継続輪廻ゼロ地点

 1979年11月 山神村やまがみむら


 乾いた、冷たい空気が鼻腔を抜ける。秋も深まり、朝はすっかり冷え込むようになった。この季節は掃除が大変だ。ブナ、クヌギ、コナラなどの落ち葉。どんぐりもたくさん落ちている。私は大きな竹ぼうきでゆっくり秋をかき集める。


「おーい、おーい」


 ふと、遠くから大きな声で叫ぶ声がした。


「住職さーん、住職さーん」


 どうやら私を呼んでいるようだ。こんな朝から何事か。


 寺に駆けてきたのは、もじゃもじゃの髪を振り乱した村長の谷中やなかさんであった。


「おはようございます。谷中さん、こんな朝から何事ですか?」


 少し太り気味の谷中さんは、手を膝に当て前かがみになり、はあはあと息が荒い。よほど急いで来たらしい。呼吸を整えてようやく話し出す。


「住職さん、山の入り口あたりに、知らない男が倒れているんです」

「倒れていると?」

「はい。壺阪つぼさか先生には診てもらってるんですが、先生が、これは住職さんに診てもらったほうが良かろう、と」


 壺阪先生は村の診療所の医者だ。先生が匙を投げるとは、どんな重病人なのか。


「わかりました。壺阪先生がそう仰るなら、とりあえず、向かいましょう。先代に声だけかけてきます」

「よろしくお願いします」


 私は倒れているという男の状況がよくわからなかったが、とりあえず、父である先代に声をかけ、山に向かうことにした。紅葉が美しい秋の山は平和そのもので、息を切らして駆けている私と谷中さんだけが、その静かな風景を乱していた。




「あ、村長さん、戻ってきた」

「良かった、住職さん連れてきたぞ」


 私が山の入り口に着くと、村民の数人が一つに集まっていた。どうやら、倒れている男を囲んでいるらしい。その真ん中に、壺阪先生がしゃがんでいるのが見えた。


「先生、住職さんお連れしました」


 谷中さんが声をかけると、「む」と返事をし、壺阪先生が立ち上がった。


 ふと足元を見ると、谷中さんの言っていた通り、見たことのない男が倒れていた。髪は伸びてぼさぼさ、無精ひげで、薄汚い身なりの、知らない男だった。私より少し年下くらいか。三十代のように見えた。


「壺阪先生、その男は?」

「あぁ、今朝早くに松山まつやまさんが山菜を取りに山に入ろうとしたところ、ここに倒れていたらしい」


 松山さんは、村民の一人だ。


「そうなんです。知らない男が倒れているから驚いて、大丈夫か? って駆け寄ったんです。そしたら胸のあたりに血が滲んでいるのが見えて、こりゃ大変だ、と思って急いで壺阪先生のところへ駆け込んだんです」


 発見者の松山さんは、興奮した口調で早口に説明してくれた。壺阪先生が冷静に続ける。


「服をはだけてみると胸から腹にかけて大きな傷があって、出血しておった。大きな獣の鉤爪にひっかかれたような傷じゃ」

「息は?」

「息はあるが、意識がない」

「熊でも出たんでしょうか?」


 私が言うと、壺阪先生は首を振った。


「住職さん、これを見てくだされ」


 壺阪先生は、倒れている男のボロボロに千切れた服をまくりあげた。それは、確かに大型の熊にでもひっかかれたような切り傷だった。まだ血が滲んでいるが、先生が縫合した跡がある。しかし、そんなことより目についたのは、その傷を覆うように漂っているどす黒いモヤのようなものだ。


「先生、これは……」

「あぁ、傷はそれほど深くなかった。しっかり消毒をして縫ったから、時間が経てば治るじゃろう。しかし、このモヤは、私の手には追えん。熊の傷じゃない。住職さん、これは何なんじゃ?」

「私にも、わかりません。しかし……」


 その黒いモヤを見た瞬間から、私は鳥肌が立って、気持ち悪くて仕方なかった。なんと呼べばいいのだろう。邪悪な、汚い、恐ろしいものに見えた。私は、ようやく四十になる若住職だ。こんなもの、見たこともない。


「先代に相談させてくだ──」

「寺に運べ」


 私が言い終わらないうちに、背後から低く鋭い声がした。


「先代!」

「お前の帰りが遅いから、見に来た。あの傷を覆うモヤは、壺阪先生の仰る通り、医療でどうにかなるものではない。寺に運んで、療養させないと、あの男はモヤに取り込まれてしまう」

「モヤを消す方法はあるんですか?」

「手は尽くそう。とりあえず、男を寺へ運ぼう。谷中村長、村の衆を集めてください。男が倒れていたこのあたり一帯に、寺の御神水と酒と塩を撒いて清め、山神様へのお供えを尽くしてください」

「わかりました!」


 谷中村長はもじゃもじゃ髪を振り乱し、また走り出した。


 その場にいた村民たちで、倒れていた男の手足を持って運ぶ。ぶらぶらと揺すられる男の胸には、相変わらず黒いモヤが漂って着いてきていた。


 寺までの途中、谷中村長の声で、村民に公民館へ集まるよう伝える村内放送が聞こえた。



 見知らぬ男を寺の外陣げじんに横たえる。先代が、傷を改めて観察する。傷は、男の右鎖骨あたりから斜めに胸を通って、腹のあたりまで伸びている。ほぼ平行に、三本。やはり鉤爪のようなもので、一掻きされた跡に見える。その傷のまわりを、黒い煙のようなモヤのようなものがゆらゆらと漂い、ときどき渦を巻くように流動し、覆っている。


「これは、御神水ごしんすいで洗い流すしかなさそうだな」


 先代の言う御神水とは、ここ山神村の山から湧き出る湧水で、特別な効能があると古くから言い伝えられている。魔除けや、浄化の効果が高い。ここ山神寺の手水も、御神水を山から引いて作られている。


「このモヤは、何なんですか?」

「ふむ、私もよくわからないが、おそらくは、この傷をつけた相手の怨念のようなものだろう」

「怨念……」

「あぁ、この男にとどめを刺していないということは、ほとんど相討ちで、わずかに相手のほうが遅かったのだろう」

「じゃあ、この傷をつけた相手は」

「あぁ、亡くなったのだろう」


 死闘を繰り広げた相手の、怨念が傷に宿る。なんて生き様、なんて死に様。


「誰か、家にあるたらいを貸してくれ。そこに、御神水を満たして、ここに運んでほしい」


 先代は、男を一緒に運んできた村民たちに言うと、男の服を脱がせ、上半身を裸にした。


「お前は、寒くないように、ここにストーブを運んでくれ」

「はい」


 私は先代に言われた通り、石油ストーブを外陣に運び込む。中央の燃焼筒を少し持ち上げ、中の芯にマッチで火をつける。ふっと灯油が匂い、すぐに燃焼筒が赤く灯る。


「タオルを持ってきてくれ。御神水で傷を拭いてみよう」

「はい」


 私は母屋に行って、母親に事情を伝え、タオルをあるだけ受け取った。母親は私から話を聞くと「では、朝食は作業しながら食べられるものにいたしますね」とおっとりと言った。なんだかんだ神経が過敏になり緊張していた私は、母のその穏やかな声で、一瞬安らぐ気持ちがした。


「ありがとう、母さん」

「はい。お気をつけて」


 私はタオルを持って外陣へ走った。


 誰かの家の大きなたらいが男の横に置かれていた。たらいには、水がいっぱいに張っている。


「松山さんがたらいを貸してくれた。御神水を汲んできてくれたから、男の傷を拭いてみよう」

「はい」


 先代はタオルの一枚を御神水に浸し、男の傷をそっと拭う。先代の持つタオルは、一撫でしただけで真っ黒に変色し、先代はそれをたらいで濯いだ。たらいの水は、墨汁を大量に注いだように、あっという間に真っ黒になった。男の傷を覆うモヤはまだまだ晴れていない。


「む、これは手強そうだ」


 先代は、ぼそっとつぶやき、静かに見守っていた村民に顔を向けた。


「みんな、それぞれ家にあるたらいやバケツを、あるだけ持ってきてくれ。そして、御神水をどんどん運んでくれんか」

「わかりました」


 村民たちは次々と駆け出していく。


「先代、この水はどうしましょう」


 私は真っ黒に染まった、たらいの水を見つめた。濁った黒いモヤは今にも水を抜け出して、襲い掛かってきそうな静かな迫力を持っている。


 うーん、と腕を組みしばし考え込んだ先代は、意を決したように言った。


「飲み込みさまの井戸に、飲み込んでいただこう」

「え! 飲み込みさまの井戸を開けるんですか!」


 それは驚くべき決断だった。


「仕方あるまい。飲み込みさまに、飲み込んでいただくほか、我々には対処できないだろう」


 確かに、この傷のモヤを拭き終わる頃には、いったい何杯分の黒い水が出てしまうことだろう。そう考えると、飲み込みさまの井戸に飲み込んでいただくより他に、道はないように思える。


「様子はいかがですか」


 村長の谷中さんが駆けてきた。


「御神水で拭えば少しずつ浄化はできそうです。しかし、見てください。このように、黒い水が……」


 谷中さんはたらいを覗き込み、ひゃっと声をあげた。


「これは恐ろしい」

「そこで、村長。飲み込みさまの井戸を開けようかと思うのだが」


 先代が口を開く。


「なんと、飲み込みさまの井戸を!」

「うむ、飲み込みさまの井戸に飲み込んでいただくほか、我々には手がないように思える」


 村長は腕を組みしばし悩んでいたが


「その通りですね。飲み込みさまに、お世話になりましょう」


 飲み込みさまの井戸は、寺のすぐ裏にある石積みにされた丸井戸で、先代すら、いつからそこにあるのか知らないほどの古いものだ。丸い石積みのまわりに木で枠が作られていて、井戸を塞ぐように木板が何枚も貼られ、釘が打たれ、蓋がされている。いつから使われていないかわからない。


 井戸なのになぜ使われていないのか、頑丈に蓋がされているのか。それは、飲み込みさまという名前の通り、井戸が何でも飲み込んでくださるからだ。飲み込みさまの井戸は、滑車をどれだけ引いても、桶は底まで着かない。石を投げ入れても、何を入れても、着水する音も、着地する音もしない。つまり、飲み込みさまには、底がないのだ。何でも飲み込んでくださる井戸は、つまり、一度落ちたら二度と出られない不可思議な井戸。誰も間違って落ちることのないよう、もうずっと、蓋がされたままなのだ。


 私と谷中さんは、母屋からバールを持って二人で飲み込みさまの井戸へと向かった。


 飲み込みさまの蓋になっている木板を慎重に一枚だけ剥ぐ。この作業中にでも、誰か落ちてしまったら大変なことになるため、必要最低限の隙間しか開けない。


「私がここで危険がないよう見張っています。住職さんは、先代の元へ戻ってください」


 谷中村長は、額の汗を拭きながら言った。


「わかりました。では、よろしくお願いします。くれぐれも、お気をつけください」


 私は急いで境内に戻った。



 村民たちが、たらいやバケツを持ち寄って、先代は男の傷を拭っていた。たらいが新たに一つ、バケツが一つ、真っ黒な水で満たされている。


「先代、飲み込みさまの木板を一枚だけ剥ぎました」


 私の報告に、村民たちが一瞬生唾を飲んで緊張したのがわかった。村民たちも皆、飲み込みさまの井戸のことは、もちろん知っている。


「そうか。では、村の衆と一緒に、この水を運んで、飲み込みさまに飲み込んでいただこう」

「わかりました」


 私は、真っ黒い水の張ったたらいを、松山さんと一緒にそっと持ち上げた。こぼさないように、恐る恐る運ぶ。水がちゃぷんと波打つたび、黒いモヤ自身が意思を持っているように感じられて不気味だ。二人で声を掛け合いながら、そっと運び、谷中さんが待つ井戸に辿り着いた。


「では、ここから飲み込んでいただきましょう」


 私たちは、飲み込みさまの井戸に手を合わせ「よろしくお願いいたします」と頭をさげた。


 そして、剥いだ木板の間から、真っ黒な水を流し込んだ。


 さーっと流れていく水。やはり、着水の音はしない。ただ静かに流れていくだけ。飲み込みさまが飲み込んでくださっている。私は感謝しながら、たらいを空にした。三人で飲み込みさまに頭を下げる。


「この要領で、全ての水を飲み込んでいただきましょう」

「そうしましょう」


 私たちは代わる代わる、黒い水を飲み込みさまの井戸へ運んだ。その間、先代は男の傷を拭い続けた。先代はもうすぐ古希である。さすがに疲れるのではないかと心配になり、私は水を運ぶ手を村民にまかせ、先代の元へ戻った。


「先代、少し休んでください」

「ん、そうか。では、そうさせてもらおう。水を運んでいる村の衆にも、休憩してもらおう」


 そこへ、ちょうど母と妻が大量の握り飯と豚汁を持って現れた。


「遅くなりましたが、みなさんでどうぞ」

「みんな、休憩にしてください」

「わあ、ありがとうございます」


 時刻は午前九時。男を発見してから、三時間が経っていた。全員、一度、御神水で手を清めてから、握り飯と豚汁を食す。


 私は、食事を摂る前に、男を発見した場所のことが気になり、一人で向かった。


 山の入り口、男が倒れていた付近一帯は、御神水と酒が撒かれたようで、土は濡れており、塩も撒かれていた。そして、村民が心を尽くしたと思われる、野菜や果物や赤飯、握り飯、折り紙の鶴などがたくさん置かれていた。これなら山神様にも失礼がないだろう。私は安心して寺へ戻った。


 秋の涼やかな空気の下、村民が集まり握り飯を食べている光景は、何とも平和で、私はこの村が本当に好きだな、としみじみ感じた。どこの馬の骨ともわからぬ男のために、みんな集まって協力する。この絆が、山神村を支えている。私は自分の住む村を誇りに思った。



 食事を終えた我々は、作業に戻る。私が男の傷を拭い、黒く染まった水を村民のみんなが飲み込みさまの井戸へ運んで飲み込んでいただく。その繰り返しで、男の傷のモヤは次第に薄くなっていた。


「もう少しだ、頑張れ」


 まだ意識の戻らない男に声をかけ、モヤを拭う。怨念とは、恐ろしきものだ。山神村の御神水でもこれだけ時間がかかるとは。私はこの男が殺めた相手のことが、気になった。この男が目を覚ましたら、話が聞けるだろうか。死闘をした相手と、その理由を。それとも、この男はただの恐ろしい人殺しなのだろうか。闘いに理由などなかったとしたら。この男を救うことが村を危険にさらすことになるかもしれない。いや、今は迷っている暇はない。この男を死なせなかったのは、山神様の思し召しなのだろう。私は山神様を信じて、この男を救うことに今は集中しよう。


 モヤを拭い、濯ぎ、水を交換し、モヤを拭う。一時間以上繰り返していただろう。次第に水の濁りが薄くなり、男を覆うモヤも薄くなり、いよいよ傷を拭ってもタオルの色は変わらなくなった。最後に、きれいな御神水で傷を洗い流す。モヤは完全に晴れ、生々しい傷だけが男の胸に残った。


 私は村民に感謝を伝え、取り急ぎ、飲み込みさまの井戸を塞ぎに行った。


 谷中さんと一緒に木板を釘で打ち付け、蓋をする。飲み込みさまに手を合わせ、頭を下げる。


「どうもありがとうございました」


 二人で境内へ戻ると、先代が男の横に座っていた。


「みんなにはいったん帰ってもらったよ。この男が意識を取り戻すか、あとは男の生命力次第だろう」

「そうですね。意識が戻るといいのですが」

「本当ですね」

「谷中さんも、ありがとうございました。男のことは私たちで様子を見ておきます。何かあれば連絡しますので、お帰りになってください」

「はあ、どうも、すみません。そうさせてもらいます」


 谷中さんは、んーっと声を出して背伸びをし、首を左右に倒してコキコキと鳴らしてから「では、失礼します」と帰っていった。


 秋の高い空を見ながら、思わずはあーっと息を吐いた。私の生まれ育ったこの山神村は不思議な土地だが、今回ほど驚いたことはないかもしれないな。この男が目を覚ましたとき、どうか悪人ではありませんように。そう願って、また空を見上げた。太陽がちょうど真上に登る頃だった。



 先代と交代で男の様子を見ながら、食事をとって、私は掃除の続きをした。村民たちが気にかけてときどき境内を訪れるが、男はまだ目を覚まさなかった。



 陽が傾き、ぐっと気温が下がってきた。男に厚手の布団を掛け、先代と交代で様子を見る。私が男を見守っているときだった。


「……うぅ」


 男が小さく唸った。


「お、おい、大丈夫か?」


 私は思わず顔を覗き込み、頬を軽く叩いた。


「……ん」


 男は薄らと目を開けた。


「先代! 先代! 男が目を覚ましました!」


 私が大きな声を出すと、母屋から先代が歩いてきた。


 男はむっくりと体を起こすと、自分の胸にかけてあったタオルをめくり、傷を眺めている。


「おい、あんた、大丈夫か?」


 私が声をかけると男は


「俺は生きているのか?」


 と、独り言のようにぼそっと呟いた。低くて渋い声だった。


「ああ、生きているよ」


 私が言うと、ゆっくりこちらを見た。射すくめられるような暗い目だ、と思った。絶望と苦悩をかき集めたような、暗い目をしている。


「この傷を縫ってくれたのは、どなたですか?」

「壺阪先生という診療所のお医者さんです」

「そうですか。よく縫っただけで治ったな……。てっきり私は死んだかと思いました」


 先代がゆっくり近づいて話しかける。


「ご気分がいかがですか? ここの寺の住職をしていたものです。あなたがこの村の山で倒れていたところを村民が発見し、ここへ運び、治療させていただきました。傷に怨念のようなものがまとわりついていたので、洗い流しました」

「怨念……」

「はい。黒いモヤのようなものです」

「近くに黒いでかい獣のような化け物はいなかったですか?」

「おりません。倒れていたのは、あなただけです」

「そうですか。勝ったのだな……。助けていただいたようで、ありがとうございました」


 男は体を起こした状態で、ゆっくり頭を下げた。どうやら、恐ろしい殺人鬼ではなさそうだ。男に私の肌着を貸して着せる。


「腹が減ってはいませんか?」


 先代が言うと、男は自分の腹を撫で「減りました」と無表情でつぶやいた。



 男の食欲は目を見張るものだった。おそらく、死に瀕した体が、傷を治癒しようとする体が、栄養を欲しているのだろう。母と妻の作った料理を黙々と口に運び、茶を飲み、また食べる。妻が「お義母さん、お米足りますかね」とお櫃をのぞいている。確かに、心配になるような食欲だ。


 しかし、男の胃は満たされたようで、正座したまま手を合わせ「ごちそうさまでした」と言った。


「私の名前は、山矢やまやと申します。この御恩は一生忘れません」


 そう言って、深く頭を下げた。


 先代が「おい」と母に声をかける。


「山矢さん、と仰いましたか。あの、よろしければ風呂が沸いております」

「そこまでのご厚意に甘えるわけにはいきません」


 母は先代の顔を見て首をかしげる。


「このあたりは、もうこの季節でも夜は冷えます。傷が痛むようでしたら、せめて腰まででも浸かって、温まって下さい」


 先代の言葉に山矢という男は、「かたじけない」と言い、母に案内されて風呂に向かった。


 私は谷中村長の家に電話をし、男が目を覚ましたこと、危険な人物ではなさそうなことを伝えた。谷中さんは安心した声を出し、明日顔を見に行く、と言った。そして、村民に連絡しておく、と言った。みんな心配しているから、と。私はこの村の人たちは本当に優しいな、と温かい気持ちになった。



 山矢と名乗る男は風呂から出ると、私の寝間着を来て出てきた。


「服まで貸していただくなんて、本当に申し訳ない」


 ぼさぼさだった髪は後ろに撫でつけてあり、切れ長の目が鋭い。無精ひげが渋く、思いのほか、男前であった。


「良かったら、一杯いかがですか?」


 先代が日本酒を出してきた。


「かたじけない」


 山矢は腰をおろし、グラスを受け取る。


「山矢さんと言ったね。傷は痛みませんか?」

「はい。ありがとうございます。おかげさまで、大丈夫そうです」


 私も自分のグラスを持ってきて、手酌で日本酒を汲む。やはり気になることがあり、不躾かとも思ったが聞いてみることにした。


「不躾でしたらすみません。なぜ私どもの村で倒れてらしたんですか?」


 山矢はグラスの中を眺めてから少し口をつけ、ぼそっと語りだした。


「ある男と、闘っていたのです」


 大型の獣にでもやられたような傷であったが、闘った相手は人間なのか。ならば武器を使ったのか。


「私にこの傷をつけた男は、荒草あらくさといいます」


 少し黙ってグラスを両手で包むように持って、再び口を開く。


「荒草は、私の古い友人でした。もう、どれほど月日が経ったかわからないほど、昔の話です。私と荒草は同郷で、古い仲です。しかし、今ではお互いを傷つけあうような、因縁の仲になってしまいました」


 どう見ても、私より少し年下に見える男だが、昔とはいつのことなのだろう。


「私たちの育った村では、千年に一度、鬼が出ると言い伝えられていました。鬼が出るなんて、迷信かと思いますよね。でも、私たちの村では、本当に鬼が出ると信じられていたのです」


 先代が頷く。


「よくわかりますよ。私たちの住むこの山神村も、不思議な土地です。山にお住まいの山神様という神様を、村民は皆、信仰しております」

「そうですか。だから、私のことも救ってくださったんですね。普通でしたら、恐ろしくて近付けないような傷だったはずですから」


 山矢はまた酒で口を湿らせ、話し出す。


「荒草には、年の離れた妹がいました。私のことも慕ってくれて、かわいらしい純粋な子でした。それが、あろうことか、千年に一度の鬼の出る日に、山で行方不明になりました。そこは、私が夜警していた山だったのです。荒草の妹が行方をくらませたとき、私は村の女の帰路を見守っているときでした。鬼は若い女をさらうと言い伝えられていたので、村の女たちの出歩くときは、誰か男が用心棒についていました。ちょうど、荒草の妹と、私が付き添っていた女は、同じ時刻に出歩いていたのです。私は、荒草の妹が出歩いていることを知りませんでした。しかし、私の夜警担当の山で、妹のかんざしが見つかりました」


 無表情で淡々と語っていた山矢が、少しだけ、苦いものを無理に飲み下すような顔をした。


「荒草は、妹を三日三晩探し回り、それでも見つけられず、矛先は私へ向けられました。奴は私を恨んだ。怒りの化身となり、感情に飲み込まれ、奴は化け物になりました。私が三十五歳のときです。初めて荒草に襲われました。奴は獣のような大きな鉤爪を持った化け物になっていました。そのとき、自分は死んだと思いました。しかし、防御した私の腕が、奴の首をはねたのです。私も自分の知らぬうちに、化け物になっていたのです。私は生まれ育った村を出ました。そこから、私と荒草はなぜか年をとらなくなりました。何かしらの代償か、罰なのでしょう。そうして三年に一度、荒草は蘇り、私を襲いに来る。私は返り討ちにする。ただその繰り返しの、地獄のような年月です」


 感情の読み取れない濁った瞳で語る山矢は、酒に口をつけて続ける。


「今年が、また荒草と闘う年でした。ほぼ相討ちだったので、私は今度こそ自分が死んだかと思っていました。意識が朦朧としたまま山を歩き、あなたがたの村に辿り着いたのは偶然です。大変ご迷惑をおかけいたしました。死に損ないの流浪の身です」


 そうして山矢はまた頭を下げた。


「山矢さん、あなたの過去はわかりました。お辛いこともあったでしょう。でも、生き残った命、生かされている命、大事にしてさしあげてもいいのではないですか」


 先代の言葉に山矢は項垂れる。


「荒草の妹と年の頃の近い、若い女を助けることで、罪滅ぼしをしているつもりでした。流浪の身ですが、道中、困っている女には何か手助けをしながら生きて参りました。そんなことをしたところで、妹は戻ってこない。その私の行為が、荒草を余計腹立たせているようです」

「それは、荒草という方や妹さんへの罪滅ぼしではなく、山矢さんご自身の後悔への罪滅ぼしでしょうかね」


 先代の言葉に、山矢は顔をあげた。


「──そうか。そうだったんですね。私は、自分の後悔を減らすために生きてきたのか」


 グラスを両手で握り、山矢は言った。


「それは悪いことではありませんよ。ご自身の後悔に区切りがつくまで、十分に誰かの力になりながら生きていけばいいのです」

「痛み入ります」

「今日はお疲れでしょう。もう休みましょうか」


 先代は話を切り上げ、立ち上がった。


「傷が良くなるまで村にいていただいて大丈夫です。これも何かのご縁です。ゆっくりして行ってください」


 そういって先代は風呂に向かった。


「あなたのお父様は素晴らしいお人ですね」


 山矢に言われ、私は誇らしい気持ちになった。


「はい。私も尊敬しています」


 その言葉に、山矢が一瞬だけ、ふっと穏やかな顔をしたように見えた。




 翌朝、朝飯を食べていると息子の正治まさはるがぴょこんと顔を出した。山矢がどんな男かわからなかったので、昨日は会わせていなかったのだ。正治は気になって仕方なかったらしく、興味津々の顔である。


「山矢さん、息子の正治です」


 私は息子を山矢に紹介する。


「息子さんがいらしたんですね」

「ほら、正治、ご挨拶をしなさい」

「おはようございます。正治といいます」

「おはようございます。山矢といいます」


 お互い挨拶を済ませると、正治は元来の人見知りを発揮し、またどこかへ逃げていってしまった。


「すみません、落ち着きのない子で」

「いいえ、利発そうなお子さんだ」


 山矢はまた母と妻の作った朝飯を大量に食べ、傷の癒しをはかっているようだった。


 食後の茶を飲んでいると境内のほうが騒がしい。何かと思って見に行くと、谷中村長を始め、村民たちが寺に集まってきていた。


「住職さん、おはようございます。昨日の男は無事ですか?」

「はい、今ちょうど朝飯を終えたところです」

「それは良かった」


 そこへ山矢が顔を出す。村の女衆が「まあ!」と頬を染めたのがわかった。確かに、この村にはいないような男前だ。


「みなさん、昨日はありがとうございました。大変お世話になったようで」


 山矢が頭を下げる。


「いいんです、いいんです。この村はみんなで協力して生活しているんです。困っているときは、お互いさまです」


 谷中村長が声をかける。


「私を発見してくれた方と、傷を治療してくれた医者の先生にも挨拶をしたいのですが」


 山矢が言うと、集まっていた村民の中から松山さんと壺阪先生も出てきて、山矢は二人にも礼を言った。




 山矢の傷は、異常な早さで治癒した。壺阪先生も驚いていたが、ほんの数日で抜糸できるほどだった。傷が完治するまでの間も、痛そうな素振りはなく、意識を失っていた男とは思えなかった。村民の畑仕事や老人宅の力仕事など率先して手伝い、皆に慕われた。子供たちともよく遊び、度胸試しとされている高い岩からの川への飛び込みもあっさりと難なくこなし、子供たちから尊敬の目で見られた。


 無表情ではあるが、性根は優しいのであろう。私はこのまま山神村に住んでもらってもいいのではないかと思うようになった。




 傷が完治してしばらくした夕飯の席で山矢は、そろそろ村を出ると言った。村に来て、数週間が経っていた。


「いつまでもお世話になるわけにはいきません。また荒草は私のところに現れますし、村のみなさんに迷惑をかけるわけにはいきません」


 私は引き止めたかった。感情の読み取りにくい男だが、悪い男ではないと思っていたからだ。それどころか、私はこの男にかなり好感を持っていた。それは村民も同じだろう。村を離れるとなったら、皆寂しがる。


 しかし、先代は「わかりました」とすぐに了承した。


「流浪の身もよろしいですが、山矢さんが思う、人助けのできる仕事をなさったらいかがですか?」

「人助けの仕事、ですか?」

「はい。都会のほうに、この村の出身で今は板前をやっている男がいます。面倒見の良い男です。彼に、連絡をしておきます。何か仕事をして、困っている人の力になる。そんな生き方も、あるのではないでしょうか。この村は平和です。皆で協力して生活できています。でも、都会は孤独です。その分、困っている人は多いでしょう。あなたの力が役に立つ場所が、きっと見つかるはずです」

「そんな場所が見つかるでしょうか」

「はい。──ときどき、月の見えない暗い夜がありますよね?」

「月……ですか?」

「はい。月明りがなく、真っ暗で、心細い夜です。誰にでも、そんな夜があるものです。しかし、月は見えなくても、なくなってしまうことはありません。いつか必ず雲が晴れて、月光が道を照らしてくれることでしょう」


 先代の言葉に、山矢はすっと目を細め、頭を下げた。


 先代は、都会で板前をしている男の住所を山矢に渡した。


「えー! 山矢さん、どこか行っちゃうの?」


 一緒に暮らすうちにすっかり懐いていた正治が、寂しそうに駆け寄った。


「あぁ。自分の居場所を見つけてみるよ」

「山矢さんの居場所なら、この村でいいよ!」


 正治が駄々をこねるのを見て、山矢はほんの少し口角をあげて、ぽんと頭を撫でた。


「ここはあなたの故郷です。いつでもいらしてくださいね」


 先代はそう言って、山矢と握手を交わした。




 翌日、山矢が村を去ると知った村民たちが皆集まった。口々に寂しいと言い合ったが、山矢が新しい生き方を選択することを、止めるものはいなかった。


「山矢さん、いつでも帰ってきてくださいね。この村を、故郷と思ってください」


 谷中村長は、先代と同じ言葉を山矢に送った。


「ありがとうございます。本当にお世話になりました」


 すっきりと晴れた初冬の空のもと、旅立つ男の姿が小さくなっていく。山から吹く風が、心なしかいつもより柔らかく感じた。


 これは別れではなく、これから始まる彼の、長い人生の門出であった。





【おわり】

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