第32話 言葉が通じなくても
マノンさんに湯浴みの準備ができたと呼ばれて浴室に向かった。今日はすでにミレイさんとルディーさんは準備を済ませて退室したらしい。その姿はない。
「クリスタル様、湯浴みのお手伝いをいたしましょうか」
いつも入浴は一人でおこなっているのに、今日に限ってそのようなことを言ったマノンさんを疑問に思う。
「いえ。大丈夫ですが、もしかして初夜だとお手伝いされるのが作法なのですか?」
「あ。いいえ。そういうわけではございませんが。……ご不安かと」
「いいえ? 一人で大丈夫です」
「そ、そうですよね。分かりました。ではいつものようにこちらで控えておりますので、何かありましたらお呼びください」
「はい」
私はカーテンの奥に進むと服を脱ぎ、浴槽に足を入れた。すると。
「――っ」
冷たくて入れないというわけではないけれど、お湯の温度がいつもと比べて低く感じる。
「クリスタル様? どうかなさいましたか?」
カーテン越しでも私の異変を感じたらしい。マノンさんが尋ねてきた。
「ええ。いつもよりお湯の温度が低いのです。入れないほどではないのですが」
「……少し失礼しても?」
「え、ああ。お待ちください」
私は浴槽から足を出すと体を拭くもので身を覆う。
「どうぞ」
「失礼いたします」
マノンさんはカーテンを開いて入って来ると、浴槽のお湯に手を入れて温度を確かめた。
「確かにお湯の温度がいつもより低いですね。もしかしたら私が今日は初夜ですとミレイさんたちにお伝えしたからかもしれません。ほら。クリスタル様が初日の入浴時にのぼせて倒れられたでしょう。今回はのぼせないようにという配慮かもしれません」
「そう、なのですか」
と思いたいですねと、マノンさんは視線を落として小声で呟く。
「マノンさん」
「あ、いえ。クリスタル様、熱いほうがよろしければ、追加でお湯を持ってまいりましょうか。水を沸かせるのに少しお時間を頂きますが」
「いえ。そうなるとレイヴァン様をお待たせすることになります。入れないほどの温度ではありませんからこれで入ります」
これまでが温かかっただけだ。そう思えばいい。
「……そうですか。分かりました。では、こうして話していてクリスタル様のお体が冷えてしまってはいけませんので、お話はここまでにいたしますね」
私は今布一枚でくるまれている状態だ。それを気遣ってくれたのだろう。
「ええ。お手間を取らせてごめんなさい」
「いいえ。とんでもないことですわ。では、こちらで控えておりますので」
そう言ってマノンさんはカーテンから出て行き、私は覆っていた布を脱ぐと浴槽に身を沈めた。
ぬるめのお湯は自身から体温を奪うほどではなかったけれど、物足りなさを感じてしまう。しっかり浸かっておかないと浴槽を出た時には寒さを感じるかもしれない。
お湯に浸かって手持ち無沙汰になると、マノンさんが呟いた、のぼせ対策だと思いたいですねの言葉が不意に思い返された。けれど、ぼんやり考えごとしている場合ではない。レイヴァン様をお待たせしているのだから。
私は手早く湯浴みを済ませると浴槽から出た。するとその気配を感じ取ったマノンさんが失礼してよろしいですかと尋ねてきた。了承すると失礼いたしますとカーテンを開ける。
「やはりあまり体を温めることができなかったようですね」
私の顔色を見てそう感じたらしいマノンさんは眉を落とした。
「ええ。そうですね。少し肌寒く感じます。明日からは元の温度に戻していただけるよう、ミレイさんに直接お願いいたしますので、言葉を教えていただけますか」
いつまでもマノンさんにお願いしてばかりではいけない。自分の言葉で伝えなければ。
「ええ! もちろんですわ! それではお体と髪を拭きながらご指導いたしましょう」
「はい。お願いいたします」
「では行ってまいります」
「はい、行ってらっしゃいませ」
初夜の準備を終えた私はレイヴァン様の部屋の扉を叩いた。すぐに反応があり、扉が開かれる。私の姿を見た彼は目を見開いた後、なぜか片手で頭を抱えていたが、中に引き入れてくれた。
以前一度中に招いてお話を聞いてくださった時は、周りに注意を払う余裕がなかったから気付かなかったけれど、彼の居室は飾りつけがないと言ってもいいぐらいの機能だけを重視した内装だった。私の部屋も控えめなほうだと思ったが、まだ内装を華やかにしていただいているぐらいだ。
私が部屋の中を観察している間に何かを手にしていたレイヴァン様は、私に渡してきた。受け取ってみるとそれはローブだった。薄手の寝衣を気遣ってくださったらしい。言われた通りに羽織るととても大きかったが、温もりとレイヴァン様の香りに包まれてほっとした。
ガウンを羽織ったところで、私はそのままソファーへと誘導される。
もしかして今日は初夜ではないのだろうか。しかし向かい合って話をするにはマノンさんがいないと困るのでは。
そんなことを考えていると、目の前のテーブルにカップが用意された。覗き込んでみるとそれはホットミルクだ。
驚きで顔を上げたところ、テーブルを挟んだ向かい側のソファーにレイヴァン様が座るのが目に入る。私はレイヴァン様とカップを交互に見ると彼は頷いた。
夕食時、私があまり食事を取らなかったことを気にして用意してくれたようだ。そのお気持ちがとても……嬉しい。
「エふぁリスとライあー、アむーるレイヴァン」
緩む唇でカップに口をつけると、冷えていた体の中に温もりが伝わってきた。
「美味シイか?」
その言葉に私はまたびっくりして顔を上げる。レイヴァン様がグランテーレ語を使って尋ねてくれたからだ。
「私ノ言葉、通じてイルか?」
「はい。通じています」
私もグランテーレ語で答えて頷いた後、自然と笑みがこぼれた。
「甘すぎナイか?」
「はい。ありがとうございます。とても――とても美味しいです」
「そウか。良カッた」
片言のレイヴァン様が何だか可愛らしくて、頬が緩みっぱなしになってしまう。
彼は最初、少し気まずそうな表情を浮かべていたものの、やがて私に応えるように笑みを浮かべた。
そのまま会話が難なく続くわけではなかったけれど、私たちは確かに穏やかな時間を共有できた。言葉が通じなくも、悪意や嫌悪という負の感情だけが伝わってくるわけではない。温もりや思いやりも伝わってくるのだと思った。
「ごちそうさまでした」
いつまでも続けばいいと思っていたこの場も、ホットミルクがなくなったことで終わりを告げる。レイヴァン様も少しは残念に思ってくれているだろうか。
そう思って視線を向けると、彼は立ち上がって私のほうに回ってきてソファーから立ち上がるよう促した。言われたまま立ち上がると彼は顎で部屋の奥を指し、私の手を取って歩き出す。
着いた先は扉の前だ。彼はその扉を開放し、手を引かれたまま中に入ると、そこは寝室だった。
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