第46話 平穏な日常と変革期

 マノンさんが去って以降、私はベンノさんから本格的に言葉を勉強するようになった。それとともに侍女さんたちが競って楽しそうに言葉を教えてくれる。お菓子をくれた侍女さんとも誤解が解けて、良好な関係を築けていると思う。私のためにと作ってくれたお菓子は本当に美味しかった。


 ベンノさんは私に言葉を教えるけれど、屋敷内で通訳はしないと断言されていたものの、侍女さんたちに詰め寄られ押し切られて何度か通訳してくれたことがあった。その中で、怪我をした日に付き添って眠ってくださったのは初夜ではなかったことが発覚した。

 てっきりあの日が初夜だと思っていたので、ほんの少し衝撃だったし、がっかりもした。当然ながら、マノンさんが去った夜に付き添っていただいたことも初夜ではないとのこと。その後は特にないと答えると、頬に手をやり、口に手をやり、眉を落とした侍女さんたちの間で様々な言葉が飛び交った。


 ベンノさんに尋ねてみると、レイヴァン様の誇りのために通訳することは控えさせていただきます、との回答で結局何なのか分からないままだった。


 またベンノさんが譲歩してくれたある日、胸が寂しい騒動以降、料理の味が元の濃さに戻ったことを疑問に思ったので料理長のヘルムートさんに尋ねるために厨房に行ったら、ミレイさんやルディーさんとちょうど居合わせた。


「あれはミレイに言われたんですよ」


 ヘルムートさんの回答はそれだった。


「どういうことだと尋ねるとミレイは、味をさらに薄くしてからのクリスタル様は、料理にご満足いただけていないようだからと言いました」


 胸を豊かに計画で新たな料理を作り始めた今なら味付けが変わっても、こういう料理なんだろうと納得されるだろうからと。もしその後、味について不満が出るようならば、その時はまた変更してほしいと。もし出ないならば、これまでの料理も徐々に戻していってほしいと。


「クリスタル様の微妙な表情を読み取っていたらしいですね。まあ、自分としても調味料は素材の味を引き出すものでもあるから、クリスタル様のご要望には首を傾げていたんですがね――ということだそうです」


 そう言ってベンノさんが通訳を終えた。

 私はいつもミレイさんに守られていた。周りを見渡さない私こそ自分で世界を狭めていたのだろう。


「ミレイさん、本当にありがとうございます」


 我ながら何度も使う言葉なら、少しずつ発音も良くなってきたと思う。


「いいえ」


 微笑むミレイさんの横で、ルディーさんは半目の呆れた表情になる。


「……クリスタル様はお心が広いですね。このまだ短い付き合いの中で、微妙な変化に気付くなんてどれだけ見守っていたんだっていう話になると思うんですけど――とのことです」


 と、ベンノさんが通訳してくれたので、私は重すぎる愛に感謝いたしますと返すと、ミレイさんは嬉しそうに笑い、ルディーさんはそれならば良かったですと顔を引きつらせた。


 分かりやすい悪意の塊ばかりを受けていた私は、見えない愛の形など分からなかったけれど、こういった静かな見守りも愛の一つなのだろうと知った。だから同時に、気付かない所で私はレイヴァン様からもたくさん頂いていたのだなと思った。



 怪我もすっかり癒えたある日の夕食後での歓談中だった。

 レイヴァン様は、近い内に休みを取るから街を案内しようと言ってくれた。所々グランテーレ語を交えて、ゆっくりと話してくださるレイヴァン様のお気持ちが嬉しい。

 一方、私の膝には刺繍途中のハンカチがのっているが、話しながらでは難しいのでほとんど手が止まってしまっている。


「まちに」


 グランテーレ国を出発し、サンティルノ国へ向けての旅の途中で宿屋に寄った時、視界を遮られるベール越しでも街の雰囲気に心が躍ったことを思い出す。いよいよ自分の目で見られるのだ。


「ありがとうございます、レイヴァン様。ぜひ」

「ああ。……あー。それと今夜だが」


 視線をずらし、どこかきまりが悪そうなレイヴァン様がそこまで口にされたその時。


「旦那様。お話し中、申し訳ございません」


 顔を引き締めたモーリスさんがサロンに入ってくると、足早にレイヴァン様に近寄った。厳しい表情から深刻な内容だと見て取れる。耳打ちされたレイヴァン様がわずかに目を見開き、私に視線を移した。


「どうかされたのですか?」

「グランテーレ国、フェルノという男が」


 フェルノと言えば、フェルノ騎士団長のことだろうか。私をこの国まで警備してくれた方だ。


「民のXXに立ちXX、つまりグランテーレ国で。たたかい。はじめた」

「――え!?」


 レイヴァン様が単語で切って説明してくれたところによると、フェルノ騎士団長が反乱を起こしたということらしい。

 マノンさんは王侯貴族は綺麗な衣を身にまとい贅沢三昧の一方で、民は身をやつし、貧困にあえいでいると言った。グランテーレ国の王族を憎んでいると言った。あれはきっとグランテーレ国の民の声。だからこれは起こるべくして起こったことなのだろう。静かにたぎっていたものが、今、顕著になったに違いない。

 無知は罪だとマノンさんが言った。ならば私もまた裁かれるべき立場なのだろう。

 私は震える手を握りしめる。


「馬鹿なことを考えるな」


 レイヴァン様の声にはっと顔を上げる。いつの間にか私はうつむいていたようだ。


「君は私の妻で、私は君の夫だ。悪いが私は君を守るイーエンがある」


 この言葉は怪我をした翌朝に言われたもの。レイヴァン様に私を守る義務があると言われたあの日、何となく重い気持ちになり、言葉が頭に残っていた。その後、ベンノさんに尋ねたらイーエンは権利という意味だと言われた。

 私を守るのは義務ではなく、権利だと。それを知ってとても嬉しかった。今もまた、義務ではなく権利だと言ってくれている。それならばレイヴァン様の妻である私はどうすべきか。


「はい」


 そう。私はレイヴァン様に守られる義務がある。その義務を執行させてもらう。

 レイヴァン様を真っすぐに見つめて頷いた。

 彼は頷いて一度笑みを見せたけれど、すぐにまた表情を引き締めた。


「グランテーレ国王がサンティルノ国にXXを、つまり、たすけをXXやって来た。クリスタルにも来てほしいそうだ。君はどうしたい?」


 グランテーレ国王が助けを求めにやって来た。つまりサンティルノ国から騎士を派遣してほしいという意味なのだろう。私をその場に呼ぶというのは。


「……まい、ります」


 私は刺繍途中のハンカチを側のテーブルに置くと立ち上がった。

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