第20話 トランシルヴァニア侵攻

―――――おかしい。

 ヤーノシュの第六感が警告を発している。

 戦いの推移はそれほど予想と変わらぬはずなのに、不可思議な違和感と焦燥は募る一方であった。

 いったい何が違う?

 私はいったい何を見逃しているというのだ?

 このえもいわれぬ焦燥感には覚えがあった。

 忘れもしない、ヴァルナの戦いで国王ヴワディスワフ1世が突撃する前に感じたものと同種のものだ。

 ならば私はこのまま戦いを続ければ陛下のように命を落とすとでもいうのか?

 そんな馬鹿な話があるか。

 顔色ひとつ変えずに指揮を執りながら、ヤーノシュの懊悩は深かった。

 ヤン・イスクラ率いるフス派の残党との戦闘は、彼らの防御壁を突破することが出来ずにこう着状態に陥っていた。

 装甲を施した堡類車両と短銃で武装した彼らの戦術は、先年野戦築城によってハンガリー軍を撃破したヴラドが模倣するほどに優れたものだ。

 だからこそ、今回の出兵でヤーノシュは軽騎兵を下馬させ、さらに攻城兵器まで投入して射撃戦に徹していた。

 ハンガリーが誇る野戦機動部隊は、この種の防御部隊に相性が悪すぎるのだ。

 おかげで損害は極限され、ヤン・イスクラに与えている被害もこれまでで一番成果があがっていると言っていい。

 しかし不審なのは、いつになくヤン・イスクラの守備が重く感じられることであろうか………。

 彼らは土地を守ることに固執しない。

 戦況が悪くなれば恥も外聞もなくとっとと逃げ出し、敵を懐に引きずりこんで再び反撃に出る。

 現在のように延々と続く射撃戦は、決して彼らを利するものではないはずだ。

 にもかかわらず消耗を承知で射撃戦を継続する彼らが、ヤーノシュには何とも言えず不気味に思えるのだった。

…………何がある? いったい何をたくらむというのだ、ヤン・イスクラ!

 目に見えて敵の防御火力が落ち込んでいる。

 あるいは今こそ突破のチャンスなのかもしれない。

 堡塁車両を連結した防御線は健在だが、そのいくつかはヤーノシュが持ち込んだ攻城用の大砲によって使用不能に追い込まれていた。

 それでも疑念が晴れない。またもや罠に引きずり込まれているようなそんな予感が消えない………。


「はっはっはあ! 今頃頭悩ましてるんだろうなあ、ヤーノシュの親父よぉ!」

 ヤン・イスクラは悪戯に成功した子供のように満面に笑みを浮かべていた。

 さすがは英雄ヤーノシュ、馬鹿の一つ覚えのように突撃を繰り返していたドイツ騎士団の連中とはさすがに一味も二味も違っている。

 二門だけとはいえ、この戦場に大砲を持ち込んだことは感嘆に値した。

 おかげで貴重な堡塁車両を幾台も失うはめになってしまった。


「しっかしなあ………自分が有利なうちは退けんだろう? ヤーノシュさんよ」

 戦が不利な時に退くことは容易い。

 しかし現に味方が押している状態で退くことは至難の技だった。

 もうひと押し、もうひと押しで敵を崩せるという勝利への誘惑はなにものにも抗しがたく恐ろしいほどに魅力的なのである。

 それがこれまで苦渋を飲まされてきた相手ならなおのことだ。

 しかし残念ながらヤーノシュがいくら頑張ったところで味方は崩れはしない。崩させはしない。

 ヤーノシュの目には我々が弱りつつあるように見えるのだろうが、それはあえて兵を退かせ、わざと示弱してみせているにすぎないのだ。

 ともすれば演技に付け込まれて突破されかねない戦線を寡兵で支えているのは、実に歴戦の指揮官であるヤン・イスクラの名人芸ともいうべき運用能力によるものだった。

「坊主…………あんまり俺を待たせんじゃねえぞ!」

 射撃戦のあい間に行われるハンガリー歩兵の突撃への対応を、的確に指示しながらヤン・イスクラは遠い東の空へ獰猛な笑みを向けた。

 今頃あの愉快な友人は、トランシルヴァニアに通じる南カルパチア山脈を越えているはずであった。


 トランシルヴァニアの主要都市は南部に集中している。

 北と西を二千メートル級の山脈に守られた天然の要害だが、南部の標高はそれほどではないうえ、距離的にも近いのでワラキアからはそれほど大きな侵攻の障害とはならない。

 心配があるとすれば、トランシルヴァニアの地形は西に向ってはなだらかな平野が続いており、ハンガリーからの速やかな援軍が得られるという点であった。

 シエナの諜報によれば、ヤーノシュは予定通りヤン・イスクラに拘束されており、トランシルヴァニア兵の半ば近くが従軍中とある。

 留守を守るのは後にヤーノシュの遺志を継いでハンガリー王位に昇りつめたマーチャーシュ一世ではなく、兄にあたるフニャディ・ラースローであるらしい。

 フニャディ・ラースロー。

 ヤーノシュの死後、父の専横に対する反動から反対派貴族と国王ラディスラウスに暗殺された悲劇の公子である。

 弁舌さわやかで美男であった彼は後世に悲劇「フニャディ・ラースロー」という戯曲の主人公になるほど将来を嘱望された人物でもあった。

――――――まあ、いずれにしろ倒すだけだがな。

 索敵の軽騎兵が、本隊を追いぬいてカルパチアの山並みに消えていくのが見えた。

 斥候の軽騎兵はヴェネツィアのジョバンニにも贈った望遠鏡の量産型を装備している。

 ハンス・リッペルスハイが望遠鏡の特許を取得するのは1609年のことだから、この時代では非常に大きなアドバンテージを得たと言えるだろう。

 偵察任務にとってはかけがえのない品だ。

 しかし斥候として散る軽騎兵の任務は敵の動向を探るばかりではない。

 味方の行動を秘匿するため、目撃者を消すということも重要な彼らの任務なのだ。

 それがたとえ何の罪もない名もない村人たちであるとしても。


 ブラショフの城壁の上で灯火が振られていた。

 城壁から数百m離れた小さな林でも、同じように灯火が振られている。

 まるでそれをリレーするように数百m離れた街道でも再び灯火が振られる。

 彼らは無言のままに取り決められた合図を送り続けた。

 ブラショフの街が宵闇のまどろみを享受しているころ、カルパチア山脈を越えてきたワラキアの兵団が街道に姿を現そうとしていた。

「…………トラ・トラ・トラというところかな」

 ブラショフに駐留する守備兵がワラキアの侵攻に気がついた様子はない。

 そもそもワラキアに攻められることなど夢想すらしたこともないのだろう。

 しかしこの世に絶対的なことなど何一つもありはしないのだ。

「トラトラトラとはどういう意味でございますか?」

 不思議そうにベルドが尋ねてきた。

 状況が状況であるだけに何か重要な意味があると考えたのかもしれない。

 ほんの前世の悪戯心にすぎないのだが……。

「―――――東洋の言葉で、我奇襲に成功せり、という意味さ」

 ブラショフの城壁が見えてくる。

 どうやらシエナが組織したルーマニア人組織は、城壁の見張りの無力化に成功した様子であった。

 馬鹿め、サス人がいいようにルーマニア人を虐げるからこうなる。

 如何に見張りのほとんどを無力化し得たにしろ、さすがに数千の軍勢が攻めよせる音を隠しきることはできない。

 地鳴りにも似た低く這うようなどよめきと地響きが、城壁に立つ兵士に遅すぎる破局の到来を察知させた。

「て、敵襲!!」

「いったいどこの………まさか……オスマンがこんなところにまで?」

「いや、あれは………うそだろ? ワラキア公国軍!?」

 敵の襲来を告げる鐘が打ち鳴らされ、仮眠していた傭兵たちがおっとり刀で飛び出してきた時、戦いはすでに始まっていた。

 ヤーノシュがトランシルヴァニア公に就任してからというもの、ハンガリーの事実上の支配者の領地として安眠を貪ってきたツケは大きかった。

 彼らは戦況を把握する暇さえ与えられず、ワラキアの猛攻にさらされることとなったのである。

「ワラキアが……ワラキア軍が攻めてきたぞーー!」

 マルティン・ロペスに率いられた火縄銃の一隊が、城門の兵士に向かって一斉射撃を浴びせる。

 闇の中に轟く火縄銃の轟音は、ただでさえ士気の低い傭兵部隊の士気を一気にうち砕いた。

「冗談じゃねえ………こんなところで死ねるか!」

「おいっ! 待て! 逃げるな!」

 傭兵部隊の壊乱が始まると、もはやブラショフの守備をめぐる混乱は収拾のめどを失って破局への坂を転がり落ちるしかなかった。

 見苦しく右往左往するブラショフ守備兵は、なお一部の勇気ある騎士によってかろうじて城門を維持していたが、それを打ち砕く止めの一撃が放たれる。

 苦労して山道をけん引してきた砲架式の青銅砲であった。

 天をつんざく大砲の轟音とともに、城門は至近距離から放たれた巨大な砲弾の運動エネルギーによって見るも無惨な瓦礫に姿を変えられた。

 もはやワラキア軍を阻む障害となるものは何一つ残されてはいなかった。

「突撃!」

 戦機を読み取ったゲクランの雄たけびとともに、ワラキア公国軍歩兵がついにブラショフ市内へと突撃を開始した。

 攻城が始まってわずか一時間を保つことなく、ブラショフの陥落が決定した瞬間であった。

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