第26話 シギショアラ陥落
――そのころ、串刺し公来るという噂はシギショアラのトランシルヴァニア宮廷を震撼させるには十分であった。
まさかのトランシルヴァニア軍の敗北、そして勇将セスタスの戦死。
残された兵力はどれだけかき集めても千にも届かない。
それどころか日一日と逃亡する兵が増えていく。
セスタスを擁する五千の軍が為す術なく敗れたのである。
そんな悪魔のような軍隊と戦いたい物好きがいるはずがなかった。
「ヤーノシュ様はまだ戻られぬか………?」
「上部ハンガリーに遠征されておられるのだ。どんなに急いでも一週間はかかろう」
「しかしそれでは………」
シギショアラは持たない、といいかけて男は口をつぐむ。
全身に憤怒と戦意をみなぎらせたラースローが睨みつけていたからだ。
「たとえこの身が切り裂かれようとも、ワラキアどもにこのシギショアラを渡すものか!」
確かに自分はブラショフをめぐる攻防戦には敗れた。
しかしトランシルヴァニアは、フニャディ家はまだ敗れたわけではない。
あの父がこのままヴラドの欲しいままにさせておくはずがないことを、父から幼いころより薫陶を受けて育ったラースローは確信していた。
こうした逆境にこそ父の英雄としての器は真に発揮されるのである。
そう、あのヴラド・ドラクル2世の讒言によって処刑されそうになったときもそうだった。
父は国王戦死の責任をとって処刑されるどころか、以前にも勝る権力者となって帰ってきたではないか。
「今は力を合わせて耐えるのだ。父さえ戻ればヴラド・ドラクリヤごときものの数ではない」
トランシルヴァニア公国にはワラキア領である飛び地が存在する。
アムラシュとファガラシュである。
長らくトランシルヴァニア領内で抑圧されてきた両市の市民は、歓呼の声をあげてヴラドたちを出迎えた。
トランシルヴァニアにとっては悪魔に等しいヴラドも、彼らにとっては長く待ち望んできた解放の英雄にほかならなかった。
「皆のもの、今までよくぞ耐えてくれた」
「もったいないお言葉でございます!」
「もはや奴らの好きにさせてはおかぬ。安心して暮らすがよい」
ハンガリーでの権威に重きをおいていたフニャディ家は、思いのほかトランシルヴァニアの住民に評価されてはいないようであった。
とりわけ人口の多数を占めているルーマニア人の間でその傾向が強い。
法律や利権でずっと少数派のサス人に虐げられていたのだから当然であろう。
ヤーノシュとしてもそれをよしとしていたわけではないのだろうが、ハンガリー、さらには神聖ローマ帝国に野心をのばすにあたって、やはりドイツ人の優遇は欠かせない政策であったのだろう。
しかし俺にとっては神聖ローマ帝国など特に重視すべき存在ではない以上、ドイツ系サス人を優遇する必要は何もなかった。
アムラシュとファガラシュにおいて十分な補給をとったワラキア軍は、さらにシビウやトゥルヌロッシュと言ったトランシルヴァニアを代表する大都市を傘下におさめてついにシギショアラに到達した。
「やはり素直には降伏しないか?」
「どうやらラースロー公子が抵抗の意志を固めているらしく、ヤーノシュ公の来援に望みをつないでいるかと」
「シエナ」
「はい」
無表情の美男が気配もなくうっそりと腰を折る。
相変わらず愛想の欠片もない男だが、実のところトランシルヴァニア侵攻の半分以上は、この男がルーマニア人内に親ワラキア派を作り上げた功績なのだ。
「シギショアラ市内はどうだ?」
「さすがに主だった面々は拘束されて身動きができないようです。市内はサス人やマジャル人の自衛団が巡回して彼らの暴発を監視しています」
「まあこれだけ同じ手を使えば対策もとられるか」
ブラショフのみならずシビウでもトゥルヌロッシュでも、人口の多数を占めるルーマニア人が進んで城門を開いたのだから、シギショアラでも同様のことが起こると推察するのはそれほど難しいことではないだろう。
しかしそれはあくまでも一時的に武力で威圧しているだけのことで、根本的な解決には程遠いものであった。
「―――――別に城門を開けたり兵を倒したりしなくてもいいから、適当に火をつけて回れと伝えておけ」
「御意」
「ハンガリー宮廷の様子はどうなっている?」
寸分の迷いもなく、大国ハンガリーでもっとも恐ろしく手強いのはヤーノシュだ。
俺としては出来うるならば戦場ではなく、宮廷闘争によって勝手に自滅してくれることが望ましかった。
「目下のところ、ヤーノシュ公に対抗意識を燃やしているバルドル公が盛んに巻きかえしを図っております。戦況次第ではあるいは………」
「いくらヤンでもあの親父を完全に負かすのは無理だ」
したがってヤーノシュが軍に対する影響力を失って、惨めに退却してくるという望みは薄い。
後はそのバルドル公とやらが、どれだけヤーノシュの足を引っ張ってくれるかということになるか。
いや、おそらく嫌がらせ程度にしかならんだろうな。
「ネイ」
「これに」
「騎兵500を率いて偵察にあたれ。援軍を発見したら適当につついて退いて来い。進軍を遅らせることが出来ればそれでいい」
「御意」
(さて、やはり俺達の手で陥とさなきゃならん………かよ)
ラースローの断固たる決意とヤーノシュが育て上げた精強な家臣団はヴラドにとっても決してやさしい相手ではなかった。
シエナの作りあげたルーマニア人の協力組織も、サス人やマジャル人の自警団が完全武装で市内を巡回していては迂闊に手をだしことも難しかった。
しかしヴラドから放火の指示が下ると状況は一変する。
鋤や木材で武装蜂起することは難しくても、適当な場所に放火することは少ない人数でいくらでも実行することが可能であるからだ。
「また火の手がっ!」
「くっ! どこまでも卑怯な奴らよ……!」
そうなると自警団の統率ももろいものであった。
なぜなら彼らこそが、このシギショアラでもっとも財産を所有する人間であるからである。
放火されて灰燼に帰すのは彼らの財産である以上、火災の鎮火は最優先とせざるをえなかった。
「早く消せ! 必ず消し止めろ! 俺の大切な財産だ! 誰にも渡さんぞ!」
自分の財産が危機にあるとわかっていて、他人の財産の警戒にあたろうとする商人はいない。
ラースローが構築した自治組織は、たちまち雲散霧消してシギショアラは再び混乱の巷に投げ込まれたのである。
「銃隊、前へ!」
時を同じくしてマルティン・ロペス率いる銃兵部隊が前進を開始した。
さらに銃兵に守られるようにして砲兵も前進する。もちろん逆撃に備えて両翼は槍兵が固めていた。
それを弾き返すだけの兵力が現在のシギショアラには存在しない。
15世紀も末になってシャルル8世が証明することだが、中世の城郭というものは砲兵の火力の前には全く無力だ。
砲撃が開始されるとトランシルヴァニア軍の弩兵が城門前に集結して必死の防御射撃を展開するが、マルティン指揮する火縄銃隊は地勢の劣勢にも関わらず、これを終始圧倒した。
彼我の命中率の差がそれを可能にしたのである。
「構え! 狙え! 撃て!」
ロペスの怒声とともに火ぶたが切られ、轟音が轟く。
ワラキア軍銃兵が終始敵を圧倒している理由は何より、この射撃術に求められるだろう。
この当時、銃兵の射撃、という行為は完全に個人のものであった。
火縄銃というものは一人一人が狙い打つ、言うなれば狙撃銃だからである。
引き金を落とすタイミングを自分で決めないと、どこに弾が飛んでいくかわからないのだから当然だ。
大河ドラマなどで長篠の戦いの織田の鉄砲隊が一斉射撃をするようなシーンがあるがあれは残念ながらこの時代には存在しない。
幕末の射撃術の近代化にいたるまで、結局火縄銃の射撃とは狙撃であり続けたのである。
それをまがりなりにも統一せしめているのはワラキア軍の火縄銃に取り付けられた木製のストック……後付の銃床のおかげだった。
今後は火打石式の撃発機構の採用や銃剣の装備など、銃の開発に与えられた課題は多いが、ワラキアの成し遂げた統一射撃という射撃法はそれを遥かに上回る。
それはある種革命的な発想の飛躍なのであった。
後年のアヘン戦争においてイギリスと清国が戦ったとき、時の江戸幕府はイギリスの武器性能が清国に勝ったのだろうと考え、品質調査に乗り出したことがある。
大かたの予想に反して答えは否、清国は当時ドイツ製の小銃を大量に輸入しており、むしろ抱え大筒のような篭城武器を持っていた分、清国のほうが武器の性能的に勝っていたことが判明した。
ではいったい何が勝敗を分けたのか。
その答えは銃兵の統一性であった。
密集体形をとった銃兵が指揮官の号令一下一斉射撃を行い、敵前列が算を乱したと見るや、これまた一斉に銃剣突撃を敢行する。
敵前面に対する火力の集中と衝力の融合こそ、近代銃陣の真髄にほかならなかった。
「退くな! このままおめおめとワラキアごときの軍門に下れるか!」
ラースローや数少ない側近が奮戦するが、大勢はもう動かしようもなかった。
ほとんど何の手も打てないままに城門は半ばが瓦礫と化し、城壁には銃撃にさらされた死体が積み上げられていった。
そればかりではない。
城門前に兵力が集中した結果、市内の各所で兵力の空白が生じ、遂に城壁の数箇所でルーマニア人がロープを下ろしてワラキア兵を招き入れ始めたのである。
数において圧倒的に劣るトランシルヴァニア軍に、これを掣肘する術は残されていなかった。
「まだだ! まだ負けない! 父が戻るまで負けるわけには―――――!」
「お退きください! 公子様! 貴方様に万が一のことがあってはヤーノシュ殿下に申し訳が立ちませぬ!」
火力において敗れ、そして統率においても数においても敗れた彼らにもはやシギショアラを守る力はなかった。
攻撃開始後わずか数時間にして、シギショアラ攻防の勝敗は決したのである。
ラースローは無念の涙を飲んで、数名の側近とともにハンガリー王国へと撤退しようとするも、弟とともに捕虜となった。
己の領地であるトランシルヴァニア陥落の報に接したヤーノシュの行動は、俺の予想を完全に上回るものだった。
あろうことかヤーノシュは自分の排斥に動いたハンガリー貴族の蠢動を口実に、上部ハンガリーから取って返した軍勢を首都ブダに向けたのである。
たちまちブダはヤーノシュの軍勢で溢れかえり、その圧倒的多数の軍勢を前に反対派は何一つ為すすべはなかった。
内通者の嫌疑によりバルドル公爵やバラシュ伯爵などの敵対する門閥貴族の多くが処断され、そして彼らの領地の多くがヤーノシュとその一党に与えられた。
事実上ヤーノシュのハンガリー王位簒奪が成った瞬間であった。
逆境を奇貨としたとはいえ、あまりに強引な手段をとらざるを得なかったヤーノシュは、次の敗北が自分の命取りになるであろうことがよくわかっていた。
損害を回復し、万全を期さない限りヴラドと戦うのはあまりにも危険である。
しかしヴラドにフリーハンドを与えることもまた危険であった。
ヴラドがヤン・イスクラと結んでいることは明白なのだ。
そしてヤン・イスクラはハンガリー王国と政治的対立関係にある神聖ローマ帝国の援助を受けている。
両者に積極的な意思さえあれば、三国でハンガリーを分割占領することすら考えられないことではない。
(――――――だがまだ私には切り札がある。対価は貴様ら、悪魔どもの命だがな)
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