第39話 悪意に対応する方法は

 窓の側に立っていたマノンさんが、レイヴァン様がお帰りになられたようですと教えてくれたので、私は慌てて、けれどゆっくりと窓に駆け寄って覗き込む。すると私の気配に気付いたのか、それとも私の姿を探すために窓を見上げたのか、レイヴァン様が視線を上げた。

 以前とは違って逃げることはない。むしろ目線が合って私は自然と笑みがこぼれ、軽く礼を取る。

 レイヴァン様もまた一度笑みを向けてくれた後、また正面を向いて屋敷内へと入っていった。

 間もなく部屋にノック音が響くので、今度は扉のほうへと向かった。開放された扉の先にいたのはレイヴァン様だ。


「ただいま」

「エふぁリスとライあー」


 私に笑顔を向けたのも束の間、彼は目をすがめた。

 疑問に思っていると答えてくれたのはマノンさんだ。


「大人しくしておけと言っただろうとおっしゃっています」

「エいちブーケ」


 大丈夫ですと伝えるも、レイヴァン様の表情は晴れない。私を抱き上げると、椅子に座らせる。


「私が着替えて戻ってくるまでここで座っているように、とのことです」

「シー」


 心配性なレイヴァン様に逆らわず、私は頷いた。



 戻ってきたレイヴァン様が、食堂に私を抱き上げて連れて行くと言う。


「今日は部屋の中で歩いておりましたし、大丈夫ですとお伝えください」


 マノンさんが伝え、その回答を受けて教えてくれたが、これまで学んだ単語で意味はだいたい分かった。君が大丈夫でも私が大丈夫ではない、ということだ。

 言い方が何だか可笑しくて私はお願いすることにした。もちろん恥ずかしかったけれどレイヴァン様の温もりに触れられる時間を大切にしたいから。


 夕食が終わり、部屋に戻された。少し休憩したところで湯浴みの準備をしてもらうことになった。同じ階にある浴室には、さすがにレイヴァン様の同行をお断りしたところ、彼はあっさりと身を引いた。ただし本日は湯浴みの手伝いに侍女を付けるということで、マノンさんの他にミレイさんが付けられてしまった。これでも減らしてもらったほうだ。


「浴槽に入りましたらお声をおかけください」

「はい。シー。――アミューマノン、入りました」


 脱衣して浴槽の縁につかまるようにして胸元を隠した。


「では失礼いたします」


 その言葉とともにマノンさんとミレイさんがカーテンの内側に入って来る。

 マノンさんはそれではとお湯に手を入れた。その様子を黙って見つめるミレイさんがいて、その視線を感じたのか、マノンさんは彼女を見つめ返した。妙な雰囲気だ。しかしその場を切るように、マノンさんが声を上げる。


「ではお背中から失礼いたしますね」


 お胸のほうは結構ですと、背中が終わったら絶対に言おうと思った。



 湯浴みが無事に終わって部屋に戻ると、鏡台の前でマノンさんが優しく髪を梳かしてくれた。


「やはりクリスタル様の髪はとても柔らかくて綺麗ですわ」

「ありがとうございます」


 最初、他愛も無い話をしていたけれど話が途切れた時、マノンさんはふと笑みを消した。


「クリスタル様、恐れながら……申し上げます」

「はい。何でしょうか」


 急に真剣な物言いになった彼女に、私も少なからず緊張が伝わる。


「昨日のことです」

「昨日の」

「ええ。階段を踏み外されたことは本当に……事故だったのですか? ご自分で足を踏み外されたという言葉に嘘偽りはございませんか」


 マノンさんが疑う通り、昨日の事故は自分で足を踏み外したものではない。以前、マノンさんに厨房へと軽く押し出された時の力とは比べものにならない、明確な悪意を持って背中を強く押された。誰かは分からないが、一つ言えることは私の存在が気に入らない人が確実にいるということ。


「お答えにならないということは、そうではなかった――ということでしょうか」


 鏡の中の私の表情はいつもと変わらずほとんど動いていないような気がするが、しばらく私の側で見てきた言動から何かを感じ取っているのだろう。


「どうしてそう思われるのですか」

「最近のことと言い、昨朝の洗顔時のことと言い、良からぬことが続いているではありませんか。それに今日も」

「今日も?」


 何かあっただろうか。

 私が首を傾げるとマノンさんははっと表情を改めたが、すぐにふっと諦めたように息を吐いた。


「クリスタル様は、ミレイさんにお湯の温度を上げてほしいとお願いしたと申されましたよね」

「ええ。ですから今日は温かくしていただきました」


 これまでと同じぐらいの快適な温かさだった。


「それは――私がお湯を追加したのです」

「マノンさんが?」

「はい。ミレイさんが湯浴みの準備をされた後に、念のためにと確かめてみましたところ、とても入れるような温かさではありませんでした。ですから私が直前にお湯を追加したのです」


 念のためにということは、マノンさんは、ミレイさんがかねてから悪意ある行動をしていると考えているようだ。


「不審に思うことは、ミレイさんが関わっているものが多すぎるのです」


 確かに料理の味が初めて変わった時も、洗顔時や湯浴みの時の水温も、そして宝石商さんが見えた時もすべてミレイさんが関わっている。私の部屋の内装に関しての指示はミレイさんによるものだと言うから、お花の件もそうかもしれない。けれど自分が一番に疑われるようなあからさまなことをするのだろうか。


「実は……ミレイさんは先の戦争で婚約を解消されたそうなのです。ご婚約者をそこで亡くされたのかもしれません」

「え?」


 思わず息を呑んだ。

 ならば私はミレイさんから憎まれる理由がある。私は元敵国のグランテーレ国の王女だから。


「聡明な方ですから、クリスタル様に非があるわけではないと頭ではお分かりでしょう。けれどそれでも感情が理性に勝って高ぶるものは……お持ちかと」


 ミレイさんは、むしろ私に分かるように悪意を見せたかったということだろうか。


「口止めされていたので、ずっとお話しできなかったのです。誠に申し訳ございません。ですがもっと大変なことになる前にお話ししたほうが良いと思ったのです」

「そう、ですか」

「クリスタル様、どうかミレイさんにはお気をつけてください。表情を理性で抑えることができる方です。けれどお心の中は計り知れません」


 誤解があった仲違いとは違う、一方的な悪意にどう対応すればいいのか、私には分からない。

 私の心を読んだようにマノンさんは続ける。


「その。レイヴァン様にお伝えすれば。何とか……していただけるのではないでしょうか」


 この屋敷にミレイさんいる限り、担当を外されても現状は変えられないだろう。つまりレイヴァン様にミレイさんの解雇をお願いする、ということになる。


「……分かりました。教えてくださってありがとうございました」


 私はすぐに返事できず、ただお礼を述べた。

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