第81話 暗闘

 メフメト二世はラドゥを呼びつけていた。

 スルタンの宮廷内ではない

 囚人の閉じ込められた地下の一室である。

「陛下、お呼びにより参上仕りました」

「よくきた、ラドゥ………しかし今日は汝につらい事実を告げねばならぬ。心して聞くがよい」

 そういうとメフメト二世は獄吏から鞭を受け取ると音高く囚人の男を打ち据えた。

 皮膚が裂け多量の鮮血が飛び散る。

 囚人の口から言語に尽くしがたい叫びがあがった。

「頼む、何でも話す。話すから鞭だけはやめてくれ!」

 鞭が拷問に用いられるのは伊達ではない。

 痛みを味あわせるのに鞭に勝る武器は少ないのだ。本気で打たれた鞭は数十回もあればゆうに人をショック死させてしまうに足りる。

 生よりも死を望ませてしまうほどの激烈な痛みを、鞭は発生させるのであった。

「ワラキアの間諜よ、何をしにこの国へ参ったのか今一度話すがよい」

「ラドゥ様の動向の調査………そしてラドゥ様に隙あらば、これを暗殺するためだ!」

 無表情さは変わらずとも、ビクリとラドゥの背筋が震えるのを、メフメト二世は実に哀しそうに確認した。

 ただメフメトの目が愉悦の色を隠しきれていなかった。

「可哀想なラドゥよ。実の兄にまで命を狙われるとは…………」

 そういう自分もスルタンの座を争った実の兄弟は一人残さず皆殺しにしていたが、それは言わぬが花というものだ。

「だが、案ずるな。汝の居場所は余が作ってやる。余のもとだけが汝の居場所なのを忘れるな」

「御意」

 ラドゥがどのようにヴラドを慕っていたにせよ、これでワラキアとの絆は切れたと見てよいだろう。

 無表情な瞳の奥で、ラドゥの絶望していく様を愉快そうにメフメトは見つめた。

 もはやラドゥの居場所はここ、オスマン宮廷以外にはありえない。

 ワラキアの間諜が言った言葉は真実だ。

 ヴラドがいかに想おうと、国と部下がラドゥの存在を認めることは、もうないのである。

「イェニチェリから忠誠心の厚い者を選抜して督戦隊を新設する。汝はその指揮を執れ」

 子飼いの小姓から武勇に優れたものを送り込んで取り込みに努めているが、まだまだ予断を許すような状況ではない。

 心を鎧ったものによる督戦があれば、安心して自分も指揮と執れるというものであった。

 もっとも督戦隊の指揮官が長生きできるはずもなかったが、そんなことはメフメト二世の知ったことではない。

「………余の役に立て、期待しているぞラドゥ」

「非才なる身の全力をあげて」 

 メフメトに言われずとも、とうにワラキアへ帰る夢など捨てている。

 ここに残ることを選択した日の決意も。そこに漠然とした終わりを感じていた予感も、いまだこの胸にある。

 今のラドゥの望みはただ、自分を愛してくれる人のために働くこと。そして――いつかベルドが自分を殺しに来てくれることのみだった。

 どうか、これ以上自分が壊れてしまう前に。



 シエナはじっと瞑目して部下の報告に聞き入っていた。

 このところのオスマンとの諜報戦は熾烈を極めていて、各所で小さな衝突が繰り広げられている。

 特にオスマン帝国では、ラドゥの調査に赴いた間諜が消息を絶ったのをはじめとして、送り込んでいた間諜が次々と摘発されていた。

 もちろんワラキアも黙って見過ごしていたわけではない。

 防諜にも少なからぬ労力を割き、特に技術系の流出には相当な効果を発揮している。

 むしろ失う間諜の数を比較すれば、オスマンの方が多いかもしれなかった。

 しかしオスマンには服属した多くの東欧人がおり、多少の犠牲にこだわる必要がないのもまた事実であった。

「デメトリオスに調略が及んでいるのはわかった。引き続きソマスにデメトリオスの情報が渡るよう工作しろ」

 シエナの司るワラキア情報省はオスマン帝国のそれとは違い、正式な行政機関として機能している。

 もちろん後ろ暗い工作が表面に出ることはないが、特筆すべきはその組織力であった。

 ロマやユダヤ人との間に協定を結ぶことにより、他国に追随を許さないその情報収集力はワラキアの国策決定にすら重大な影響を及ぼす。

 それを一身に任されたシエナの才腕と信頼は並大抵のものではない。

 彼が率いる間諜の中には、スルタンが軍を発した時にかぎり起動するスリーパーすら存在するのである。

 暗殺や破壊工作を抜きにすれば、ワラキア情報省の力はスルタンの私兵機関にすぎないオスマンの諜報組織を大きく上回っているのだ。

 シエナが現在重要視しているのはラドゥとメムノンに関する情報だった。

 ラドゥはヴラドにとってのアキレス腱になりかねない存在であったが、どうやらもはや抜き差しならぬ泥沼にはまってしまったようであった。

 スルタンの処刑人にして督戦隊の指揮官とあっては、外国人であるラドゥは敵味方の両方から恨みをかうだけだ。

 遠からず恨みを抱く何者かによってその身を滅ぼされることとなるであろう。あるいはシエナ自身の差し向けた刺客の手によって。

 残るひとりのメムノンに関しての情報はいささか深刻であった。

 メムノンが押しすすめる政治改革は、ドラスティックな人材登用を柱にすでに現実に効果をあげつつある。

 イスラム教徒にかぎってのことではあるが、人種にとらわれぬ能力主義の採用によって、官僚組織ばかりか軍事指揮官の質的向上まで果たしつつあった。

 メフメト二世の後押しなくばとっくに貴族たちの反発によって墓穴に埋まっていてもおかしくないのだが、カリル・パシャ・イザク・パシャ両雄の死が貴族たちに無形の楔を打ち込んでいるようだった。

 学者らしい彼の割り切りによって改革されつつある軍の在り方はそれ以上に危険である。

 銃の装備率の向上と機動には向かないとはいえ、大砲の量産は明らかにワラキアの戦訓を取り入れた気配がうかがえるのだ。

 いまだオスマンはフリントロック式の銃は製造にいたってはいないが、それを模倣する意志があるのは明白だった。

 今後ワラキアの機密情報はさらに徹底して漏洩を防ぐ必要があろう。

 これからは時間との競争だ。

 ワラキア公国は国内のさらなる支配と、国民兵の質的向上にどうしても時間がほしい。

 オスマン帝国もまたワラキアの新戦術の消化と、新スルタンの国内掌握にはいましばしの時間が必要であった。

 自らが政治的命題を解決し、他国がいまだ解決にいたらぬそのときこそ勝機となる。

 そしてワラキアがオスマンに先んじるためには自分の力が絶対に必要だ。

「ブルガリアとトラキアでの宣伝員を増員しろ。解放者の訪れは近いと」

 情報収集、暗殺、破壊工作、流言…………どれもオスマンとの間で攻防を繰り広げている間諜の任務だが、ワラキアだけが政略に込みこんでいる工作がこれだった。

 正教会の守護者にしてローマ帝国の精神を継ぐもの。

 あるものは詩に託し、またあるものはようやく流通をはじめた書籍によって、ヴラドの英雄譚を紡いでいく。

 ヴラドに対する噂は噂を呼び、東欧全体に緩やかな、しかし確実に大きな波紋を広げようとしていた。

 シエナにとって主の価値は欧州に並ぶものがないものだ。

 千年の歴史を誇るローマ帝国ですら、シエナにとってはヴラドを飾る彩りのひとつにすぎなかった。

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