第8話 温もりに包まれていたい

「クリスタル様、初日しては上出来ですわ! これからです、これから。大丈夫です。レイヴァン様も分かってくださっています」


 部屋に戻って、ただ沈黙していた私をマノンさんは明るく慰めてくれる。

 あの後、レイヴァン様がお食事を終えるまで私もそのまま同席していた。男性だからなのか、あるいは私を待たせているという無言の圧力を感じられたのかは分からないものの、レイヴァン様はただ黙々と飲み込むように食事をするばかりで特に盛り上がる会話もなく進行された。結果、食事会が予想以上に芳しくないものとなってしまったのだ。


「そうでしょうか」

「ええ。初めてですもの。緊張もなさっていたのでしょう? レイヴァン様からは長旅で疲れているだろうから、ゆっくり休んでほしいとのお言葉を頂いております」

「……ええ。ありがたいお気遣いです」


 もちろん長旅に疲れてはいる。けれど自分が歓迎されていないことや、見知らぬ人々に囲まれていること、言葉が分からないこと、また慣れぬ部屋で眠れそうにない。


「湯浴みいたしましょう。体が温まれば気持ちも落ち着きますよ。私は湯浴みの準備をお願いしてきますね」

「マノンさん、ありがとうございます」


 お礼を述べると笑顔のマノンさんは部屋から出ていった。

 最後に湯浴みしたのは、サンティルノ国に入る手前の小さな町だ。先を急ぐ旅とは言え、グランテーレ国の王女が薄汚れた姿では体裁が悪いとのことで、ほんの少しの時間、湯浴みと着替えのために寄ることになった。


 そういえば、あの時もパウラは長居できないことに愚痴を言っていたなと思い出す。今日別れたばかりなのに、もう彼女や護衛騎士のことは過去になっていることを不思議にも思う。人は過去には生きられない。ただ前を向いて未来に歩いていくのみなのだ。

 そこまで考えたところで部屋の扉がノックされた。


「失礼いたします、クリスタル様。湯浴みの準備はできていたそうです。浴室にご案内いたします」


 マノンさんも今日ここに初めて来たばかりなのに、もう部屋の配置を記憶しているらしい。広い屋敷なのに迷いなく私を先導してくれた。


「さあ、こちらです」


 彼女が開けた扉の先にはミレイさんと、もう一人紹介を受けていない若い侍女さんがいた。彼女の名はルディーと言うらしい。私の姿を認めると二人は静かに礼を取る。

 彼女らの背後に仕切りのための厚みのあるカーテンがかけられている。その奥が浴槽かもしれない。


「……あの。彼女らは?」

「私とともにクリスタル様のご入浴のお手伝いをいたします」

「え? この国では一人で入浴しないものなのですか?」

「いいえ。もちろん一人で入浴いたしますよ」


 ミレイさんはくすくすと笑って続ける。


「クリスタル様はグランテーレ国の王女様でいらっしゃいますから、身の回りのお世話をさせていただくのは当然ですわ」

「い、いえ。わたくしは一人で入れますから結構です」

「ですがそれは」

「本当に大丈夫です」


 固辞するとかしこまりましたとマノンさんは頷き、ミレイさんとルディーさんに伝えてくれた。ルディーさんは少し眉をひそめながらこちらを見たけれど、ミレイさんに促されて退出する。

 そういえば私物は検められた後、部屋に運び込まれたけれど私自身はいまだ身体検査を受けていない。もしかしたら私が何か危険な物を身に付けていないか確認するよう、指示を受けていたのかもしれない。


「クリスタル様、服を脱がれましたら籠に入れてこちらへ押し出してください。私はカーテンの外側に控えておりますので」

「分かりました。ありがとうございます」


 私は素早く脱衣して籠をカーテンの外に出すと浴槽に身を沈ませる。

 お湯からは甘い匂いが香り立っているところから、香料を入れてくれているのかもしれない。体が優しい温もりで包まれると硬くなっていた心も体もほぐれていくようだ。


「クリスタル様、お湯加減はいかがでしょうか」


 マノンさんのこちらを窺う声が聞こえてきた。


「ありがとうございます。大丈夫です」

「そうですか。良かったです。何かご用がありましたらお声がけください」

「はい。分かりました」


 カーテンの外では動きがあったようだ。わずかに軋んだ扉が開く音が聞こえたところから、私が脱いだ服は外に出されたらしい。洗濯のためか、検めるためか。

 検められても仕方がないこと。元敵国の王女が自分の領域に入ってきたのだから。まして敗戦国から半ば強引に押しつけられた捧げものだ。警戒しないわけがない。

 そんなことを馬車での道中、パウラに嬉々として教えられた。


 彼女は良くも悪くも自分の欲望に素直で、皮肉や愚痴もよく漏らしていたけれど、あの子のおかげで何だかんだ賑やかな旅になった気がする。帰りはどこかの町で思う存分湯浴みして、ゆっくり休むことができるのだろうか。それとも先を急ぐからとなだめられて愚痴を言いながらも従うのだろうか。

 仮にそうだとしても彼女は故郷に向かっているのだ。彼女には帰る場所があって、待ってくれている人がいる。


 一方、私にはもう帰る場所がない。だからきっと私はこの地に身をうずめることになるのだろう。だとしたら私はここでどうやって生きていくのだろうか。今度は人から何を求められて生きていくのだろうか。


 ――私はあなた様が、クリスタル王女殿下がいつか笑顔で心豊かに過ごせる日々が来ることを切にお祈りしております。


 不意にフェルノ騎士団長の言葉が思い出された。

 彼が願ってくれたのはただ生きることではなく、私が笑顔で心豊かに過ごせることだ。もしかしたらここでなら知ることができるかもしれない。触れられるかもしれない。求められるのではなく、求めていく。彼の願いであり私の望みが叶うかもしれない。

 この気持ちは期待からなのか、不安からなのか、胸がとくとくと高鳴る。


「……あの。クリスタル様、そろそろお上がりになられたほうがよろしいかと」


 遠慮がちにマノンさんから声をかけられる。


「いえ。もう少し」


 もう少しだけ、この夢見るような優しい温もりに包まれていたい。あともう少しだけこの温もりに――。


「クリスタル様? クリスタル様、失礼いたしますよ! ――クリスタル様! 誰か、誰か!」


 慌てたようなマノンさんの声がゆっくりと小さくなって消え行った。

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