第96話 決戦2
ワラキア公国軍とオスマン帝国軍の運命の決戦の時が近づいていた。
「こりゃあまたごつい景色だわなあ!」
ゲクランのなんとも鷹揚な感想に古参の傭兵たちから失笑が漏れた。
オスマンの先遣部隊四万が迫りつつある光景は確かに驚くべきものだが、それをごついと表現する人間はゲクラン以外にいないのではなかろうか?
「シェフ殿のお顔ほどではありませんがね」
古参兵の間で爆笑がわきあがる。
広い額に張り出た頬骨、傷だらけでとうてい滑らかとは言えぬ肌、強面のその人相はまさにごついと呼ぶ表現に相応しい。
「馬鹿野郎! オレのは厳めしいっていうんだ! 風情ってもんがあるだろ?」
「………どのつら下げて風情なんて言いますか」
呆れたように副官が肩をすくめると再び爆笑の輪が広がった。
もちろんその会話は意図的なものであり、ゲクランも幕僚もお互いが一芝居うっているという自覚はある。
だが意図的に引き出された陽気な笑い声は、名もない兵士たちの間に、水が大地に染みわたるように浸透していく。
戦争という極限状態の中で笑う、という行為は意識するとしないとに関わらず少なからぬ勇気と力になる。
ゲクランとその幕僚たちは経験的にそれを知っているのだった。
ガリエル・パシャ率いる四万の兵団は、ゲクランの統率する方陣に対し、正面から突撃を開始した。
雑兵ばかりで構成された第一陣の後方には、正規兵の銃兵と砲兵さらにその後ろには督戦隊が満を持して控えている。
人柱の役目を押し付けられた形の雑兵には悪夢というしかない陣形であった。
しかし逃げる道などない。戦意の有無にかかわらず、彼らには前進する以外に道はなかったのである。
「死戦せよ! 我らが忠勇なる兵士たちよ! ここでワラキアに勝利を収めれば恩賞は思いのままぞ!」
往くも地獄退くも地獄………そんな状況に甘美な一滴がこぼされたことで、兵士たちは熱い奔流となってワラキア軍に襲いかかった。
「擲弾兵!」
一線に進み出たワラキアの誇る擲弾兵部隊が一斉に手りゅう弾を投擲する。
棒の先にくくりつけられた陶器の形状から、ワラキアの鉄槌と呼ばれて敵軍から忌み嫌われている攻撃であった。
炸裂音が響き雑兵たちの突進に一瞬の硬直が生まれた。
「放てぇぇ!!」
その一瞬の硬直を見逃すゲクランではない。
一斉射撃によってさらにバタバタと倒れる兵士が続出する。
前線の停滞により、後続と前線の間で密度が飽和状態に達しようとしたその時、ワラキア砲兵による火力支援が開始された。
巨大な運動エネルギーがオスマン歩兵たちに無慈悲な死を振りまいていく。
さらに中には爆発とともに破片を振り撒く榴弾……焙烙玉といったほうがイメージは近いかもしれないが……があり、兵士たちが身体の一部を欠損していく有様はとうてい高いものとはいえない雑兵の士気を阻喪させるに十分であった。
両翼から迫る軽騎兵部隊もまた停滞を余儀なくされている。
側面に回りこもうとした騎兵の鼻面に火炎瓶を投擲されたためであった。
馬という生き物は臆病なものであり、よほど訓練を積んでいないかぎり炎に向けて突撃を続行できるものではない。
損害こそ少ないものの、大量の火炎瓶による火勢は戦闘正面を極限することに成功していた。
「………まったく噂には聞いていたが………」
ガリエル・パシャはワラキア軍の異常なまでの火力の集中に戦慄を禁じえなかった。
彼の知る戦場とは人と人の生身のぶつけ合いであり、士気と数が勝負を決めるものであったからだ。
しかしワラキア軍の戦いはおよそ士気と鉄と火薬の量で勝負するものであるようあった。
「だが結局戦いを左右するものが数であるという真実は変わらんよ」
そう、オスマンが誇るものは何も戦闘員の数ばかりではない。
火力の華たる大砲の数においても、決してワラキアに劣るものではないのだ。
雑兵の犠牲を尻目に、今度はオスマン軍による火力支援が始まった。
ワラキア公国軍が誇る銃兵部隊は火縄のくびきから解き放たれたことにより、他国を遥かに凌駕する歩兵密度を保っているが、砲兵の弾幕を相手にするには逆にその密度が仇となる。
一発の砲弾が時として三人四人のワラキア銃兵を撃ちぬき、各所で肉片を宙に巻上げていった。
さらに百年戦争でフランス軍が使用したものと、同じ構造の対地ロケットが幾百の火揃となってワラキア銃兵に殺到し少なくない数の銃兵を打ち倒すことに成功する。
「ぬるいんだよ! その程度でワラキア公国軍が崩れるか!」
オスマンの銃火に身をさらしながら、ゲクランとその幕僚たちはなお意気軒昂だった。
フス派が使用したことでその語源ともなった榴弾(フス派の大砲)はいまだオスマンの砲兵部隊には普及していなかったために、オスマンの砲撃は砲弾そのものの直撃をさせないかぎり被害を与えられずにいたのである。
また対地ロケットも火薬のほとんどを推力にとられてしまっているので、実は派手な見た目ほどの威力はない。
瞬く間に混乱を収束したワラキア軍は肉薄する雑兵を一気に押し戻した。
オスマンの雑兵が装備する武器はそのほとんどを湾曲刀が占める。
対するワラキア銃兵は七十センチにならんとする長大な銃剣を装備しており、そのリーチの差は致命的であった。
槍先を揃えた銃兵の突撃に雑兵たちはほとんど為す術なく串刺しにされ、第二列のワラキア銃兵に至近距離から斉射を受けると彼らのなけなしの勇気は完全に潰えた。
悲鳴と怒号のなかにオスマン兵が本能のままに逃走を開始したそのとき。
「………逃げるものは撃つ!」
壊乱し後方を覗き込んだ彼らの見たものは、まさに自分たちに照準を合わせた味方の銃口であった。
味方の銃口を逃れてもさらにその後には督戦隊がおり、またさらに後方からは新たな兵団四万が迫っている。
退く先に待っているのは確実な死…………ならば進むよりほかに生きる道はない、
「アラーに栄光あれ!!」
あえて狂気に身をゆだねて、雑兵たちはまるで泣き声のような甲高い叫びとともに再びワラキア軍へと猛進した。
「槍先を揃えろ! どうせ長くは続かぬ!」
ゲクランの読みどおり、無秩序な突進はワラキア兵を一時的に押し戻すことに成功したものの、目だった被害を与えるわけでもなく体力の限界とともに停止し二度と立ち上がることはなかった。
狂気は一時的に身体の力を引き出しはするが、その制御の及ばぬ働きは結果的に兵士から立ち直る余力すら奪ってしまうことを、歴戦のゲクランが知らぬはずもなかったのだ。
第二波の兵団もガリエルと同様の経過を辿っていた。
ワラキア公国軍の方陣の備えは堅く、数にものを言わせた雑兵の突撃はいまだ大きな効果を挙げられずにいたのである。
しかし目に見えないところで彼らは着実な戦果を成し遂げていた。
「全く、叩いても叩いても湧いてきやがる………!」
ゲクランの巧みな指揮により最小限に抑えられていたものの、ワラキア公国軍の消費した弾薬量は莫大なものであり、莫大な消費を維持し続けられるほどにワラキア公国軍の備蓄は多いものではなかったのである。
「あとどれほどだ?」
「銃兵は予備の在庫があと百斉射ほど、手榴弾は手持ちが最後です」
「思ったより早いな………早すぎる」
まさに予想を超える消費量というべきであった。
もとより前方二列を射撃させ、後方に下がることでところてん式に射撃を継続するスウェーデンマスケット式の射撃法が、弾薬消費量を飛躍的に増大させることは予想されていた。
しかし督戦による無秩序な突撃の継続は、ワラキア軍に予想を上回る補給上の負担を強いていたのだ。
既にワラキア銃兵は二つの兵団との戦闘で二百を超える斉射を行っており、このまま戦況が推移するならスルタンとともにあるイェニチェリ軍団との戦闘の前に弾薬が尽きる計算になる。
手榴弾がほぼ底を尽きかけた今、銃兵の負担は増えこそすれ決して減るはずがないにもかかわらずだ。
戦端が開かれてから四時間以上が経過し、戦い続けてきた銃兵部隊にも疲労の色が濃く見えはじめていた。
「こりゃあ、やっぱり奥の手が必要になるかな………?」
ゲクランはわずかに首をひねって後方の本陣にいるはずの主を見やった。
敵にも味方にも想定に大きな齟齬が生じている。
特にワラキア公国軍にとって、督戦の効果を甘く見ていたツケは大きい。
だが問題はその齟齬をどこまで許容できる戦略を立てていたかということと、どこまで速やかに修正ができるかということなのだ。
その決断は尊敬すべき主君の胸ひとつにかかっていた。
「オスマンの銃兵が接近します」
雑兵の排除が終わったと思っていたらその間隙に銃兵が距離を詰めてきていたらしい。
射撃戦ではワラキアが優位にあるとはいえ、憂鬱な相手であった。
「第一列、第二列斉射後突撃する。オレがいいと言うまで止まるな! 一気に蹴散らしてくれる!」
オスマン軍も銃兵を増やし、銃剣も装備しつつあるようだがそれだけでは足りない。
各個射撃ではなく統一された斉射、ファランクス並みに統一された突撃、その運用があって初めて銃兵は軍の主力足りうるのだ。
そこまでの理解が及ばなかったのかあるいは時間が足りなかったのか、ゲクランの見るところオスマンの銃兵には未熟さが目立つ。
ヴラドがどのような決断を下すにしろ、ゲクランは戦術指揮官として前線で最善を尽くす以外にない。
今は余計なことは考えず、目の前の敵に集中することにしてゲクランは部下とともに突撃に加わった。
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