10

 胃の内容物は皆無だった。手すりをしゃぶり、鉄の味で空腹感をごまかす。

 どれほどの時を航海しただろう。前にも後ろにも、まるで空を飛んでいるみたいに、青の世界が続いていた。ああ、同じ場所をグルグル回っていたらどうしよう。先が見え過ぎるゆえに先の見えない航海が、井ノ道の不安を煽り立てた。

「どうして足を鎖で繋いでいるんだい?」

 暇だったので、駄目もとで聞いてみる。長い航海のせいで、彼は社会的身分の低い人間で、殺意は一切持っていないということだけは理解できた。

「この船は、どこへ向かってる?」

「……」

 他にも聞きたいことが山ほどあったが、疲れるだけなので、止めることにした。

 すると突然、

「もう少しで到着します」

 と彼が口を開いた。

「この先に見える森林に囲まれた島が、我々の目的地です」

 感情の伴わない平坦な口調だった。

「もしかして君は、もったいないからという理由でヨーグルトのフタの裏をベロベロ舐め回すタイプかい?」

「……」

 必要最低限のことしか喋ってくれないようである。

 しばらくすると彼の言った通り、ふさふさと木の生い茂った島が目の前に見えてきた。

 全身が粟立つのを覚えた。念のため、事前に衛星写真を見て小笠原諸島を構成する島々の外観をすべて記憶してきたのだが、恐ろしいことに目の前の島は、どの島の外観にも当てはまりそうにないのである。

 記憶に間違いはない。まさか、誰にも存在を知られていない無人島が、本当に存在していた? 空木という名の人生ゲームにおいて祈禱師がサイコロを振り、俺という駒が『謎の無人島』のマスに止まったというわけか?

 ボートがゆっくり島へ近づく。広い砂浜が見えてきた。黄ばんだ砂に、黒い砂が剃り残した髭みたくポツポツ浮いている。南国のビーチのイメージとはかけ離れた、汚らしい外観だった。

 ボートが「サク」と音を立てて、砂浜に乗り上げる。気持ち良さそうに日光浴をしていた蟹たちが、ボートの影に怯えて砂の中へ潜ってゆく。

「到着いたしました」

 うら寂しい砂浜の奥には、森林の作り出す闇が顔をのぞかせていた。上陸して初めて分かったが、どうやらこの無人島は、かなりの面積があるようだった。東京ドーム何個分なのかは知らないが、おそらく千葉県浦安市の某テーマパーク並みの広さであることは、間違いなさそうであった。

 井ノ道は、ボートから降りると、砂浜に片足を沈めた。

「なんて名前の島なんだ?」

「忘れてしまいました」

「どうも、ありがとう」

 信じられないが……存在しない無人島は、存在していた。では、例のブログや風車の話は真実なのか? それとも、空木が産み落とした単なる悪夢に過ぎないのか。

「なあ、ちょっと聞きたいんだが、先の老人集団はどこへ行った?」

「……」

 彼は、汚らしい布切れに日光消毒を施しながら、船の一部と化していた。

 スマホを起動させる。適当に砂浜を歩き回る。もちろん圏外だった。さて、これからどこへ向かおう。

 すると、汚らしい布切れを着た二人の女性が、森の闇から幽霊のようにヒョッコリ現れた。反射的に右足首に触れる。いや、よく観察すると、二人とも彼と同じような足枷を足首に嵌めているではないか。

 二人はまるで鏡合わせのように歩調を揃えて、呆然と立ち尽くす井ノ道のもとへ近づいた。

「ようこそ、お越しくださいました」

 瓜二つの顔が、まったく同じ声質で、同時に喋った。双子だ。布切れからひょろりと伸びる腕はやせ細っていて、肌は砂漠のように乾燥している。若くもなく、老いてもいない。日本人らしい、落ち着いた品性のある風貌をしていた。

「ホテルへご案内します」

 器用に言葉を切り分けて「ホテルへ」と「ご案内します」を別々の人物が言う。

 こんな孤島にホテルがあるのか。ああ、そういえば、空木は言っていた。『招待された世界中の富豪たちが、療養のために度々無人島を訪れる……』。つまり、この部分も真実だったのだ。

 双子の女性は、くるっと背を向けるとスタスタ砂浜を歩きはじめた。ついてこい。そう言っているのだ。

 まるで背中に羽が生えているかのように、二人は軽々と先へ進んでゆく。二人の足跡は、長い鎖によって乱雑にかき消されていた。

 井ノ道は、親を追うヒヨコのように二人の後をつけた。

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