山矢探偵事務所シリーズ

秋谷りんこ

プロローグ:満開の白木蓮

 名前は歌子うたこ。私の一番の親友。毎日一緒に遊んでいる。とても仲良し。


 歌子は学校に行っていない。

 何歳かも知らない。

 歌子は私が住んでいる市営団地の、床下に住んでいる。


 歌子の住む床下には、玄関の外の、電気メーターが入っている鉄の扉から行く。


 鉄の扉は玄関の横にあって、鉄の扉を開けると、ひんやりと湿っていて冷たく暗い。土とカビのようなにおいだ。


 歌子のことはみんな知らないから、私はこっそり扉に入る。まわりに人が、特に大人がいないか確認する。大人たちは、自分が入ったことのない場所はすべて危険だと思っている。だから、扉の中も危ないという理由で、入っているのが見つかると怒られてしまう。だから、私はまわりをよく確認して、滑り込むようにこっそり扉に入る。


 扉を入ると、少し左に向かって下り坂になっている。電気メーターの下を潜って、少し左より。暗いし屈まないと歩けないし、足元が悪いから転ばないように注意が必要だ。ほんの数メートルほど歩くと、歌子の部屋につく。確認したことはないけれど、私の家の床下、たぶん台所の流しの下あたり。


 歌子は、いつも一人でいる。

 一人で、少し湿った土の上に座っている。


 黒いまっすぐなおかっぱ頭で、白いポロシャツ、臙脂色のスカート。色の白いきれいな女の子だ。


 歌子に初めて会ったのは、2年生になってすぐの春だった。それまで、歌子が家の床下に住んでいるなんて、私は全然知らなかった。



 もともと、電気メーターの入った鉄の扉は私の好奇心の対象であった。どうにかして、あの「危ない」扉の中を覗いてみたかった。



 その日は、何年かに一度なんて言われるほどの激しい春の嵐で、生暖かく荒々しい暴風雨が吹きつけ、学校は昼で早引きになっていた。母親は、自治会の「嵐対策」があるらしく、団地の人の集まりに出かけていた。それで私は一人で留守番をしていた。



 一人で留守番をする機会は少ない。それで、前から気になっていた電気メーターの扉の中覗いてみたくなった。


 私はゆっくりドアを開けて家の外に出た。強い暴風雨が一気にドアの隙間から吹き込む。

 周囲を確認した上で鉄の扉の取っ手に手をかけ、ひとつ大きな呼吸をし、ゆっくり扉を開けた。


 意外に広かった。中に入ると私一人立っていても余裕の広さだ。扉が背後でがちゃんと閉まると、中は一気に暗く静かになった。雨で髪や服が濡れたけど、あまり気にならなかった。激しい暴風雨は鉄の扉に阻まれ、遥か遠くの出来事のように、こもった音をさせているだけだ。どきどきした。危ないと言われている扉の中に入れたことが、ものすごい壮大な冒険のような気がした。


 急いでポケットから懐中電灯を出す。電池を交換していないせいか、光は薄ぼんやりだが仕方がない。まず、私はメーターを撫でた。外気は生暖かいのに、メーターはひんやりと冷たい。メーターはちょっと尊厳のあるものだった。覗きたくても覗けない。触りたくても触れない。遠い存在だった。そのメーターを撫でられて、私はすっかり満足した。



 しゃがみこんでメーターを潜ると、左に少し下っていけることがわかった。私は、勇敢な冒険家の気分で、背を屈めながら左へ下った。


 そこで、初めて歌子に会った。冷たい湿った土の上にペタンと座り、私をまっすぐに見ていた。私は、薄ぼんやりな光の中で歌子を見つけ、ぎょっとした。大人びた目。鋭い眼差し。本当にびっくりした。


「誰……?」


 思わず聞いた。ちょっと怖気づいていた。私の家の床下だから、私の家の続きだと思っていた。でも、知らない人がいるということは、私の家じゃないのかな。


「歌子」


 歌子はぽつんと名前を言った。


「かわいい名前」


私は当時「すみ」という自分の名前を気に入ってなかったため、「歌子」という響きの可愛らしさに魅せられてしまった。少し緊張と警戒がとけた。


「私は、純すみ。はじめまして」


 歌子は私を見つめて、ゆっくり微笑んだ。その笑顔はとても愛らしくて、私は歌子と仲良くなれそうな気がした。


「すみちゃん、よろしくね」


 その日から、私と歌子は友達になった。




 歌子とは、人形遊びをしたり、私の知らない数え歌を教えてもらったり、歌子の知らないテレビアニメの話をしたりして、多くの時間を一緒に過ごした。私がおやつを持っていくこともあって、歌子は珍しそうに眺めたあとに、少しずつ食べた。美味しい、と言って、照れたように微笑んだ。



 歌子と外に出て遊ぶことはなかった。私も、元々外で走り回るようなタイプの子供ではなかったが、時々は団地の公園へ行くことがあった。

小さな公園だけれどブランコなどの遊具があるし、公園の真ん中にそびえ立つ白木蓮の木が好きだった。春には、白く柔らかい花びらを大きく開き、雄大に咲き誇る、上品で美しい光景だ。私は歌子にブランコの楽しさや白木蓮の美しさを説明して誘ったが、歌子は床下を出ようとはしなかった。




 歌子には家族がいなかった。いつもひとりで、暗い部屋で過ごしていた。私以外に友達がいる様子もなく、いつもひとりだった。


「歌子ちゃんは、家族はいないの? お父さんとかお母さんとか、兄弟は?」


「いないよ。すみちゃんは、お父さんやお母さんがいて、いいね。私は、ひとりなんだ」と、寂しそうに言った。


「じゃあ、私の家に遊びにおいでよ。お父さんもお母さんも、きっと喜んで、歌子ちゃんをもうひとりの娘みたいに思ってくれるよ!」


 私の思いは本心。



 私の両親は、私しか子供が生まれなかったことを寂しがっているように思えた。妹か弟ができる前に、お母さんが病気になってしまい、赤ちゃんが作れなくなってしまった、と両親に聞いていた。だから、すみはひとりっこだけど、寂しがらないでね。



 お母さんの病気が良くなったのなら、私は弟や妹がいなくても良かった。でも、歌子のような友達が、姉妹のように家にいてくれるなら、それはやはり嬉しいことだと思った。


「ありがとう。でも、すみちゃんのお父さんとお母さんには、私のことは話さないほうがいいよ」


 歌子は、悲しそうに言った。悲しそうで真剣な表情だった。


「歌子ちゃんが、うちの床下に勝手に住んでるから、怒られると思っているの?それなら、許してくれるって。うちのお父さんもお母さんも、ああ見えて結構優しいんだよ」


 歌子は、何も言わずに微笑んだ。そして、「私は、すみちゃんが遊びに来てくれるから、寂しくないよ」と言った。




 そうやって毎日のように歌子と遊んだ日々は本当に楽しかった。




 3年生の冬に、引っ越すことになった。父の仕事の関係で転勤が多く、数年おきに引っ越す事情があった。


 学校では、お別れ会をやってくれたけど、私はそれよりも早く歌子に会いに行きたかった。歌子にはまだ引っ越すことを言えずにいる。本当に別れるのが寂しい人には、なかなか打ち明けられずにいるものだ。


 クラスのお別れ会は、あまりおもしろくなかった。別に仲良くなかったユキちゃんがお別れの手紙を読んでくれて、何回か悪口を言ってきたミオちゃんがお花とみんなが書いた色紙をくれた。でも、なんかとても表面的で、こういう場面ではちょっとくらい泣いたほうがいいのかな、と思ってやってみたけど、うまくいかなくて、ちょっとしかめ面になってしまった。


 木枯らしが吹き荒ぶ、寒い日。空気は冷たく乾燥して、鼻の粘膜が痛い。


 学校から急いで帰って、ランドセルを置くなり、私は歌子の部屋に走った。いつもより急いでまわりを見渡して、急いで扉を開けた。左少し下りを行くと、歌子はいつものように土にペタンを座って、人形で遊んでいた。


 私を見て、歌子は「もうすぐお別れなのかな?」と言った。どうして知っているのか不思議に思ったが、私は黙って頷いた。


 ふふっと微笑むと歌子は、立ち上がって私の手をとり、出口のほうへ歩いて行った。床下から出たことはなかったので、とても驚いたが、歌子は私の手をひいたまま扉を開け、団地の廊下へ出た。


「あぁ、久しぶり」


 歌子は大きく深呼吸をすると独り言のようにつぶやく。


 冷たく乾燥した風が歌子の髪をなびかせる。あいかわらずポロシャツ一枚で、この季節にしてはどう考えても薄着なのだが、歌子は寒くなさそうだった。


「すみちゃん、前に話してくれた、公園に連れていってくれる?」


 歌子は私のほうを振り返り、楽しそうに言った。


「いいよ。いいけど、こんな寒い日に行ってもあんまりおもしろくないよ?」


 私が公園を好きな理由はブランコと白木蓮だ。木枯らし吹き荒ぶ真冬の公園は、その両方とも、楽しめない。


「いいから、いいから」


 珍しくはしゃぐ様子の歌子に少し戸惑いながらも、私は歌子を公園に案内した。




 公園は、全く人の気配がなかった。学校帰りの同級生たちもいない。ベンチで鳩に餌をあげるおじいさんもいない。冷たく乾燥した荒涼とした景色。



 歌子は公園の真ん中に生えている白木蓮の木に近寄った。


「すみちゃんが好きな木はこれ?」


「……そうだけど、木が好きなんじゃなくて花が好きなんだ」


「ふーん。そうだよね」


 歌子は、花のついていない細く伸びた枝を見上げると、今度は木の幹を見つめ両手をあてた。私も真似してみる。表面は冷たく湿っていて、春の白木蓮とは全く違う。

 私は冷たくなった手を離し、ポケットに突っ込む。歌子はそれでもまだ、木の幹に両手を当てて、じっと幹を見つめている。


「歌子ちゃん?」


 不気味なほど真剣な眼差しに戸惑う。歌子は何をしているのだろう?




 すると、ゆっくりゆっくり視界が明るくなっていった。何年か前に家族で初日の出を見に行ったときみたいだ。少しずつ少しずつ、空全体が明るくなる感じ。

 そして、上品で甘い香りを感じた。戸惑い、あたりを見渡す私は、その変化の正体に気付いた。


 目の前の白木蓮が、どんどん咲いているのだ。私は驚いた。冷たく枯れたような風貌だった枝に、いつのまにか花が咲いている。


「すごい! 歌子ちゃんすごいよ! お花が咲いてる!」


 いつの間にか冷たい木枯らしは止んでいた。ほんのり暖かくて、陽だまりのように優しい空気だ。


 歌子は相変わらず幹に手を当てて真剣な様子だ。

 幹はみずみずしく潤い、蕾は次から次へとどんどん芽吹き、白く柔らかく大きな花びらを広げていく。みるみるうちに、白木蓮は満開になった。



 歌子は幹から手を離し、嬉しそうに笑いながら私を見て「お礼だよ」と言った。


「仲良くしてくれたお礼。すみちゃん、今までありがとう。一緒に遊んでくれてすごく嬉しかった。離れていても、友達だよ」


 私は嬉しくなって頷いた。


「私も歌子ちゃんと友達になれて本当に嬉しい!」


 二人のまわりだけ、すっかり春だった。


 暖かい日差しに包まれ、私と歌子は微笑みあった。雄大に咲き誇る満開の白木蓮が優しい春風に揺れ、何枚か花びらを散らした。



【おわり】

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