天井の本の虫②

 我ながらげんきんだとは思う。

 自分勝手にわだかまりを解消してからは、転がるように筆が進んだ。内容の善し悪しには頓着しない。とにかく、ピリオドを打って、僕は長く脱力をした。

 仕上げをした後は、パソコンで直すことにする。単語の意味や類義語。調べ事をするにも、パソコンのほうが画面の都合がいい。

 ただ、そうすることで自室にこもることが圧倒的に増えた。自分がそこまで直しに熱中できるとは思っていなかったが、かつての集中力が戻ってきているらしい。心底楽しい気持ちで押し進めていく。


「蒼汰ー」


 居間に出る機会が減ると、話をするためには部屋へやってくるしかない。いや、スマホに連絡を入れればいいが、同じ荘の中にいてそんな真似をしやしないだろう。僕だって、そんなことしない。


「どうしたんですか?」


 返事をすれば、すぐに


「開けるぞ」


 と扉が開かれた。

 透先輩は珍しく、ヘアバンドで前髪を持ち上げておでこを晒している。羽奈さんにそういう時期があると聞いていなければ、仰天していたはずだ。


「どうしました?」


 身体を捩って振り返っている僕のところへ、透先輩はずんずんと近寄ってくる。まったく遠慮がない。そのうえ、身を乗り出してパソコンを覗き込んでくるのだから、びた一文遠慮がなかった。


「いや? 随分引きこもってるみたいだから、どうしたのかと思って。行き詰まってぶっ倒れてないかとかな」

「この通り、ちゃんと生きてやってますよ。透先輩こそ、締め切りじゃないんですか?」

「……生意気なことは言わなくていい」

「……困るの自分ですよ」


 どうやら、息抜きに絡みにきたらしい。そんな暇があるとは思えなかったが、透先輩は仏頂面で僕の隣に腰を下ろしてくる。本格的に休息するつもりか。それにしたって、居間でも何でも他に行くところはあるだろうに、どうして僕のところにきたのか。


「で? どうだ?」

「最終チェックです」

「直しは?」

「どうにか終わってます」

「どうにか……?」


 透先輩は不思議そうに首を傾げる。

 創作について話すとき、いつだって透先輩が主導権を握っていた。僕の発言に首を傾げる姿は、奇妙さがある。どうにか終わる、という状態はさほど変ではないのではなかろうか。こっちまで首を傾げてしまいそうになるのをどうにか押し込めた。


「直し続けてたら終わりがないんで」

「……なるほど。それは、確かに、まぁあるな」


 その相槌は、十分過ぎるほどに渋味が含まれている。

 ヘアバンドを首元へ下ろして、ぐしゃぐしゃと前髪を引っ掻き回していた。仕草からも何からも、行き詰まり方が目に見える。よっぽど苦しくなってここに逃げてきたらしい。透先輩らしからぬ行動力に、僕は驚きが隠せなかった。


「大丈夫ですか? 息抜きしてますか?」


 それを先に僕に教えてくれたの透先輩だ。

 声をかけると、透先輩はぐいーっと背伸びをして、僕の隣に倒れた。人の部屋で完全に脱力するのはやめて欲しい。

 というか、いつの間にかこんなに距離が近づいていたのか。栞と自室にいたときよりも違和感がない。

 そりゃ、栞と透先輩じゃ意識の方向性が違うけれど。それにしたって、これほど違うものか。慣れるものか。と、不思議な感覚が膨れ上がった。僕もいつの間にか、荘に馴染みきっていたらしい。


「今、してんじゃん」

「僕のところに来ても、創作から逃げられないでしょ」

「いいんだよ。完全に集中力を切らしたくないから」

「疲れませんか?」

「どう見ても疲れてんだろ」


 言いながら、透先輩は寝返りを打っていた。透先輩の精神状態と行動原理の繋がりと発露は、僕には理解不能だ。ただ、疲れているのだけは明確だった。


「僕じゃ慰めるには足りませんよ」

「だからって、他にいっても誰も慰めにはならない」

「外出すればいいでしょうが」

「そんな時間はない」

「仕事しろ」


 言いたくはないが、僕と違って透先輩は仕事だ。外出する時間すらないのであれば、こんなところで時間を潰している場合ではない。

 思った以上にきっぱりと突っ込んでしまった僕に、透先輩は不貞腐れて唇を尖らせた。男がそれを、と咄嗟に思ってしまったが、意外にさまになるので苦笑するしかない。


「時間ないって自覚があるんでしょ。後に回してもきついだけですよ」

「自分が順調だからって言うようになったな、後輩くん」

「透先輩に鍛えられましたんで」

「栞ちゃんに発破かけられて元気出たとかそんなとこだろ」


 自分が切羽詰まっていても、勘は鈍らないらしい。むしろ、尖りきっているかのようだった。

 今度は僕がそっぽを向く。それから、目元が向いたパソコンのキーボードを打ち込む作業に戻った。あまりにも分かりやすかっただろう。僕だって、透先輩に隠し通せるわけもないと、取り繕う気もなかった。

 透先輩の足先が、からかうように僕の身体を蹴ってくる。どこまでも見透かされていることに憮然としてしまった。

 僕は意地になって、キーボードを打ち続ける。終わりはもう見えていた。懸命に精進している振りで、透先輩をスルーし続ける。

 それでも、透先輩は面白そうに僕を見ていた。どうやら、僕が小説に向き合っているのも、栞との関係を補強するものとして換算しているらしい。都合の良い解釈だし、わざとだと分かっているので、取り合わなかった。ムキになっている僕を透先輩はしばらくの間黙って放っておいてくれた。


 それから、


「蒼汰」


 と呼びかけられる。

 その音はからかいとは違うように聞こえた。あくまでも感覚的なものではあったが、疼く感覚を無視することはできない。

 手を止めて透先輩へ向く。透先輩は寝っ転がったままではあったが、神妙な顔をしていた。このタイミングでまともな会話があるのか。彫刻のような造形をした美しい顔の迫力に気圧される。

 透先輩はその中に柔らかい笑みを混ぜ込んだ。自分のルックスがどういった効果をもたらすのか。そのすべてを掌握しているかのような立ち居振る舞いだった。

 僕は見事に透先輩の手のひらの上で踊らされているのかもしれない。


「栞ちゃんがいて、よかったな」


 しみじみと言われて言葉を失う。それは今までのからかいとはまったく違うニュアンスを含んでいた。どういった感情で、そこに辿り着いたのか。自分の苦労から栞への感謝へと結びついた思考の流れも読めなかった。

 透先輩の頭脳が僕と比べものにならないことは分かっているが、それにしたって会話が突拍子もない。賢い人間というのは、こういうものなのだろうか。僕は置いてけぼりを食らってしまっていた。


「読んでくれる読者と出会ったことは蒼汰にとっては幸運だろ?」

「……はい」


 流れは分からないが、言っていることは正論で、反論の余地はない。頷いた僕に、透先輩は嬉しそうに笑う。

 ……心配してくれていたのだろうか。透先輩に相談したときにも、栞には出会っていたけれど。その後のやり取りで変わったことが見透かされているのかもしれない。透先輩が喜ぶ真意は掴みかねたが、自分のことのように笑ってくれる先輩に悪い気はしなかった。胸の奥が温まる。

 透先輩はそれだけ言うと満足したのか。横になったまま、だんまりになった。部屋に戻ればいいのに、とこそ思いはしたが、邪険にする気持ちが削られている。

 やっぱり、チョロいし、手のひらの上でコロコロ弄ばれている節は否めない。それでも、休んでいる透先輩を無下に焚きつけようとは思えなくなっていた。

 さっきまでやっていたかのように、僕はパソコンに向き直る。透先輩は僕のやりように文句を言うことはなく、じっくりと休んでいた。

 打鍵音がうるさくないのだろうか。休みたいのであれば、自室のほうが休まるのではないのか。気持ちがよぎることはあったが、それは僕が責め立てたところで何も得がない。透先輩が静かにしているのならば、僕に被害はなかった。

 人の気配がある自室という空間に、数ヶ月で慣れさせられている。栞よりも意識しないでいい分、透先輩は気にならなかった。そして、透先輩はシャットダウンしているかのように微動だにしないものだから、尚のことだ。

 そうなると、僕はどんどん小説へと意識が絞られていく。透先輩のことを意識から除外して、僕は着実に筆を進め、最後が見えた。もう一度くらいは読み直したいところだが、きちんとたった目処に気が抜ける。

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