美術教師(仮)⑥
「色味のこととか、そういうところで話したんだよね。色相環とか」
「色相環……」
「美術でやらなかった? 円に色が配置されているようなやつ」
ざっくばらんの説明だったが、美術の教科書に載っていたのを思い出した。あれが色相環だったのか。もちろん、読んでいるときは気付いているだろうけれど、覚えてはいなかった。
「ああいうのを取り出して、配色について話をしたりしたんだよね。千佳ちゃんも一緒になってたと思うけど」
「千佳先輩も? 色とか絵とか、そんなに詳しいって感じしないですけど」
「絵のほうは分からないけど、色のほうはまったくないってわけじゃないよ。お洒落でしょ? コーディネートの点で興味はあるみたい」
「なるほど……実用的な感覚ってことですか」
「そうだね。すごく実用的だし、めちゃくちゃに感覚だった。だって、こっちのほうがかっこいいじゃんとか可愛いじゃんとか」
「千佳先輩らしいですね」
ざっくりとした口調で言い切るのが想像できる。ふっと笑いが零れた。羽奈さんも楽しそうな笑みを浮かべる。話題が話題なだけに、重くなるのかもしれない。その予想が外れていることに、安堵していた。
「透くんが色の名前をちゃんと化粧品とか衣服とかに使われる色の呼び方に言い直してたよ。詳しいんだよねぇ」
「女遊びの結果ですかね」
「少女漫画だからね。ファッションなんかもスルーするわけにはいかないみたい。化粧だって興味が出てくるころの少女がヒロインだろうし」
「如才ないですね」
何度目になるか分からないほどの感心をする。
透先輩は漫画に対して手を抜くつもりがないらしい。そのために留年していると聞いて分かっていたが、細かな情報を耳にするとそれは一層に深まっていく。自分のそばにいるプロが本当にプロ根性を持っているものであると実感させられた。
「本当にビックリするからね。千佳ちゃんがあっさり納得するんだもん。透くんはそういうところある。それと同じテンションで配色のアドバイスしてくるんだから、やってらんないよね」
投げやりな言いざまになるのも分かる。
透先輩は尊敬できる相手だ。だが、一方でそこまで万能でいられると、張り合うのが馬鹿らしくなるのも分かる。
そりゃ、透先輩だって貪欲に知識を吸収しようと努力をしているのだろう。その努力をしている手段がどうあれ、違法ではない以上、経験は経験で知識は知識だ。
「すごいとしか言いようがないのが如何ともしがたいですね」
馬鹿なやり取りでしかない。透先輩を羨んでも何もないという点から見ても、馬鹿だろう。
嫉妬心など育んだところで、何ひとついいことはない。ただでさえ、僕は透先輩へ対して、妙な対抗心を持ち始めている。栞への態度で負けたくはない。それを強く表面上で主張したことはないが、胸のうちにあることは否定できなかった。
「蒼汰くんも心当たりがあるの?」
「まぁ」
苦々しさが広がる。流布して回りたいことではないので、口内で相槌を転がした。
「年下の男の子にやれると、投げやりにもなるよねぇ」
羽奈さんはぼそぼそと呟きながら、肘を突いてため息を零す。傷はまだ生々しいのか。僕はどうしたいいか分からなくて、眉を下げることしかできなかった。
こういう場面に遭遇すると、自分のコミュニケーション能力のなさに虚脱してしまう。女性。そして、年上。人生経験が自分よりも豊富な人を励ます力がない。
透先輩は経験があるに越したことがない、と温厚なニュアンスでしか言っていなかった。知識があるだけでも、と。ただ、こんなとき、僕は自分の経験のなさを痛感するのだ。
苦笑いをし続けている僕に、羽奈さんがへにょりと笑う。
「天才っているよねぇ」
多分、羽奈さんだって、それがすべてなんて思っていないはずだ。それでも口にしてしまうほどに、自分の不備を感じる。透先輩との差を感じる。そういうことだろう。
そして、僕はそれを分かってしまった。
やるしかないからやる。シンプルなアドバイスは、明確な事実で他にどうしようもないことだ。
けれど、それだけ。根性論だけで解決するのは、そこに力が備わっているからだろう。それを才能と一概にまとめて見て見ぬ振りをしたって、自分が惨めになるだけだ。そう分かっていても、あの人は天才だからと線を引きたくなる。その気持ちはよく分かった。
自分がないものを持っている人に出会ったとき、無抵抗に受け止められるかどうかは本人の領分だろう。少なくとも、僕には簡単なことではない。羨望を消すことはできなかった。
「……才能は補填できるんでしょうか」
漏れた発言は、思った以上に重ったるい。思わず俯いた顔を持ち上げられなかった。
先に天才話を持ち出してきたのは羽奈さんかもしれないが、才能なんて各人の努力の問題だ。そんなものを聞かれたって困るだろう。
それに、そんなものは努力するしかないと分かりきっているのだ。愚痴でしかないことが明白で、そんなもの縋ったところで傷の舐め合いにしかなっていない。羽奈さんをそんな舐め合いに引き込むつもりはなかった。だから、顔を持ち上げることができなかったのだろう。
羽奈さんが長く息を吐き出す気配を感じて、それはますます顕著になった。
「……やるしかないよねぇ」
のんびりとした口調は変わりなく、けれどやはり含みのある言葉は、どうしようもない真実だけを取り出している。おためごかしを口にする先輩でなかったことは救いだ。自分から縋っておきながら、ひどい話だった。
「私は諦めているつもりはないよ」
続けざまに重ねられて、力が抜ける。顔を上げると、羽奈さんは苦々しく顔を顰めながらも、真っ直ぐであった。
「すみません」
「なんで?」
「同列に扱ったんで」
「いやいや、元々言い出したの私だしね。才能に気後れするのは分かるし、透くんに打ちのめされるのも分かる」
「そう言ってもらえると気が楽になります」
「そんなに気にしてるの?」
気にしている、がどこにかかっているのか分からなかった。
自分の才能についてか。透先輩の才能についてか。才能について考えさせるにいたっている物体や事象についてか。選択肢は近いところにたくさんある。ただ、どれを取っても僕が気にしている事実には変わりがなかった。
「まぁ……才能があるとは思えないんで」
そんなものはあろうがなかろうが関係がない。やりたければやるだけのことで、拘泥したところで何にもなりゃしない。自分の発言を省みる自分は確かにいた。
どうしようもない抽象的なことに固着して、できないことに不明瞭でデタラメな理屈をくっつけようとしている。見苦しくて矮小だ。駄々を捏ねているだけに過ぎない。そう考えながら落ち込んでいる。悲劇のヒーロー気取りか。気取ることもできていない。
羽奈さんだってそんな感覚を伝えられても、答えようがないだろう。自分ですら信じられているか怪しいものを即答できるほど、羽奈さんは僕が何の才能を求めているのか掌握しているわけじゃない。
僕のやっていることは人伝に聞き及んでいるだけで、実力だって進捗だって知らないのだ。それで慰めの言葉など軽率にかけてきやしないだろうし、そんなことをされてもそれはそれで困る。やはり、ただただ駄々を捏ねているに過ぎずに、みっともなさに笑いが零れた。
その隙間に
「……あるよ」
と、言葉が滑り込んできて、ぎょっとする。
いつの間にか本を閉じた栞が、僕のほうを見ていた。丸い瞳がじっくりとこちらを見つめてくる。確固とした口調の意味が分からない。
確かに駄々を捏ねているのだから、フォローして欲しくはあった。微々ともなければ、口にするわけもない。だが、実際にあると断言されると理解が追いつかなかった。
唖然とする僕を、栞は見つめ続けている。黒い艶のある髪の毛だけが、ゆったりと揺れていた。電灯に照らされたそれが瞳をちらちらと横切る。
「……何か変なこと言った?」
僕があんまりにも唖然としているものだから、栞も不安になったのか。眉を下げながら首を傾げてくる。
褒めてくれているのだから、そんな顔をさせたいとは思わない。だが、まさか肯定されるとは思わずに対応ができなかった。自身がそんなものを徹底的に認めていない。求めておきながら、否定されたいなどとは頭がおかしいのかと自分を疑う。
「変じゃないよ。栞ちゃんは蒼汰くんが才能あるって思ってるってことでしょ?」
未だにフリーズしている僕の代わりに、羽奈さんがフォローを入れてくれた。
栞は何の抵抗もなく頷く。そう何度も肯定されても、僕は納得できなかった。納得というか、実感がない。どんなに考えても、僕にそんなものが備わっているとは思えなかった。
「だって、書ける人でしょ?」
誰かが理由を突いたわけでもない。栞は自ら理由を説明してくれた。
ただ、それは僕にとって才能の有無として数えるものではない。正直に言えば、そんなものは誰にでもできるだろうと思える。だって、書くだけだ。俺はもっともっと自由自在で、豊かな表現をしたい。書くだけ、では才能として認められそうにもなかった。
むっつりと黙ったままの僕に、栞は怪訝な顔になる。栞は何も悪くないのだが、僕は口を開ける気がしなかった。
自分でも、想像以上に執心し、めげていたことに気がつく。ただ、気がついたと同時にリカバリーできるほど、僕は反射神経がよくはない。
引き続きフリーズしたままの僕に、栞の表情は著しく怪訝になっていく。気持ちが焦るが、何を言えばいいのか分からない。今口を開くと、才能でないと否定してしまいそうだった。
自分で自分のことをそう思っている分には問題ないだろうが、肯定してくれた人に否定をぶつけようとは思えない。だから、口を開きたくはないが、そのままっていかないのもまた事実だ。
「……書ける、だけだよ」
「だけでも、すごいよ。私はできないもん」
……そうだろうか、と思う。
確かに、栞ができないことをできる。それは事実だ。だからといって、才能の有無と繋げて認めることはできなかった。自分が面倒な考えなのは、僕自身が強く理解している。それでも、易々と頷けない僕がいた。
「……そうかな」
「そうだよ」
どうにか捻り出した相槌に即答が戻ってくる。
栞にはからきし躊躇いがなかった。何の確証なのだろうと、疑念を抱くほどの即答だ。その疑念を抱いてしまうことに、動揺が胸に広がる。
栞が僕を認めてくれることを撥ね除けたいなど微塵も思っていない。馬鹿になって素直に受け取ってしまえばいいのだろう。それは分かっているのに、頭の片隅が理解を拒んでいた。
どうして自分がここまで頑なになっているのか分からない。それほど座礁していたことに今頃気がついても、もう遅かった。
だんまりな俺に栞は残念そうな顔になる。それでも、言葉を飲み込むことしかできない。
そんなものはないんだ、と八つ当たりしそうな自分がいた。それを避けようとする抑制力があるのはいいだろう。だが、代わりにフォローができるわけでもない。空気が停滞していた。
羽奈さんも、僕がここまで頑固な様子を見せると思っていなかったのか。困惑したままでいる。僕だって、ここで羽奈さんに救助を求めたり処理を願ったりはしたくはない。
その沈黙に
「ご飯できましたよ」
と言うナツさんの声がかけられる。
一次休戦、というわけではないけれど、それが場面を無理やりに動かした。
ナツさんに料理を任せている身として、僕らは食事の時間を不用意な理由で動かしたりしないし、ナツさんの予定に影響のあることは一切なしだ。
数年前にとんでもない料理下手な住民がいて大パニックになったため、料理はナツさんが一挙に担うことにしたらしいので、そのお手伝いはしないが。
そして、できましたよ、というのは鍋やフライパンにできあがった状態で、僕らはそれをよそったりお皿を並べたりする。すぐにその行動に移るように身についているので、話は中断した。
そして、停滞していた話を掘り返したいとは思わない。少なくとも、僕はもうその話にこだわりたくはなかった。
感情を整理するために考える時間は持つが、栞を相手に会話として外に吐き出したくはない。取り返しのつかないことを言いそうな気がしてしまう。無関係であるというのに。
だから、僕はそのまま食事に集中して部屋へ引っ込む普段を心がけた。どこか淀んでいた空気のことなど百も承知だ。それでも、僕は何もできずに部屋へと戻る。
僕は独りきりの部屋に大の字になって、天井を見上げることしかできなかった。
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