員ですか」

「そうです」

「念のためお聞きしますが、奥に誰か潜んでいるようなことはありませんか? 隠し立てすると罪が重くなりますよ」

「それをこれから確かめるのでしょう?」

 眞木は大勢の捜査員が何のためにここに来たのか、その意図を正確に把握しているようだった。表情にわずかに影を落として付け加える。

「先日お越しいただいたとき、次は強制的に行なうようにと申し上げましたから」

「ならば話は早い。まほろば公園で少女が誘拐された事件はご存じでしょう。ここの住人であるミユキという女性には未成年者略取誘拐罪の容疑、あなたたちには犯人蔵匿および証拠隠滅の容疑がかかっています」

「ミユキが誘拐事件の犯人で僕たちはそれをかばっていると、そうおっしゃるのですか」

「それをはっきりさせるために家宅捜索が必要なんです」

 八重樫がきっぱり言い切ると、眞木は何か言おうとした口を閉じた。めぐみが背に手を当て、「座りましょう」と優しく声をかける。ジュンはハルと不安げに顔を見合わせ、レイジは隅のほうでおどおどしていた。

 そのときバタバタと足音がして、リビングに畠山が入ってきた。

「失礼します。捜索差押許可状、届きました」

「よし。十二月十五日、午後三時三十七分。家宅捜索開始」

 その号令を合図に、待機していた捜査員が一気に押し寄せた。八重樫は家の住人をリビングの一角に固め、不審な動きをしないよう牽制した。

「通信機器、手紙、メモなどは取りこぼしのないよう押収しろ。ミユキと名乗っていた女性の部屋はどこです?」

 八重樫に問われ、眞木は部屋の位置を説明するのに言い淀んだ。代わりに近くにいたジュンが進み出る。

「こっちです。眞木さん、大丈夫だからね」

 励ますように声をかけ、ジュンは捜査員に連れられてリビングを出た。その途中、ぶつかりそうになった桜庭は険悪な眼差しで睨まれた。

「八重樫班長はこの家に被害者が監禁されている、あるいは監禁されていたと考えているのか?」

 邪魔にならないよう廊下に出たところで、桜庭が伊達に尋ねた。

「自ら現場に出向くぐらいですから班長も渡課長と同意見でしょう。直接的であれ間接的であれ、この家の人たちは事件に大きく関わっている。有力な手がかりがない今、わずかな情報をもとに推論を重ねることは間違っていません」

「俺もここの住人が無関係だとは考えちゃいない。だがな、たとえ警察であっても確かな証拠もなく民間人の生活を侵害していいわけがない。被害者の痕跡でも見つかれば万々歳だが、今回のこれはそう単純なことではないと思う」

 玄関を入ってすぐ右には物置があり、左にはキッチンと一体化したリビングがある。その隣が浴室とトイレで、さらに奥に行くと住人の寝室がある。そちらの方向からやってきた捜査員数人は押収品を詰めた段ボールを抱え、なぜかくすくす笑っていた。

「なぁ、さっきのアレ、びっくりしたよな」

「ああ。八重樫班長、どこまで本部に報告するんだろ。次の会議が楽しみだ」

 捜査員は外に出ていき、抱えた段ボールを警察車両に積み込んだ。その間も何事か話しながら笑っており、桜庭は胸糞が悪くなった。

 似たようなことを思ったのか、伊達がぽつんと言った。

「僕たちは容易に民間人の私生活に踏み込むことができます。ただ、眞木さんも言っていましたが、彼らにも守るべきものがあります。事件解決のためとはいえ、それを暴くことが本当の正義なのでしょうか」

「……」

 桜庭は返事をせず、踵を返してリビングに戻った。レイジ、ジュン、ハルはそれぞれ捜索に立ち会っているらしく、八重樫と眞木、それに吉村めぐみという女性しかいなかった。

「奥の様子を見にいってくる。すまんが代わってくれ」

 眞木とめぐみに睨みを利かせていた八重樫が申し出た。桜庭が承諾すると、八重樫は伊達を引き連れてリビングを出ていった。しばらく気まずい沈黙が流れ、めぐみが桜庭に刺々しい視線を投げた。

「警察って遠慮の欠片もないんですね。眞木さんたちが事件に関わっていると本気で思っているんですか?」

「めぐみさん、やめてください。仕事で来られているんですよ」

 眞木はめぐみをなだめ、「すみません」と謝った。

「いえ、警察は……」

 言葉を続ける前に、捜査員がリビングにどやどやと入ってきた。キッチンの戸棚、引き出し、新聞ラックを順に見ていく。ひとりの捜査員は固定電話に目をつけ、手袋をはめた手で着信履歴を調べた。

「今日の十時半ごろ、公衆電話から着信がありますね。一度目は不在着信、二度目は通話されているようですが、相手はどなたですか?」

「プライベートな電話です。ちょうどまほろば公園から帰ってきたばかりで、レイジが取り次いでくれました。昔の友人がかけてきてくれたんです」

「今の時代、公衆電話からかけてくるなんて珍しいですね。失礼ですが、その方の名前を教えていただけますか?」

 すると、眞木は険しい表情で固定電話のほうを見た。

「言えません。何の関係もない友人に迷惑がかかります」

 この期に及んでも眞木は頑固な態度を崩さなかった。当然、捜査員は面白くなさそうに唸り、手元のバインダーにそのことを記録した。

「――なぜそうまでして守るんです?」

 めぐみが眞木に話しかける声が桜庭の耳に届いた。振り返ると、眞木はまっすぐ前を見つめて座っていた。

「僕には嘘も真実もこの目で見ることはできません。これまで生きてきた時間の中で、手を差し伸べてくれた人のことを悪く言いたくないだけです。こんな僕に誰かを守るなんて高尚なことは無理ですよ」

 悲しげな微笑を浮かべ、眞木は膝の上の手をきゅっと握りしめた。

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