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十月半ばの日曜日。朝から瑠那は不機嫌だった。演奏会があることは分かっていたし、吾朗のカレンダーにもちゃんと書き込んであったのだけれど、前日も残業で遅くなり、今朝は目覚ましが電池切れで止まっていて、台所に立ったのはもう七時を回っていた。八時を過ぎても彼女は髪のセットが出来ておらず、水筒や携帯用の食事、財布や身分証などといった必需品の小物に着替えを詰めたポーチやバッグ、何より演奏会で使用するハープの搬出も全然手つかずのままだった。
「ああ、いいですよ。僕らでやりますんで……あ」
予定の八時よりも早くに玄関前にバンをつけたトレーナー姿の男性は、派手な柄の靴下で上がり込み、瑠那のネグリジェ姿を見て赤面する。
「斉藤君はこっち。ごめんね、瑠那。吾朗さん。こいつ、予定通りって言葉を知らなくて」
「いや、こっちこそすみません。昨日ちょっと遅くて」
「いいわよ。荷物の運び出しはやるから、瑠那の方、お願い」
「あ、はい」
同じ楽団でヴァイオリニストの飯尾由佳は着ているものこそラフなジャージだが、髪型はしっかりと生花のように盛り上がっていた。化粧も濃い、舞台仕様だ。
「あ、瑠那さん。動かないで。今髪を整えてるから」
「うー!」
彼女の長い髪は癖が強く、本当なら一度洗ってから乾かした方が早く整う。けれどその時間もない為、無理矢理にブラシで整えようとするのだけれど、それがあちこち引っかかって痛いらしい。
「吾朗さん。そっちをわたしが代わるわ。その方が良くない?」
「ああ、そうみたいだね。じゃあ、お願いします」
たぶん髪のことだけではないだろう。瑠那の不機嫌は誰の目にも明らかだった。
吾朗は斉藤という名の若者と共に、ハープをケースに詰めると、それを玄関前のバンまで運び出す。重さは小柄な女性一人分だ。瑠那より少し軽い。
この斉藤という若者は初めて見る顔だったが、何かと目線が瑠那の方に向かっていた。吾朗自身にも覚えがあるその行動は明らかに彼女を気にしている。確かに瑠那は綺麗だ。あるいは可愛らしい。まだ三十にはならないものの、とてもその年齢には見えず、下手をすると高校生くらいに間違われることも度々だった。その彼女を女性として見ている男性の視線というを感じたのは久しぶりだ。
「ありがとう。手伝ってもらって」
「いいんすよ。それより旦那さん、いつも大変ですね」
「大変? かな」
「大変だと思いますよ。だって瑠那さん目が見えないじゃないですか。けど演奏はすっごくて。うちの楽団でもピカイチですよ。花なんです。舞台上の薔薇なんです。あ、いや、百合? 胡蝶蘭? とにかく誰だって彼女に惚れますよ」
「そうか。ありがとう」
自分のことではないけれど、そこまで言われると悪い気はしない。ただその演奏を今日は見に行ってやることが出来なかった。
「ごめんなさいね。いつもバタバタとしちゃって」
「いや、俺の方こそ迷惑ばかりおかけして」
「あ、瑠那。挨拶はいいの?」
彼女は何も言わず、顔すら合わせないままバンの助手席に乗り込む。その姿に吾朗も美保も苦笑を突き合わせたが、運転席に座っている斉藤は隣に乗り込んできた瑠那を見てニヤニヤとしている。
こうして彼女は演奏会へと出かけていった。
けれどその日、瑠那は家には戻ってこなかった。彼女が戻りたくないと言い張ったのだそうだ。飯尾美保から電話があり、しばらく彼女の家に泊まらせると言っていた。
原因は分からないでもない。最近
――月なんか聞こえるはずがない。
それは吾朗に聞くまでもなく事実だろう。
それでもあまりに頻繁にそれを口にするものだから、吾朗も仕事の合間にネットの情報程度だったが、月について調べてみた。
月というのはあの空に浮かんでいる月のことだろう。他の月を吾朗は知らない。地球からすれば衛星ということになる。衛星は惑星の周囲を回っている小さな星のことだ。昼間は明るくてほとんど見えないことが多いが実はずっとどこかに存在している。それも月というのは同じ面だけを地球に向けて回っていると云う。笑顔ならずっと笑顔のまま。その裏側にどんな悲しい顔を持っていたとしても決してその表情を見せることはない。
その月に音は存在するのだろうか。宇宙空間には基本的に空気は存在しない。僅かばかりの粒子があってもほぼ真空だ、と云われている。音は振動であり、空気がないと伝えることが出来ない。
その事実だけで月から音なんて聞こえるはずがないということは分かるのに、何故ああも頑なに彼女は「月が聞こえる」と言い張るのだろう。それとも彼女なりの何かの比喩なのだろうか。
翌日も、そのまた翌日も吾朗は家に一人だった。予定されていた取引先との面談がキャンセルとなり、珍しく昼過ぎに家に帰ってきたその日もやはり、家に瑠那の姿はなかった。
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