第91話 陽動

 攻囲戦は順調だ。

 しかし順調でないものがある、とメムノンは想定外の事態に頭を痛めている。

 肝心なワラキア公の消息が不明であることがそれだった。

 可能なかぎり斥候を飛ばし情報を集めてはいるが、ヴァルナに入ってからのワラキア公国軍の動きが不明瞭であった。

 最後の使者の報告は、再びブルガリアを南下し始めたらしいという未確定のものであったが、それにしてもその歩みは遅すぎる。

 最低でもそろそろトラキアを臨む地に達していなければ、コンスタンティノポリス陥落に間に合わないのではないか?

 もしやヴラドはこのまま帝国を見捨てる気なのだろうか?

 いや、それはない、ないはずだ。

 メムノンは疑念を振り切るように頭を振った。

 コンスタンティノポリスをヴラドが見捨てるはずはない。

 それがどれほど勝算の立たぬものだとしても。

「まさか救援のふりだけをして間に合わなかったことを演出するつもりか?」

 いや、確かにヴラドは一代の英雄だとはいえ、帝国の後ろ盾なしにオスマンと正面から争えるほどの力はないのが現実だ。

 そんなその場しのぎで今後を乗り切れるわけがない。

 座して死を待つつもりなのか? お前はその程度の男であったのか? ヴラドよ

 いささか利己的な恨みをヴラドに対して抱くメムノンの前に、慌しく急使が駆け込んできたのはそのときだった。

「宰相閣下! 一大事でございます! 帝都アドリアノーポリの北西にワラキア公国軍およそ二万五千が集結しております!」

「………ワラキアの動きはどうだ?」

「帝都を攻めかかる様子はありません。今のところ模様見の段階かと」

 使者の言葉にメムノンは失意とともに怒りを覚えずにはいられなかった。

 それはつまりヴラドにとって、自分は首都に敵が迫ってきたからといって二十万攻囲軍を撤収させる愚か者と認識されているといわれているに等しい。

 メムノンに対する信じがたい侮辱であった。

 アドリアノーポリの首都としての歴史など、コンスタンティノポリスが陥落した瞬間に終わるということがわからんのか!?

 コンスタンティノポリスを手に入れれば、すぐにもオスマンの帝都は新たな都、コンスタンティノープルとなるだろう。

 ワラキアの動員兵力からいって、国内の維持に残す戦力を考えれば二万五千という数字は妥当なものだ。

 アドリアノーポリを伺うワラキア軍が、ワラキア派兵戦力の全てと思って間違いあるまい。

「……………ヴラドよ、貴様には失望したぞ」

 メムノンは怒りをにじませて吐き捨てるように命じた。

「帝都の守備隊には手はずどおり守備に専念して迂闊な手出しは控えるよう伝えろ。もしワラキア軍が南下した後には速やかにその退路を断て、とな」

「はっ!」

 せっかくの興が削がれたがやむを得まい。

 ヴラドの破滅を見るのは後回しに、まずは地中海の宝石をこの手にいただくとしようか。

 再びメムノンはいまだ激戦の続くテオドシウス城壁の戦いに目を見やった。

 戦意の低いトラキアやセルビアのキリスト教徒からかき集められた雑兵が、ふりそそぐギリシャの火にどっと逃げ崩れる様子が見て取れる。

「退くな! 退くものは斬る! 退くことを見逃すものも斬る! 退くものと同郷のものも斬る! 死にたくなくばただ敵を倒せ!」

 ラドゥの督戦隊が、見せしめに何人かを切り殺し戦線と立て直すのを見てメムノンはニヤリと嗤った。

 今はラドゥの決して報われることのない奮戦ぶりを見て溜飲を下げておくべきであった。



「全くヒヤヒヤもんだぜ…………」

 斥候がもたらした情報は、アドリアノープルのオスマン兵は固守するにとどまるというものであった。

 それでも威力偵察がないとも限らないので迎撃の準備を怠るわけにはいかない。

 それにしてもワラキア公の読みは大正解だった。

「決してアドリアノープルの部隊は出戦してこない」

 さすがに帝都を陥落されては兵はともかく行政を司る役人と組織に致命的なダメージを負う可能性がある以上野戦で守備兵力を失う冒険は犯せないのだ。

 攻撃側と同等以上の戦力に立て篭もらせれば、まず短期に帝都を抜かれることはないはずであった。

「…………まあ、落とす気もないがね」

 落とすどころの話ではない。

 二万五千のワラキア公国軍の実情は、その大半がブルガリア内の旧貴族や不平市民、正教徒といったおよそ軍事教練とは縁のない烏合の衆で構成されていた。

 攻勢に転じるどころか、攻めかかられたら応戦することすら怪しいものである。

 ワラキア公国軍別働隊指揮官ミルチャコフ・ツポレフ卿は、鼻を鳴らして薄く笑った。

「よくもまあ、こんな策を思いつくものだ。まったくあの人を敵に回さずに済んだのは僥倖だな」

 ミルチャコフはワラキア南部のブルガリア国境付近に領地を持った弱小貴族の一人に過ぎなかったが、ヴラドの帰還以来ベルドの父と旧知であったこともあって、

 当初からヴラドに仕えている数少ない貴族のうちの一人だった。

 その後のワラキアでは貴族の地位と権力は見るも無残に衰退していったが、こうして軍で重きをなす現在の自分もそう捨てたものではない。

 今後は貴族も何らかの官僚として政府に取り込まれたものになっていくのだろうが、才と努力次第で己の手腕を振るわせてもらえるのなら、ミルチャコフにはなんの異存もなかった。

「隊を乱すなよ。ブルガリアの騎士連中にもそれだけは徹底させろ! とりあえず見栄えよくすることだけがオレたちの生命線なんだからな!」

 ワラキア公から分派されたミルチャコフの配下は、実際のところわずかに四千にすぎない。

 ヴァルナからシュメン・ドブリチ・スタラザゴラ・プレペン・スリプエンといった北部諸市の警備兵力を一掃し住民を煽動して一軍を形成後アドリアノーポリの残存兵力に圧力をかけること。

 ただそれだけがミルチャコフの任務の全てだった。

 オスマンに恨みをもつ者や、出世の機会と見る者にはこと欠かないため、兵を揃えるのはさほどの難事ではなかったが、なんといっても実戦能力ときたら皆無に等しいのだ。

 没落貴族の騎士たちを中心に、なんとか戦闘行動がとれそうなもの三千人とワラキア公国軍四千で前面集団を形成し、堅固な方陣を敷いているかに見せかけるのがミルチャコフの腕の見せ所であった。

 さらにシエナ配下の間諜たちにより、ワラキア公国軍がアドリアノーポリに手をかけたことはブルガリア全土に知らしめられている。

 今後はさらなる兵の増大や物資の支援が期待することも可能だ。

「うまいこと、トラキアからも叛旗があがるようなら、雑兵ばかりのオレたちにもャンスがないわけじゃないしな」

 もっともここでアドリアノーポリ軍を牽制しているだけでも、ミルチャコフの軍功が絶大なものになることは確かであった。

 ヴラドの戦略的奇襲を成功させるためには、ここでミルチャコフが囮である、とばれるわけにはいかなかった。

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