第45話 皇帝の苦悩
「やはり動いたか」
「御意」
シエナからヤーノシュ来るの報を受けた俺は思わず瞑目した。
想定どおりとはいえ、乾坤一擲の戦いが目前に迫ったことに対する感慨がこみ上げてきたのだ。
負けるつもりはないが、かといって確実に勝つと言えるほどの勝算がないのも確かであった。
「殿下、出陣の準備整いましてございます」
「うむ」
ベルドに促されてヴラドは立ち上がった。
ワラキアが動員した兵力は五千余、十字軍の総数三万には遠く及ばない。
しかし訓練に鍛えられ、無条件に信頼できる精鋭常備軍を主軸とするその雄姿は、史実のヴラドがついに手に入れることのできなかった珠玉の宝である。
彼らを腹心にもてたことこそが我が誇り。
これで勝てないならば、所詮オスマンを相手に勝利を収めるなど痴人の夢でしかあるまい。
「妾の運命は我が君とともにある。ならば妾のために勝て! それが男の甲斐性と言うものぞ!」
いつの間にか隣に並んでいたヘレナが莞爾として笑う。
悲壮感の欠片もないが、固い決意がみなぎったヘレナの強い眼差しに思わず口元がほころぶのが自分でもわかった。
この誇り高い少女は己に誓った言葉の通り、本気で俺と命運を共にする気なのだろう。
ローマ帝国の姫君としていくらでも良縁を望めるにもかかわらず………。
「よかろう。俺がヘレナの伴侶たるの力を見せてやる」
ヤーノシュは正しく当代の名将である。
しかし神の代理人として聖戦を指揮することを強いられてしまったために、必ず勝利することを義務づけられてしまってもいた。
俺にとってはこの戦いが引き分けであっても一向に問題はないが、ヤーノシュには教皇に対して勝利の報告をしなくてはならぬ責任があり、また己の権力基盤であるトランシルヴァニアを取り戻せなければ、決して勝利の美酒に酔うことはできまい。
その心理的なストレスこそが、ヤーノシュに俺が勝利するためのもっとも大きなアドバンテージなのである。
(――――――だが)
自分の中で重みを増しつつあるヘレナという女性に対する責任と、ヤーノシュへの勝利の功績をもってラドゥの返還を求めたい、という打算が俺の中で増殖するウィルスのように比重を増していることも確かであった。
ヤーノシュだけにあるかと思われた心理的負担は、俺にとっても決して無縁のものではなかったのだ。
「全く―――――ままならぬものだな」
どうかこの情けない兄の勝利を祈ってくれ、ラドゥ。
長く顔を合わせていないただ一人の血をわけた家族の顔が、俺の脳裏にふと浮かんで消えた。
ハンガリー王国首都ブダに集結した十字軍の総数は、およそ3万を超えようとしていた。
これはこれまで編成された十字軍の中でも特筆すべき規模である。
ヤーノシュに名をなさしめたハンガリー十字軍の規模が、ようやく一万を超えた程度に過ぎなかったことをヤーノシュは十分に承知していた。
教会合同という好機と、相互の利益がかみ合ったために予想を上回る兵力を集めることができたのだ。
異教徒を討伐するため進軍する兵士たちへ、沿道の民衆たちが喝さいを送っていた。
煌びやかな甲冑を身に纏った修道騎士がマントをはためかせる雄姿に、子供たちが甲高いはしゃぎ声をあげる。
これほどの煌びやかな大軍を率いながらヤーノシュの心は晴れなかった。
ヴラドを討つにこれ以上の機会はありえない。
それはすなわち、ここで負ければヤーノシュの身の破滅であることを意味していた。
今は好意を示している教皇も、3万もの大軍が敗北するようなことになればあっさりヤーノシュを見捨てるだろう。
もとはと言えば、この聖戦は対立教皇であるフェリクス5世のよびかけによるものである。
負ければローマ教会はそう言いわけするであろうし、そのためにはヤーノシュがフェリクスの呼びかけに対し、教会のあずかりしらぬところで勝手に応じたと言わなければならなかった。
いや――――負けるはずがない。あんな若造にこの私が。
そう確信はしているが、これまでヴラドが幾度もヤーノシュの予想を覆してきたこともまた事実であった。
「なんと素晴らしい軍勢でしょう! これならばワラキア公ごとき鎧袖一触でしょう!」
初めてみる大軍に目を輝かせて興奮しているラースローに、ヤーノシュは恐れを知らなかった若き傭兵だったころの自分を見た。
あのころは自分の武で全てを覆せると信じていた。
神が与えてくれた自分の才をこの世界で必要とされる日が、必ずやってくると無邪気に信じていた―――――。
そうとも。わが名はフニャディ・ヤーノシュ。
神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント陛下に見出され、今もっともハンガリー王位に近い男だ。神が我に与えた運命がこんなところで終わろうはずがない!
傭兵であったころの勝利に対する飢えと渇きを思い出して、ヤーノシュは薄く嗤った。
昔を思い出して戦ってみるのも悪くはない。
若き日の野心を省みるに、まだまだ老いるにはヤーノシュは早すぎるはずであった。
「確かに我らは強い! だが悪魔もまた強いからこそ悪魔と呼ばれるのだ。決して慢心するな! ただ勝利することだけに全力を注げ!」
「はいっ! 父上!」
――――ローマ建築に特徴的な優美なドームを持つ荘厳な聖堂が、地中海の夕日に照らされて黄昏にわずかな煌めきを返している。
後にイスラム建築家に影響を与え、その技術は有名な世界遺産タージ・マハルへと受け継がれたというその聖堂の名をアギア・ソフィア大聖堂と言う。
――――夕暮れとともに穏やかな静寂に包まれた聖堂にけたたましい蹄音を響かせて一頭の白馬が息せききって現れた。
「―――――どういうことだ?グレゴリウス殿?」
開口一番コンスタンティノス11世は、責める口調でグレゴリウスを問いただした。
温厚な性格である彼がこれほどに激昂することは珍しい。
その怒りがどれだけ深刻なものか十分に理解していても、グレゴリウスは彼の信頼を裏切らなければならない理由があった。
「今ワラキアを失うわけには参りません」
ワラキアはまだ雛鳥なのだ。
成長すればこの閉塞した正教会を、異端から守る守護神となりうる雛鳥である。このまま無為にヤーノシュの餌にされるわけにはいかなかった。
「だからといって大司教に任命する必要があるか? ローマ教皇はいたく憤激しておる。このままでは東西の融和はおぼつかぬぞ!?」
皇帝の悲鳴ともつかぬ叫びに同情を覚えつつも、正教の長でもあるグレゴリウスは皇帝のいう東西融和が、現実的には吸収合併であることに思いいたさぬではいられないのであった。
もともとカトリックと正教にそれほどの教義の違いはなく、ともにローマという幹から枝分かれしただけに、両者には親和性がないとは言えなかった。
皇帝がカトリックも正教も等しく神の子である、というのも理想としては正しいだろう。
しかし第四回十字軍でカトリックに虐殺され略奪を欲しいままにされた国民感情は理想とは対極に近いところにあり、宰相ノタラスをはじめとする貴族たちもカトリックを兄弟として許容することに対する拒否反応は激しかった。
皇帝の推進する東西合同は、滅亡を目の前にした小国の瀬戸際外交であって長期的に見れば新たな騒乱の火種を播いただけに他ならないのである。
「貴方だけは余の味方だと信じていたのに!」
ともにフィレンツェを訪れ、東西合同の推進者として力を合わせていたはずの総主教の背信は、コンスタンティノス11世にとっても予想外であったのである。
―――――むしろ立場が逆であったほうがこの人にとっては幸いであったかもしれない。
グレゴリウスはコンスタンティノスのために嘆いた。
まぎれもなくコンスタンティノスは善人である。
聖人といってさえ差し支えないとグレゴリウスは思う。
さらに聡明であり、公正であり、理想のために自らを犠牲にすることも厭わぬ献身すらある。
だがしかし、君主として決定的に悪意が足りなかった。
神の代理人たる自分が考えるのもおこがましいことだが、君主には相手の善意を疑い、自国の利益のために他国を犠牲にすることも辞さない覚悟が必要である。
東西合同により同じ神の兄弟であるカトリックが、コンスタンティノポリスを全力で支援してくれるなどという希望は夢想にすぎない。
むしろ唯一の教会としての地位を守るために、コンスタンティノポリスを見捨てる可能性のほうが高いのではないかとグレゴリウスは疑っていた。
国が命脈を保つためにはカトリックの権威が必要だと思ったからこそグレゴリウスは東西合同に賛成していたが、長年の交渉の結果学んだのは、本当の意味でコンスタンティノポリスを心配してくれる国家など、この欧州に存在しないという事実であった。
むしろヴェネツィアやジェノバのようにマルマラ海の制海権をオスマンに奪われれば死活問題である、という明確な利害関係のある国のほうが信用できる。
そして新興の小国であるワラキアにとって、コンスタンティノポリスという権威は必要不可欠な大義名分であり、彼の国が我が国を必要とするかぎり味方として利用できるという相互依存関係こそが、もっとも有効な安全保障となるはずであった。
―――――もっともそれを考えたのはグレゴリウスではないのだが。
「なぜだ? ――――なぜ誰も余をわかってくれないのか?」
コンスタンティノス11世は絶望とともに呪った。
兄ヨハネス8生の急死以来、国を守るために精神をすり減らして重責に耐えてきた。
それほどにみなカトリックに頭を下げることが嫌なのか?
確かに歴史と伝統が変わらずにあることは尊い。変わるくらいなら滅びを選ぶ潔さも個人としては尊い話であろう。
しかし、国を保つためには時として恥を忍び泥を啜らねばならないこともある。
だからこそ自分は帝国の歴史と誇りを次代につなぐため、下げたくもない頭を下げ、かつて帝都を業火の海に叩き込んだヴェネツィアにさえ工作を依頼したのだ。
もはや東西合同は規定の路線であり、後はどれだけ支援を受けることができるかという段階に達していたというのに。
――――教皇自らが背教者の烙印を押した男を、こともあろうに大司教に任命したとあってはただで済ませてはカトリックの面子が治まるまい。
下手をすれば支援どころか、カトリックが再び敵に回る可能性すらあった。
だがあくまでもコンスタンティノスの予想は、教会の合同により一心同体となったカトリックが同じ同胞であるコンスタンティノポリスを見捨てるはずがないという前提に基づいた話であった。
コンスタンティノスにとって同胞とは、それだけ危険を犯す価値のある存在であったのである。
善意に身を浸しているコンスタンティノスだけがそう信じていた。
――ここで皇帝に止めを刺すのは哀れにすぎる。
グレゴリウスは愛すべき皇帝コンスタンティノスのために、真相を告げることを止めた。
ワラキア公ヴラドを大司教に任命することの利害得失と国際情勢の分析についてグレゴリウスに説明と依頼の手紙をよこしたのは、誰あろうヘレナ・パレオロギナという年端もいかぬ少女であった。
幼いころからの彼女を知っているグレゴリウスは、彼女がローマ千年の血が作り上げた天才であることを知っていた。
彼女が先代ヨハネス8世の膨張策を論破したのはわずか8歳のときであった。
そのときの驚愕と震えるような感嘆を、グレゴリウスは昨日のことのように覚えていた。
この悪しき世界の現実を戦わなくてはならない君主として、善人コンスタンティノス11世とヘレナの力量の差は隔絶している、と言わざるをえなかったのである。
「万が一ワラキア公が敗れるようなことがあれば、私は独断専行の罪を背負い十字架を抱く覚悟でございます。どうか陛下におかれては戦いの結果をお待ちくださいませ」
「―――――まさか勝てると思っているのか? この度の十字軍は規模も士気も先年のものとは比較にならんぞ」
神の兵士が無敵であればこの世に異端がはびこることもあるまい。
自分は信仰を守る総主教として相応しくないのかもしれない、とグレゴリウスは世俗の邪知に塗れた自分を嗤った。
フニャディ・ヤーノシュは確かに一代の英雄であり、十字軍の大軍はワラキアの兵力を遥かに上回るであろう。
しかしそれを遥かに凌ぐ兵力を有しているのがオスマン帝国であった。
兵数が戦場の優劣を決するのであれば、キリスト教世界はイスラムに屈するほかはない。
オスマンの支配を打ち破るためには、兵の多寡を上回る別の要因が必要不可欠であった。
今回のワラキアの戦はそれを占うための格好の試金石なのである。
「おそらくワラキア公は勝つでしょう。残念ながら神のご加護によってではなく、人の知恵と業を利用することによって」
そう神のご加護でなどあろうはずがない。
ヘレナの夫とはいえ、あれはまぎれもなく地上に降り立った悪魔(ドラクル)そのものなのだから。
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