あと少し……
諸星モヨヨ
第1話
多くの人にとって、日常生活のかなめである脚を失うことは、容易には受け入れがたい喪失である。無論、彼にとってもそれは大きなショックに変わりはなかったが、そのショックたる所以は一般的な感覚とは少し異なっていた。
彼はサッカー選手だった。サッカーだけが彼の承認欲求を満たしてくれる。サッカーは彼の人生、その全てと言ってもよかった。
強弱の差はあれ、自らの存在を他人、そして社会に認めてもらいたいと思う感情は誰しもが持ち合わせている。しかし、幼い頃の彼にはそれを満たしてくれるものが何もなかった。人が羨むような外貌もなければ、特筆するような知力も体力もない。そのくせ自尊心だけは人一倍強く、人と進んで打ち解けたり、愛嬌を振りまくようなこともしなかった。
そんな有様なので小学校に上がるころにはいじめの標的になった。苛烈ないじめが日々彼に差し向けられたものの、彼の怒りはいじめの主犯格よりも自分を哀れみ、救いの手を差し伸べてくれる人間に向けられた。
誰かに哀れまれる、誰かの助けを借りるという事は純也にとって屈辱以外の何物でもなかった。哀れみの心が自分へ向けられる度、彼は激高し、それを拒絶した。その内数少ない級友から孤立し、彼もまた自尊心を守るため、自分の殻にこもるようになった。
そんな彼にとって、サッカーとの出会いは大きな転機だった。
それまでサッカーをしたことはおろか、興味を抱いたことすらない。ほとんど偶発的な形で部活動に参加することになった彼だったが、その才覚を見る見るうちに現れ始めた。
体力こそないが、どこへボールを導けばいいのか、どうボールを運べばいいのか。考えなくとも直感で理解できる。正に天賦の才が彼にはあった。顧問やチームメイトは賞賛の言葉を他意なく送った。
得も言われぬ快楽がそこにあった。自分の存在が誰かに認められている、誰かに必要とされている。それは彼が長らく渇望していた欲求だった。
一年生のうちにレギュラーメンバーに選ばれ、全国大会へ出場するまでになると、最初一滴だった快楽は雨となり、流れ込む滝となった。増大する快楽に比例して、その欲求の器も肥大化していった。
幸い、彼にはそれに応えるだけの実力もあった。高校では全国大会優勝校のエースとして戦い、卒業後にはプロになった。
プロになってからも彼の勢いは止まることを知らず、一年目にレギュラーになって以降、その座を誰かに渡すことはなかった。幾多の称賛、ファンからの声援、それは肥大化した欲求を満たしてくれる、はずだった。
プロになって数年、彼の心にはどうしても埋まらない空白が生まれた。どれだけ結果を残しても、どれだけの称賛を浴びても心に巣食った欲求が満たされるという事はなかった。
数年後、彼は結婚した。相手は
「俺が一生養うから、俺のことを支えてください」
真梨香に言ったその口説き文句には、確かに耽溺するような愉悦があった。結婚すると、彼は妻を寿退社させた。彼は得たという感覚を持ちたかった。あの貧弱な自分が有名人の妻と結婚し、しかも自分の力で養っているという事実は彼の心を途轍もない充足感で満たしてくれた。
しかし、それでも何かが足りなかった。あと少し、あとほんの少しだけ何かが足りない。
かつて枯れ果てていた承認欲求は溢水寸前まで潤っている。自分があれほど求めていた快楽は既に満たされている。そのはずなのに、あと少し何かが足りない。
それが一体何で、どこにあるのか、彼には分からなかった。高級車を買い、ブランド物の服や時計を見つけてもそれは埋まらない。
海外のクラブチームから移籍の話が来たのは正にそんな悶々とした日々に鬱屈していた時だった。話を聞いた時、彼はまさにこれだと確信した。あと少し、それを埋めるのはこれに間違いない。話があって数週間もしないうちに、彼は所属チームに脱退と海外移籍を半ば強引に伝えた。
そう、あと少しだった。あとほんの少しのところで、彼は車で事故を起こしたのだった。
事故があった後、当然のことながら移籍の話は立ち消えとなった。強引な退団の話があだとなり、所属チームからも満足のいく援助は受けることが出来なかった。
事故の過失が100%彼にあったことも世間的な冷遇に追い打ちをかけた。制限速度70㎞超過と飲酒運転は、不注意だっただけでは済まされなかった。損害保険や車両保険も幾多のスポンサーへの違約金に消えていき、彼の手元には一円たりとも残ることはなかった。
両足だけではなく、社会的地位を失ったショックは大きかったものの、こういう時の対処法を彼は心得ていた。
高く堅牢な城塞を築き、そこに閉じこもる。外界との交流を完全に遮断すれば、誰に傷つけられることもない。彼の城塞は茅ケ崎の自宅、その2階の一室だった。
結婚翌年に購入した家は17LLDDKK。まさに豪邸という名に相応しい広さで、2階からはコの字に広がる相模湾を一望できる。両足を失った不便さを知っていながら、純也は2階の自室に閉じこもることを選んだ。一階のリビングで過ごす方が合理的ではあったが、2階の容易に移動できないという途絶感が彼を安心させた。
外部との接触を極力避けるため、スマホもパソコンも捨て、テレビも映画専門の衛星放送しか見ない。自室中央に鎮座するフランス製の高級カウチと、その手前のガラステーブル。手元のサイドテーブルには各種リモコン類が格納され、内線電話の子機が置かれている。何か入り用があれば、それで妻を呼べばよく、生活に不自由することはない。
カウチとその周囲半径1mが、彼の世界その全てだった。
つづく
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