陶酔と狂乱⑤
少女趣味なパジャマや、化粧を落としたあどけない面立ちなど、今はどうでもいい。
問題は――当て放たれた直後に発せられた、藤原紫貴と同じ濃密な匂いだ。
「ヤマト、吸血鬼の『変質』が分かったわ」
被っていた猫をかなぐり捨てて、咲弥は俺に言う。
「匂いによる魅了……要はフェロモンって奴。汗腺で『全身変質』タイプね」
フェロモン。
簡単に言えば、体内で生成された後、体外に分泌、別個体に受容され、なんらかの影響を及ぼす物質のことだ。
「どうして自殺者が出るまで発覚が遅れたのか、これでハッキリしたな」
『変質』がどのタイミングで発生したかにもよるが、岩倉女学院に通っていて、日々の食事に困るようなことはないはず。『変質』によってフェロモンを手に入れてからは、至極簡単。織田澪子、藤原紫貴……彼女達を魅了し、ごく少量ずつ捕食、もとい血を吸っていたのだ。
「女の園が笑えるわ。蜜滴る花を
学校という閉ざされた箱庭の中、慎重に行えばうまくいく。そしてフェロモンに快楽物質が含まれていれば、口封じも兼ねられるだろう。
「もう一度問うわ――」
ガタガタと恐怖に
「――誰が吸血鬼なの?」
その姿は、まさしく本当の鬼のよう。
「い、言えない……っ!」
「言えるんじゃないかしら」
「!」
ひと際大きく肩を震わせる様は、言外に「言える」と白状しているようなものだった。
「藤原紫貴は自身が不利益を
そう、自殺した遠野綿花だ。
「なんでだと思う? ……フェロモンによる洗脳も完璧じゃない、ということよ」
遠野綿花は特例だった。
そして特例には、必ず理由がある――仕事で防音室を使うため、俺に掃除除外の特例を言ってきた、草薙さんのように。
「遠野綿花がこの特例かは分からないけど、一つ仮定があるわ」
それは時間よ、と指を一本立てた咲弥は言った。
「百年の恋も冷めるとは言うけど、薬だって効果は永遠じゃない。特に、何日も学校にいかず、ここに引きこもってるキミに、フェロモンの効果が残留しているとは思えないわね」
「…………っ」
「さてさて! ここで一つ、クイズでーっす!」
言葉を詰まらせる織田澪子を、咲弥は更に追及する。
「かけた洗脳が解けていると気づいた吸血鬼さんが、キミに辿り着くのは……あと何日でしょうか?」
「は、」
「もうそろそろ仮病でごまかすのも限界がくるでしょうね。たとえキミが吸血鬼に心酔しているとしても、洗脳するような相手が信じてくれるとは思えないわ」
カーテンの境界を越え、ベッドへとにじり寄る。
「そしたら……いつまで時間稼ぎできるかしら?」
「ひっ!」
そのまま退路を失って逃げ腰になった織田澪子を、壁際へと追い詰めた。
「明日?」
右脇、
「明後日?」
左脇、
「もしかすると、もう……そこまで来てるかもしれないわね」
腕は柱、髪は天蓋。
聖堂となって、無力な少女を
「聞いてないかしら? 吸血鬼は、藤原紫貴をまともな足場のないマンションの三階まで連れて行ったって。それぐらいの腕力があったら、両手にすっぽり収まるキミの首なんて、花みたいに手折れるかもしれないわね――こんなふうに」
咲弥は少女の細い首筋に手を添える。決して力は入れず、ひたりと。しかし秋風で冷えた手のひらは、ナイフのように命を奪う温度だろう。爛々とぎらつく赤い瞳に魅入られて、
触らぬ神に祟りなし――否、触らぬ鬼に祟りなし。
病で生じた吸血鬼など紛い物だと言わんばかりに、本物の鬼がそこにいた。
「いい加減にしろお前」
「あいだっ!?」
笑止千万。
そんなものなどいやしない。
ここにいるのは、鬼頭咲弥。
ただちょっと頭のおかしい少女だけだ。
「だからって殴ることはないじゃない!」
「身内がクラスメイト恐喝してるのを見過ごすほど、俺も根が腐っちゃいないんでね……おら、帰るぞ。用は済んだだろ」
既に毒気を抜かれたのか、引きずる咲弥はといえば、ぶつくさ文句を垂れている。
曰く、女子高生の頭を問答無用でブッ叩く三十路男とか論外よ論外。世が世なら死刑ね絶対。
曰く、こんなにも恐ろしい蛮行に及ぶ奴は絶対に人間ではないわ何色の血かしら。お前にだけは絶ッ対に言われたくない。
「ま……待って!」
そんな俺達を引き留める声があった。織田澪子だ。
「話す、話すから……吸血鬼の正体を……」
「……本当か?」
疑念からではなく、耳を疑って聞き返してみれば、必死に頷く誠実さがそこにはあった。先程までのこれで、嘘を吐く胆力があるとは思えない。
そうして聞いた名前に、俺は首を傾げ、咲弥はニマニマと人の悪い笑みを浮かべ――俺達の吸血鬼探しは最終局面を迎えることとなった。
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