第15話 サンティルノ語でご挨拶

 しばらくするとマノンさんが部屋に戻ってきた。


「お待たせいたしました、クリスタル様」

「もうお仕事のほうは大丈夫なのですか」


 私は椅子から立ち上がってマノンさんを迎えると、彼女はおかけくださいと手で椅子を示す。


「はい。大丈夫です」

「他の侍女の皆さんとの関係はいかがですか」

「今朝の侍女たちの集まりの中で、侍女長が私にクリスタル様へサンティルノ語をお教えするようにとの指示を下されましたから、皆さんにご理解いただけたと思います」


 わざわざ皆の前で指示してくれたのは、こちらの意図を理解して配慮してくださったということなのだろう。


「そうですか。良かったです」

「はい。ありがとうございます。――では早速、サンティルノ語講座を開始いたしましょうか。ただし、私は厳しい先生ですよ。指導する以上、遠慮なくビシバシ行かせていただきます!」


 言葉の指導に腕まくりする意味も無さそうだけれども、マノンさんは自分の腕に手を置く仕草を見せる。


「はい、先生。よろしくお願いいたします」


 悪戯っぽく片目を伏せて笑うマノンさんに私は強く頷く。


「はい。ではよろしくお願いいたします。本当は文字も一緒に学ぶことができたらいいのですが、まずは最優先事項の会話からですね。グランテーレ語の横に、耳で聞いたサンティルノ語の音をお書き留めなってはいかがでしょうか」


 マノンさんはペンと紙を机の上に用意してくれた。


「そうですね。そう致します」

「それでは簡単な受け答えから説明させていただきます。はいは、シー、いいえはナインです。どうぞ発音してみてください」

「はいは、シー。いいえは、ナイン」


 シーとナイン。

 特に発音しにくい音でもないので、これは簡単に習得できそうだ。


「そうです。では次に挨拶をご説明いたします。おはようございますは、オーディ・モーリーです。はい。発音してみてください」

「お、おーディ・もーリー」

「少しぎこちないですが、いいですね。ではもう一度」

「おーディ・もーリー」

「はい。いいですよ。では書き留めておかれますか?」

「はい」


 私は、おはようと書いたグランテーレ語の横にその音を書き留めた。


「では次にこんにちはは、オーディ・ノーンです」

「おーディは一緒なのですね」

「ええ。おはよう、こんにちは、こんばんはの前に全て付きますよ」

「そうですか。おーディ・ノーンは、こんにちは」

「はい、そうです。こんばんはオーディ・ジーントになります」


 続けてお昼、夜の挨拶を書き留める。


「これらは目上の人でも目下の人でも使える挨拶です。ただ、王族の方に向けてのご挨拶ではないのでご注意を。それでは今の三つの挨拶を言ってみましょう」

「はい」


 私はメモを見ないで朝昼夜の挨拶を続けざまに言ってみた。


「いいですね、いいですね。飲み込みが早いですよ。では他の言葉もどんどん学んでいきましょう。特に今必要な言葉がいいですよね。ええと。何がいいかしら」

「では、ありがとうございますと、申し訳ありませんをお願いいたします」


 顎に手を当てて考えるマノンさんに提案してみる。


「なぜですか?」

「皆さんにご迷惑をおかけしているのに、ご挨拶できていないからです」


 するとマノンさんはくすりと笑った。


「クリスタル様ったら、本当にお優しい方ですね。ですが女主人ともあろう者がたやすく謝罪の言葉を出してはいけません」

「そう、なのですか?」

「ええ。ここはそういう文化ですから。けれどレイヴァン様には必要になることもございましょうから、お教えいたしましょう。ありがとうございますは、エファリストライヤー。親しい人に軽く言うありがとうの場合は、エファリストです。もっと砕けるとエファーなんて言う人もいます。申し訳ありませんは、スキューズモアです。砕けた言い方はスキューです」

「エふぁリスとライあー、エふぁリスとライあー。スきゅーズモあ、スきゅーズモあ」


 復唱しながら私は書き留める。


「ではもう一つ。レイヴァン様をお迎えする言葉と、お見送りする言葉をお教えください」


 昨夜も今朝も私はただ礼を取るだけで、ご挨拶をしていなかった。まずはそのご挨拶をしたい。


「承知いたしました。ではお帰りなさいませは――」


 私はマノンさんの言葉を何度も復唱した。



「クリスタル様、レイヴァン様がお帰りになられました! 本日の成果を見せる時ですよ!」

「はい」


 レイヴァン様の帰りを窓から確認したマノンさんとともに、玄関へと急ぐ。そこにはすでに侍従さんと侍女さんたちが男女別れて両脇に整列していた。

 モーリスさんとローザさんの姿は見えないので外で待機しているのかもしれない。

 私はどの場所でお出迎えすればよいのか分からず、また、私の微妙な立場を心得ているマノンさんも眉を落として首を振るばかりだった。仕方がないので侍女さんの最後尾に並ぶと、その侍女さんは一瞬ぎょっとしたように私を見たが、慌てて顔を前に戻した。


 扉が開かれ、レイヴァン様がその姿を見せた。コティーンマイヤー、つまり、お帰りなさいませと侍従さんと侍女さんが礼を取り、レイヴァン様が軽く頷きながら廊下の中央を歩き始める。


 サンティルノ語でお帰りなさいませとお迎えすることがマノンさんから出された今日の課題だ。

 何度も何度もマノンさんと練習した。コティーンマイヤー、コティーンマイヤー。


 そしてついにレイヴァン様が私のすぐ横の侍女さんの元まで近付いて来た。私は意を決して前に一歩出ると、私の姿を認めた彼が足を止める。私はそのまま一礼を取って顔を上げた。


「コ、コてぃーンまイヤー」


 緊張して少しどもってしまったけれど、ちゃんと噛まずに言えた。

 レイヴァン様は一瞬、意表を突かれたような表情をしたものの、何か一言呟きながら頷く。

 ほっとした私は続いてレイヴァン様の名を呼ぼうと口を開いた。敬称はマノンさんから習ったものではない。ミレイさんが私の名を呼んだ時に覚えたものだ。マノンさんを驚かせたい気持ちもあった。だから――。


「アめーすレイヴァン」


 呼びかけるとレイヴァン様が目を見開いて硬直してしまったのを見て、私がびっくりしてしまった。

 何か間違ったことを言ってしまったのかと青ざめてマノンさんに振り返ると、彼女はもちろんのこと、侍女さんや侍従さんたちまで表情が固まっている。

 どうやらとんでもない間違いをしたらしい。……一体何を言ってしまったのだろう。

 誰もが動けなかった中。


 ――ゴホンッ。


 凍り付いた場に一つの咳払いが上がった。すると我に返ったマノンさんは私にそっと声をかける。


「ク、クリスタル様。恐れながら申し上げます。アメースは――じょ、女性につける敬称でして、男性につける敬称はアムールでございます」

「え」


 少し申し訳なさげに訂正を入れたマノンさんの言葉に、ひゅうと喉が鳴った。頭が真っ白になり、今度は私が固まる。


「そ、だったのですか……。申し、訳ありません」


 何とか言葉を絞り出したものの、せっかく覚えたはずの謝罪の言葉は当然ながら出てこなかった。

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