第71話 モルダヴィア動乱
それにしても欧州の識字率の低さは異常である。
仮に農民であれば99%は文字が読めない。
日本の農民は寺子屋で文字を習うばかりか、嗜みで俳句を詠むことすらしたのにえらい差であった。
これも統治技術のひとつとして、教会がぐるになって愚民化政策を推進したせいである。
中世から欧州がアジアの新興国に押され始めるのは、この愚民政策と無縁ではない。だからこそ宗教改革以降、欧州の技術革新が始まるのだ。
俺も大主教の権限で、出来うるかぎり庶民に文字を教えるよう指示を出しては見たものの、いまだ成果のほどは不明である。
あるいは義務教育制度でも制定しないかぎり識字率の向上は難しいのかもしれなかった。
すると今度は学校の教師となれる人材がいない。
数少ない学識者たちでは、主要都市で富裕層向けに開設した大学の需要を満たすだけで精一杯なのだ。
「殿下」
どこから手をつけてよいかもわからぬ激務の最中、ベルドがなんとも微妙な顔をして現れた。
ベルドがこうしたいかにも言いずらそうな仕草をした後には、たいがい難題がふりかかるものなのだ。
「………聞く気が進まないが……どうした? ベルド」
「スカンデルベグのもとに派遣したソロンが戻ってまいりました。殿下への目どおりを願っております」
「ふう、なんだ、驚かせるな。今行く」
「…………こう申し上げるのは大変恐縮なのですが……スカンデルベグの娘が同行して参っております」
ギラリ
俺の隣で政務を手伝っていたヘレナが抜き身の刀のような視線を向けてくる。
嫌な予感ほどよくあたるとはこのことか!
「………このところ随分ともてておるようだな、我が夫………」
「もててなんていませんよ………私はヘレナ一筋ですヨ………」
「ほう、あのポーランド娘に聞かれても同じことが言えるかな?」
「そんな無茶を言わないで!」
フレデリカってすごく庇護欲をそそるタイプなので、いじめると罪悪感がものすごいことになるから!
「ふふふ……妾自らスカンデルベグの娘とやらを品定めしてやろうではないか」
ブダ宮廷の仮初の玉座から、静かに俺は声をかけた。
「余はワラキア公ヴラドである。ジョルジ・カストリオティ殿の使者殿、役目大儀であった」」
ヘレナが背中にへばりついているのはご愛敬である。
そんなワラキア公の様子に、アンジェリーナは内心失望を隠せなかった。
父ジョルジのような威風を纏っている様子もなく、確かに長身で恵まれた体躯をしているが、武で鍛え上げたものではないことは自分の目には一目瞭然だった。
(あの父が賞賛し、戦悪魔の異名を持つからどれほどの武人かと期待してきてみたが)
偉大な父を持つ者の宿命として、アンジェリーナもご他聞にもれず重度のファザコンであった。
父以上の武人をいまだアンジェリーナは見たことがない。
あるいはワラキア公ならと期待していたのだが、ワラキア公の本質は武人のそれとは異なる様子であった。
それではアンジェリーナとしては食指は動かない。
どこから噂を聞きつけたものか、いつのまにかフリデリカもまた謁見の間に姿を見せている。
いまや完全にヴラドに依存してしまったフリデリカにとって、ヘレナ以外の強敵の出現は死活問題なのだった。
「主君ジョルジ・カストリオティより感謝の言葉を預かってきております。ワラキア公のご好意に感謝を。そしていつの日か轡を並べて戦いたい、と」
「スカンデルベグとともに戦うことは余も名誉とするところだ。必ずやいつの日にかと伝えて欲しい」
「お言葉かたじけなく」
これでこの国にきた目的のひとつは終わった。
あとはフス派との戦いの様子や軍団の状況を土産話に聞かせてもらってもらって帰るとしよう。
アンジェリーナは興味を失ったヴラドから、新たな目標へと思考を切り替え始めたとき、その使者は訪れた。
「殿下! モルダヴィアでボグダン二世殿下が暗殺されました! シュテファン公子も行方がしれず不平貴族たちはポーランドに援軍を求めています。どうかお急ぎを!」
その瞬間、ゾワリと空気が一変したのをアンジェリーナは感じ取っていた。
(いったい何が起きた?)
ヴラドの表情はあくまでも涼やかで動揺の欠片も見られない。
なのに身に纏われた威風は父ジョルジすら軽々と凌ぐほどのもので、アンジェリーナともあろうものが咳一つ発することができずにいる。
ワラキア公がまるで巨人のように巨大に見えた。
これほどの鬼気を見逃していたとは、私の目は節穴か!
青白く凍りついた空間で、誰も身動きができぬままに、ヴラドの声だけが白々と響き渡った。
「キリアの駐留軍を叛徒どもに差し向けろ。イワン、ポーランドのカジミェシュ四世に伝えろ。手出し無用、もし余計な手出しあらば全力を持ってこれを討つとな」
「御意」
ヴラドの静かな、静かではあるが巨大な怨念が空間に充満していた。
わかっている。
わかっているのだ。
この理不尽な反逆が、ヴラドのなかの死神を目覚めさせてしまったのだということを。
「常備軍二千を連れて今すぐドナウを下るぞ。ネイ、マルティン、余に続け!」
「御意」
ネイは先頃からヴラド直属の近衛兵団の指揮官に就任している。
魔弾の射手マルティンはネイの副官であった。
その数五百、選抜を重ねた精鋭中の精鋭が集められていた。
たちまち慌ただしく出兵の準備が始まる中で思わずアンジェリーナは叫んでいた。
「私も! どうか私もお連れください! 必ずやお役に立ちます!」
私は見誤っていた。
ワラキア公の器量はおそらくあの父上すら遥かに凌ぐ。
それを見極めずしてはアンジェリーナの意地が許さなかった。
そんなアンジェリーナの嘆願にも、ヴラドはわずかに眉を顰めただけだった。
「………好きにされるがよい」
「では妾が預かろう。さすがにアルバニアの姫君を前線に出すわけには参らんからな」
「頼む」
そういい捨てるとヴラドは謁見の間を去った。
「まさか貴女も同行するというのか?」
ヘレナの言葉を遅れて理解したアンジェリーナは思わず叫んだ。
見たところようやく十歳を過ぎたばかりのような幼女である。
そんな幼女を戦場に連れて行くなど聞いたことがない。
「妾はいついかなるときも我が夫と共にある。それが妾の誓いゆえな」
ほとんどなんの気負いの感じさせず、淡々と幼女は言った。
自己紹介はされなかったが、おそらくはこの娘が東ローマ帝国の皇女ヘレナなのだろう。
ただのわがままで言っているのではない。
行動に見合っただけの覚悟をしていることがアンジェリーナの目にも見て取れる。
「さすがだな、貴女もヴラド殿下も、この危急の時にかくも落ち着いておられるとは……」
ヴラドの鬼気を感じたときからずっと身体の震えが止まらない。
取り乱し立場もわきまえず同行を申し出たが、冷静に考えれば本来そんなことが許されるはずがなかった。
それを容れてもらえたのはひとえにヴラドの度量の大きさゆえであろう。
「我が夫が落ち着いているだと?」
幼女らしからぬ大人びた表情でヘレナが嗤った。
「そなたもこの先我が夫と関わる覚悟があるのなら覚えておくがよい。我が夫が怒りの色を露わにしているのならまだ救いはある」
まだその時点ならヴラドは政治を優先することができる理性がある。
ブラドは決して無用な残虐性を楽しむ男ではないのだ。
「だが我が夫が静かに青白く空気を凍りつかせた時は、もはや死以外の決着はないと思え」
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