第77話 悪魔公の影
数々の問題を抱えこそすれ、今やワラキアは東欧一の繁栄を誇っていた。
その影響からか、落日のトレビゾント帝国や旧ブルガリアからも亡命者が相次いでいる。
イタリアの各都市から、ワラキアの新産業に興味をひかれてやってくる職人の数も少なくない。
当然そうした職人や亡命者のなかでも有能な人間には、国から補助金を出す制度もワラキアはと問えていたのだ。
それもこれも第一期の大学卒業者を中心として再編された、新官僚団の辣腕によるところが大きい。
税収の効率的な配分と消化、流通管理体制の組織化などは個人の手に負うには大きすぎる。
ようやくにしてデュラムを頂点に、省庁割りと権限委譲ができるまでに人材が拡充されたのだ。ここに至る道のりは長かった。
また、リスクは承知で二つの新制度も導入している。
一つ目は国家憲兵の導入である。
移民の増加により、労働供給が円滑化したことは喜ばしいが、それで治安が悪化しては本末転倒というものであろう。
そのためルーマニア法典の守護者としての警察権力拡充が要請されたのである。
国家憲兵の指揮官にはシエナの片腕であったベルカが就任した。
構成員は大学で法律を学んだ者や、没落貴族の子弟を中心に八百名である。
彼らには法を遵守させるためなら貴族であっても拘束する権限が与えられていた。
濃紺の制服と専用の拳銃を貸与された彼らは、いざというときには戦闘行動も行えるよう訓練が義務付けられていた。
平民でも強権が揮える権限と、斬新な制服のデザインが相まってたちまち人気の職種として注目を集めている。
見る人が見れば著作権違反だと抗議したかもしれないデザインなのはないしょだ。
二つ目はカントン制度の導入である。
ドイツのフリードリヒ大王に倣ったこの制度は、言うなれば地方割り徴兵制度とでもいうべきものであった。
各行政区画ごとに一定の基準に基づいて兵士を拠出させ、連帯責任を負わせるというものである。
初期の徴兵制度は徴兵した兵士が逃亡することが後を絶たず、また自治体に兵士の拠出を要請すれば自治体の厄介者を押し付けられるという悪循環に陥っていた。
そこで地域に逃亡者が出たときの穴埋めと逃亡者を処罰する責任を負わせたのである。
これにより、一定の兵員数と質を確保することができたのだ。
また、生まれを同じくする者同士で部隊編成を行うことにより、地方間の競争や同志的結合による士気の向上も期待できた。
徴兵された兵士は三年間の兵役が終わると除隊か継続かを選択することができ、活躍によっては恩給が支給されることになっている。
もちろん給料も支給されるが、高額な傭兵に支払う金額より遥かに安いことは確かであった。
しかしこの二つの政策には決定的なリスクが存在した。
すなわち、武力を有する貴族の権益と真っ向から衝突する点であった。
フリードリヒ大王もそうであったが、徴兵によって貴重な成年男子を国家にとられるということは貴族の治める領地経営にとって看過しえない問題を含んでいるのである。
まして貴族領内での警察権の行使ともなるともはや貴族の自治の否定にすらなりかねなかった。
熾烈な反発が起こったが俺は強行することをすでに決めていた。
そのために貴族たちから、密かに馬を買い上げておいたのである。
すなわち軍役の負担を軽減しているかわりに、彼らに馬を安く提供させたのであった。
実際のところ馬の需要は高まるばかりであり、繁殖の奨励に乗り出してもいる。
経済の発展に伴って輸送用の馬車需要は高まる一方なのだ。
常備軍の輸送と通信用にも馬は欠かせぬ存在であり、またピストル騎兵の拡充も進められている。
税としての馬の提供はこれらの問題を一気に解決した。
対する貴族たちは、あまりに開いた常備軍との格差を埋めるためには貴族間の連携が不可欠だが馬の不足により戦略的機動力を著しく欠く有様であった。
軽騎兵を主力としていた貴族軍にとってこれは致命的であるといえる。
俺の政策に内心怒り心頭であっても、反乱には及ばぬことが彼らの窮状を証明していた。
警察力が貴族領にまで及ぶようになると、数々の無法が次第に明らかになり始めた。
住民を獣に見立てて猟を楽しむ者もいれば、拷問で責め殺すことを趣味にするものもいたのである。
これらの貴族はルーマニア法典に基づいて領地没収や串刺しの刑に処されていった。
その副産物的に、オスマンや神聖ローマ帝国と内通していたものまで見つかったのは僥倖と言えるだろう。
悪逆な領主が処分されたことにより庶民の受けも上々であり、世界初のワラキア警察は国民の間に早くも定着しようとしていたのである。
日中であるにも関わらず、陽光の薄い暗めの執務室は、まるでシエナの人そのものを表しているかのようである。
「メトスラフのもとにオスマンから接触がきている。これで次の獲物は決まりだな」
諜報員からの報告をもとにさらなる工作を口にして、シエナは口元を歪めた。
これでこの男は嗤ったつもりらしいが、他人がその表情から笑みを想像するのはいささか困難であろう。
「証拠品さえ見つかるようにしてもらえれば、あとはこちらでいかようにもしておきましょう」
シエナの謀略に協力を約しているのはワラキア警察の長となったベルカだった。
実はこのところの貴族の逮捕劇は、半ばシエナとベルカが共同ででっちあげた謀略に近い。
反体制派の中心的な大貴族に狙いをしぼって悪事を暴き、なければ捏造して彼らの失脚を演出していたのである。
「あとはバンジェールを排除すればまずトランシルヴァニアも安泰だろう。残りの貴族で大領を持っているものは限られるし、なにより彼らは距離が離れすぎている。気概のあるものも残り少ない。あとは時間がたてば、彼らの子弟が勝手に官僚化してくれるだろうからな」
「それにしても思い切ったことをなさいましたな………ここまでうまく運んだのが夢のようです」
ベルカは初めて計画をシエナに打ち明けられたときのことを昨日のように思い出す。
謀略によって貴族の力を失墜させる。
それ自体はさほど目新しい策略ともいえない。
しかし、それが君主たるヴラドの許可を得ず、情報長官たるシエナの独断でなされているところが恐ろしかった。
確かにシエナはヴラドにとって、ベルドと並んで側近中の側近である。
そのシエナの権力をもってしても、これほどの独断専行は、暴露された場合死をもって償うべきほどのものだ。
なぜ、せっかく位人臣を極めたシエナがこんな危険な真似をする必要があるというのか。
ベルカの当然ともいえる疑問にシエナは答えたものだった。
「殿下は優しすぎる」
シエナに言わせれば、世間でいう残虐無比な悪魔ことワラキア公は、むしろおひとよしもいいところであった。
敵に対しては容赦なく振舞うことはできても、敵対しないものにまで残酷になることができない。
中立派の貴族がいまだ粛清を免れているのが良い例だった。
だが、同時に自らの主君はそのままでよい、とも思っている。
敵味方双方に容赦の無い君主は味方を萎縮させてしまう。
また厳しいばかりで優しさの見えない為政者に国民は懐こうとはしない。たとえそれが優秀な政治家であってもである。
敵に対しては一切の容赦なく、味方に対しては大慈悲心をもつヴラドは一種理想の君主であるのだった。
ならば、冷酷な影を担うのは自分の役目であろう。
「殿下に救われた我が人生、すべては殿下の御ために」
もとよりヴラドによって救われなければ、はかなくオスマンに処刑されていた命だ。
そしてなにより、こうして才を揮うことにシエナは純粋な喜びを覚える。
報酬も名誉もシエナにとってなんら魅力を感じるものではなかった。
ただひたすらヴラドのために己の才を存分に揮うことだけが、シエナの無上の喜びなのであった。
ゆえにこそ、ヴラドにとって障害となる者は、味方であっても排除しなくてはならない。
「――できれば芽にすぎぬうちに摘み取っておきたいものだな」
たとえヴラドの思いがどうであろうと、ラドゥは生存を許されるべきではない。
ヴラドの命令には背かない裏で、シエナは複数の暗殺者をラドゥのもとへ送りこんでいるのだった。
ヴラドが必死に心を砕くたった一人の弟とだからこそ、兄に害なすならば闇から闇に葬るのが自分の役目であるとシエナは確信していた。
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