第52話 ヘレナの戦い4
翌朝からザワディロフ軍は正攻法に復帰した。
正攻法とはいってもその実質は損害を省みぬ力押しである。
戦力比はすでに絶対なものであり、絶え間ない消耗を強いていけばトゥルゴヴィシュテの戦闘員が消滅するまでそれほどの時を要しないであろうことは明白だったからだ。
「弩の射手は城壁の兵士を集中して狙え! 弩のないものは盾をもって破城槌を守るのだ!」
身を隠す擁壁もなく全身をさらした弩兵が、敵と正面から打ち合えば損害は避けられない。
しかし極端なことを言えば五人倒される間に一人倒すことが出来れば少なくともこの戦いに関してはこと足りる。
まともな戦術指揮官なら恥ずかしさのあまり裸足で逃げ出しそうなザワディロフの命令は、守城側にとってはこのうえなく最悪の判断だった。
ところが確実に被害を与えているであろうにもかかわらず、トゥルゴヴィシュテの反撃はなお熾烈であり降り注ぐ矢はなお衰える気配を見せない。
「何故だ? 何故一向に城壁の兵が減らぬのだ? 奴らにも損害がないはずはないのに!」
城壁の兵士が減らぬ理由は偽装である。
あえて目立つよう露出した兵士は実は人形に鎧を着せた囮であった。
矢を浴びた囮はいったん回収したあと、矢を抜いて再び城壁に立てる。
従軍経験者の加入と相まって、迎撃の兵力がなかなか衰えぬ理由はそこにあったのだ。
それだけでなく、後方で治療と介護にあたる女性たちの存在も心理的な影響は大きい。
また弩は弓を引くのに力がいるが、狙いをつけ発射するのに力はいらない。
弩の弓を引くことを専門にした大工の若者たちの加入で、兵員に数倍する速度で射撃ができるようになったことも大きかった。
なかなか思うようにいかない戦況にザワディロフは混乱した。
―――――こんなことはありえない。
ザワディロフの肥大化した自尊心は、目の前の事実を到底容認できなかった。
ヴラドの敗北と破滅を説き、加勢を頼んだ同胞たる貴族たちからの反応が乏しいことも、ザワディロフの計算にはないことだった。
十字軍の兵力およそ三万、神か魔でもないかぎりわずか五千程度の兵力で抗戦できるはずがない。
―――――なのに何故そんな簡単なことがわからぬのだ?
我ら貴族の誇りを取り戻すための義戦に、何故誰も手を貸そうとしないのだ?
元来軍事力こそが貴族の権力の源泉である。
ヴラドが推し進める常備軍の整備は、君主が軍事力の一切を貴族に頼らぬという意思表明に他ならないのではないか。
重すぎる軍役から解放されることをいっときは歓迎したが、時を追うごとにその不安がザワディロフを苛んでいた。
その不安は決して的外れというわけではない。
ヴラドは漸次貴族の軍権を取り上げ、その教育水準を利用した官僚集団としての役割のみを貴族に対して期待しつつあった。
逆に言えば、能の無い、ザワディロフのような前封建領主的な貴族はワラキアにとって不要になろうとしていたのだ。
もしも貴族が不要な存在となり平民と同じ扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだとザワディロフは本気で考えていた。
何故だ? 何故わしの思うように行かんのだ?
懊悩するザワディロフの前で、また一人の兵士が弩の射手に射抜かれてもの言わぬ肉の塊と成り果てる。
所詮は平民の兵に同情などするザワディロフではないが、己の兵が殺されたとなればやはり怒りがこみあげてくるのを抑えることが出来なかった。
トゥルゴビシュテに攻め寄せてよりはや三日。
ヴラドが戻るようなことは万が一にもありえないだろうが、このままでは損害が想定した許容量を超えてしまう危険性が出てきた。
ザワディロフに同心した貴族が、死ぬまで行動をともにしてくれるなどとは流石のザワディロフも考えてはいない。
現在のまま損害が推移すれば明日にも連れてきた兵士の三割近くが行動不能となるだろう。
ザワディロフの経験からいっても、損耗三割という数字は兵士たちの士気の分岐点であるはずであった。
「見事じゃ! 褒美を取らせるゆえ見知りおくぞ! デュレル!」
「頼もしいの! マルチナ! 女だとてもはや侮らせはせぬぞ!」
またあの癇に障る甲高い声が聞こえてくる。
ヘレナは律儀にも前線に出ては兵士の手柄を激賞し、後の褒美を約束して回っていた。
兵の士気を維持する手段として、指揮官の大度と褒賞ほど効果的なものはない。
まして美しく健気な子供が勇気を振り絞って督戦しているのである。
これで奮いたたないほうがどうかしていた。
ヘレナが意識してそれを行っているのなら、全く末恐ろしい子供だと言える。
もっとも無意識であったほうがある意味恐ろしいものであるかもしれないが。
ああ、そうか!
ザワディラフは内心でひそかに手を打った。
ワラキアの命運がただひとりヴラドの肩にかかっているように、トゥルゴヴィシュテの命運はただひとりの少女の双肩にかかっているのだ。
あの生意気な小娘さえ害することが出来ればトゥルゴビシュテは陥ち、ワラキアを支配する貴族の中心に自らが立つことが出来るのだとザワディロフは信じた。
もともとはヴラドに対する反感から叛旗を翻したザワディロフではあったがも、はや彼が倒すべき怨敵はヘレナ1人へと移りつつあった。
小憎らしい魔女め! あの異端の片割れさえこの世からいなくなれば全てはうまくいくはずなのだ!
三日目の夜が明けようとしていた。
甚大な損害と引き換えにザワディロフ軍は頑強な城門を半ばまで崩し去っていたが、崩れた城門の隙間からは新たに構築されたと思われるバリケードが垣間見え、城門の突破が容易に勝利に結びつかぬことを教えていた。
―――――全くこしゃくな連中だがいつまでその余裕が続くかな?
ザワディロフは薄笑いとともに、部下に向かって策の実行を指示した。
城壁を飛び越えるようにして大量の矢が撃ち込まれる。
慌てて守備兵の支援にあたっていた民間人たちが、軒下に隠れて降り注ぐ矢から逃れたが、彼らはいくつかの矢の先端に羊皮紙が結ばれているのに気づいた。
それ以外の矢にはおそらく貴重な羊皮紙が手に入らなかったのか、手書きの文字が書かれていた。
簡潔な文章で表現されたそれは、ザワディロフの即物的な人格を実によく表していると言えた。
―――――魔女を殺せ! 恩賞は思いのまま!
魔女がヘレナを表していることは誰の目にも明らかだった。
仮にも大公の婚約者であり、ローマ帝室の血筋を引くヘレナを殺せとためらいなく言えてしまうあたりが、ザワディロフの政治的視野の狭さを表しているのかもしれなかった。
「魔女を殺せ!」
「魔女を殺せ!」
「殺したものには一万ダカットの恩賞を与えるぞ!」
「殺したものには一万ダカットの恩賞を与えるぞ!」
トゥルゴビシュテを取り囲む貴族軍の兵士が口ぐちに合唱を始める。
何をとち狂ったのか知らないが、数倍の大軍を率いた名将ヤーノシュにヴラドが勝つ可能性など万に一つもないとザワディロフは考えていた。
その事実を国内の貴族もこのトゥルゴヴィシテに篭る平民もわかっていないだけなのだ。
ゆえにこそ彼らを導くのは我々貴族の手でなされなければならない。
独立不羈の貴族らしい傲慢さでザワディロフはそう信じた。
しかしザワディロフの思いとは裏腹にトゥラゴヴィシテ市民は、逆に貴族に対する敵愾心を募らせた。
彼らはザワディロフの生理的嫌悪感をもよおしそうな独善を見透かしていた。
自らの欲望のためには手段を選ばぬ厚顔無恥だ。
所詮自分の都合でしかものを見ることのできない輩の約束を信じるほうがどうかしていた。
彼らに従えば一時は報償されても奴隷的な隷属を強制され、それに従わなかっただけでたちまち資産も権利も奪われるだろう。
ヴラドによって自由と成長を獲得した市民層はそ、の現実を十分によく承知していた。
「ヴラド大公殿下万歳!」
「ヘレナ妃殿下万歳!」
「ワラキア万歳!」
「大公夫妻万歳!」
誰かがポツリと張り上げた声は、たちまちのうちに都市全体へと波及した。
たとえ戦力にはならなくとも、トゥルゴヴィシテの都市民は遥かに貴族軍の数を上回っている。
市民たちの大音声はたちまちのうちにザワディロフ兵士の音声をかきけした。
トゥルゴヴィシテを揺るがさんばかりのヴラドたちを讃える歓声は、幼い子供達までをも巻き込んで都全体に広がっていこうとしていた。
完全に予想外な市民たちの明確な意思表示にザワディロフは戸惑いを隠せない。
くそっ! 平民どもめが! 身の程知らずにもつけあがりおって……これもヴラドの政治が悪いからだ!。
これまでただ虐げられることを、当然のように受け入れてきた従順な羊が不遜にも主人に牙を剥こうとしている。
許されざる政治的堕落であるとザワディロフは感じていた。
羊に自己の意志を持たせてはならないのは貴族の平民支配の初歩であったはずではないか。。
主君の命令を唯唯諾諾と聞く民だけの従順な平民を平然と貴族に牙を剥く狼にしたてあげてしまったヴラドにザワディロフは大いなる義憤を覚えていた。
やはりいかなる手を用いてもここで魔女を、ヴラドの拠点を滅ぼしておかねばならぬ。
これまで自分が立脚してきた世界を守るべき使命を神から与えられたような錯覚を覚えてザワディロフは高揚すら感じていた。
しかしザワディロフの意気はともかくとして手段としては総力戦に頼らざるを得なかった。
市民の蜂起を期待出来ない以上、ただひたすら攻め続け先に気力と体力が尽きたほうが負ける先の見えない戦い以外に事態を打開する術を見出せないからだ。
双方の全軍を上げての戦いは天井知らずの被害を双方にもたらしつつ、日が暮れてもなお衰える気配を見せなかった。
ザワディロフが本当にヴラドが敗北すると確信しているならば時間の経過はザワディロフにとって味方であるはずであったが、まるで無意識の焦燥に急かされるようにザワディロフが頑として攻撃を続けさせた。
それは彼自身が全く予想しなかった形でヘレナたちに最悪の一撃を見舞おうとしていた。
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