新人アナウンサー・岩戸ほたる

「た、たいへい、ですか?」


 彼女は、紙に書かれた『大平』という字を睨んでいた。


「残念! これは『おおだいら』と読みます」

「あー、そっちなのか!」


 赤ペンで漢字の上にルビを振る。


「ローカルの独特な地名は、トラップの巣窟だからねえ。分かってても間違えそうになるし」

「でも、ハードルが高ければ高いほど、やりがいがありますもんね!」


 笑顔で熱心にメモをとる彼女こそ、マンカイ放送の新人アナウンサー・岩戸ほたるである。そして指導するのは、空野と同じく夕方の顔・光田明子だ。今は、マンカイ放送のアナウンサー研修名物・県内難読地名クイズの真っ最中であった。


「まあ、ここだけの話、初鳴きは結構早いかもね」

「え、本当ですか!?」

「うん。読みは落ち着いてるし、それでいて声質は柔らかい。少し速くなりがちなのが課題かな」


 テレビで見るのと同じように、明子の笑顔はきらきらと照り映えている。ほたるも負けじと白い歯を見せて答えた。


「頑張ります!」

「そうと決まれば、早速練習だね。はい、これ今日の原稿」


 ほたるの採用が確定していたのは、選考でのカメラテストである。全国を転々とするライバルたちが居合わせる中、彼女の読みは役員全員が丸を付けた。そして、他を圧倒するポジティブなキャラクター性と、スペイン語・スワヒリ語・ブラジリアン柔術黒帯というマルチな特技が後押しし、最終面接を待たずして内定が出された。

 社内では、彼女がテレビに出れば、すぐにでも多くの視聴者が惹きつけられると言われる。デビュー、いわゆる『初鳴き』もそう遠くないというのが専らの見立てだ。


「じゃあ、用意出来たらそのまま読み始めて」


 2人が録音室に向かうと、ちょうど先客がいた。扉が閉まっており、ディレクターが外から指示を出す。中にいるのは、男性のようだ。


『マンカイ放送主催・「知と美の世界展」。5月15日から県立ホールで開催』


 ほたるは、一瞬春の嵐に見舞われた気がした。気のせいか、前髪が靡く。


(なにこの発声!? 滑らかな読み、主張しすぎない声量……)


『知られざる世界の扉が、今開かれる』


(行ってみたい! 知られざる世界の扉を開いてもらいたい!)


 完全に彼の声にハートを掴まれたようである。


「オッケー、完璧! 頂きましたー!」

『ありがとうございます。出ます』

「光田さん、すごいですね……」

「ええ、本当に。私も勉強させてもらってる」

「さすが空野アナウンサーです……」

「ん?」

「え?」

「え、今の空野さんじゃないよ?」


 ほたるの頭上に"?"が浮かぶ。


「あ、もしかしてフリーのナレーターさんですか?」

「んー、フリーって言うかね……」

「お疲れさまでした」


 ドアを開けると、長身の男性が姿を現す。自分より少し年上のようだが、爽やかな出で立ちのジェントルマンだ。


「お、お疲れ様です!」

「ん? ああ、お疲れ様です。あなたが、岩戸アナウンサーですか?」

「はい! 岩戸ほたると申します!」

「はじめまして。営業部の影山と申します。よろしくお願いします」

「よろしくお願いいたします! 営業部の……え!?」


 眼前の影山に、ほたるは目を丸めた。


「え、営業の方なんですか……?」

「はい」

「今の、あの、ナレーションの方ですよね?」

「『知と美の世界展』ですか? はい、私ですが」


 彼の持つ原稿は、確かに先ほど耳にしていた内容と同じである。


「よっす、影山!」

「光田が指導係とか悪い夢だろ」

「なんだとぉ!? 私だってちゃんと指導できますぅ!」

「『八ヶ岳《やつがたけ》』を『はちがたけ』と読んだ奴が?」

「なっ……」


 明子が頬を赤らめ、小刻みに震えている。


「ひ、光田さん……?」

「かーげーやーまー!」

「じゃ、次があるので」


 沸騰する明子をよそに、涼し気な顔で影山は去って行く。ちょうどその時、向こうから走ってくる人の姿が見えた。


「影山さん、部長がいつでも行けるって……あ」

「あ」


 ほたるは、その人と目が合った。


「朝倉さん!」

「……岩戸さん」


 同期との思わぬ遭遇に彼女が駆け寄る。


「お疲れ様!」

「……うん、お疲れ」


 明るく接するほたるに対して、ひなたは少しだけ視線を下にずらす。


「元気?」

「元気、だよ?」

「よかったー!」


 ひなたの両手を握り、上下に揺らす。


「今度、ごはん一緒に行こうね!」

「うん……分かった……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る