迷い子には花束を

 ダリはやはり、盛況だ。

 この頃、港町ダリでは梅祭りというのを連日やっている。緯度が低く、天候も良好なダリでは1月上旬には梅の花が咲く。この街の人々にとっては春の到来を合図する自然現象であり、誰もが路上に出て喜びを分かち合う。やがて、明るいうちから酒を飲み、踊り狂う梅祭りなる習俗へと変化していったのであろう。

 ただ、ダリは治安がひどく悪い。王国は皇帝の善政が行き届いて領内はそのほとんどが平穏で豊かだが、この街は数少ない例外である。

 理由の最たるものは、奴隷貿易の拠点であるからだ。

 ダリ港の最大の交易相手は北方のバブルイスク連邦領ミンスク港で、南北に長大な海上交易路を接続させて、活発な取引を行っている。商品は食料や酒、絹や綿などの繊維品、未加工の金属、生きた家畜、王国産の陶磁器や連邦産のガラスといった一般的な品目が多いが、生身の人間を貨物として積載することもある。

 背景はさまざまで、例えば連邦国内の権力闘争に敗れた政治犯が亡命者として王国に逃れてきたり、単に旅客船に乗る金がないために格安もしくは無賃で貨物にまぎれていたりする。そのなかで最も多いのは、王国から連邦に奴隷として売り飛ばされる者たちである。

 王国は北部と王都トゥムル周辺までは実りもよく豊かだが、南部は半ば未開の地で、貧しい人も多い。スミンの生まれ育ったカンヌン村もそうである。その南部地域の東端に位置するのがダリ港で、都会であるだけに、近隣から貧民が流れ込んでくることが多い。しかもそうした貧しい連中のなかには、我が子を奴隷として売ることで自ら食いつなごうとするやからまで交じっている。結果、この港町は慢性的に治安が悪い。辻々には人を売り買いするいわばブローカーが立ち並んで、まるで牛馬をりにかけるように値がつけられている。

 人身売買の目的も色々ある。まずは性的奴隷であり、次に連邦の鉱山や漁船で働かせるための労働力として期待されるところが多い。このため若く美しい女は特に高値がつき、同様に体力があり丈夫な男もよく売れる。連邦側の交易窓口であるミンスク港では、よりよい奴隷を買い求めようと、大勢のブローカーや富豪、業者が手ぐすねを引いて待ち構えている。彼らは対価として、連邦国内の豊富な資源を船に満載して、ダリ港に送り返してくる。

 風紀も乱れるはずだ。

 梅祭りのように人出が多くなる時期は、とりわけ用心が必要である。

「ダリは道が狭い上に、人が多い。二人とも、くれぐれも気をつけて、離れないようにしなさい」

 街の様子にそれとなく危うさを感じたユチャンは、妻と娘に改めて注意を喚起した。妻のソユンはともかく、スミンは初めての都会ということで、早くも舞い上がっている。ともするとユチャンのそばから走り出して、頭上の梅の花を見上げたり、両手を広げて潮のにおいを吸い込んだり、背伸びをして沖合の船をながめたり、頑丈な石造りの建物が所狭しと立つ街並みをぐるぐると見回したりと、とにかく落ち着かない。

 ユチャンはそうした娘の姿に、思わず目を細めた。

 (あのは、まるで天使のような)

 我が娘に対して、そのような感想を抱くなど、溺愛が過ぎるというものかもしれない。だが、そう思わずにいられないほどに、スミンはまっすぐ、心豊かに育ってくれている。父親として、これ以上の感慨はない。

 妻のソユンも、よく似た思いを持ったらしい。

「スミンたら、あのようにはしゃいで」

「このように大きな街も、多くの人も、海や船も初めて見たのだ。無理もない」

「えぇ、かわいい娘です」

 ユチャンにとっては、口に出すまでもないことであった。スミンのような娘を持ち、愛情を抱かぬ父親などいないであろう。

 親子はしばし、梅祭りに浮かれるダリの街を散策した。

 ダリの街は奥の方、つまり海に近い側ほど、目に見えて物騒ぶっそうになる。ある通りにさしかかって、スミンは足を止めた。彼女は振り返って父親に尋ねた。

「父上、あれは何をしているのですか?」

「あぁ、あれは人売りだよ」

「人売り?」

「貧しい家では、口減らしのために妻や子を売ることがあるのだよ」

「売られた人はどうなるのですか?」

「親には二度と会えなくなる。遠い別の国に連れていかれて、そこでつらい仕事をしなければならなくなる」

「どのようなお仕事?」

「そうだな、例えば危険な鉱山や、極寒の漁船で働かないといけなくなる」

「あんな小さな女の子もいるのに……」

 スミンの目線の先に、彼女よりもさらに幼い女児が商品として競りにかけられている。

 つらい仕事、とユチャンは口にしたが、売られた妻や娘が使い捨ての性的奴隷にさせられることは言わなかった。というより、言えなかった。

 今、まさに通りに立たされて売られているあの少女も、船に乗って運ばれた先でしかるべき買い手に引き合わされることになるであろう。気に入られれば高値で買われ、あとは悪夢のような日々である。運がよければ、買われた先で子を産み、妻やめかけの地位を得て、最低限の暮らしとともにその子を育てる権利を得られるであろう。だが多くは道具としての寿命を終えた時点で路傍に遺棄され、乞食こじきとなり、野垂れ死ぬことになる。

 自明のことだ。

 だが、ユチャンはその自明の理を言葉にすることを避けた。言葉にすれば、スミンは衝撃を受けるであろう。そして、悲しみを覚えるであろう。心の優しい娘に、そのような思いはさせたくない。

「さぁ、あまりじろじろと見るものではない。そろそろ仕事に行こう」

「はい、父上」

 スミンはそれでも、人売り市が気になるのか、歩きつつ何度も振り向いた。

 さて、娘の目からは医師や薬師くすしというのは人を救うとうとい仕事なわけだが、世間一般では必ずしもそうではない。王都トゥムルのような大都会はまだしも、ダリは地方の貿易港で、治安だけでなく教育水準もきわめて低い。恐らくこの時代のダリの住民で、文字を読み書きできるのはせいぜい2割か、もしかすると1割さえいなかったかもしれない。スミンのように充分とはいえないまでも毎日、家庭ややしろで教育を受けられる者など一握りなのである。

 そういう社会では、当然ながら医師がその貢献度にふさわしい評価を得られるはずもない。医学や薬学は、それ自体が学問として成熟の途上にあり、その職に就く者の社会的地位も、少なくともこの国の場合は決して高いとは言えなかった。

 従ってユチャンのような専業の医師は、ダリほどの都市であっても、医院を構えれば患者が助けを求めに殺到するというようなこともなく、大きな病にかかり、呪術師や祈祷師きとうしに幾度も救いを願ったがどうしてもよくならない、そこでわらをもつかむような思いで医者にせる、という程度の期待しか持たれない。

 こういう場合、患者を集めるためには口入れ屋という、斡旋あっせん業者に依頼する。医者の診察と治療を必要とする者がいれば紹介してほしい、と頼んで回るのである。彼らに支払う手数料を差し引くと、ダリへの出張も、さほどのもうけにはならない。

 この日は口入れ屋を3軒訪れ、ひいきにしている宿屋で休んだ。夕方には、一家揃ってダリの名物である魚の刺身をしょくした。スミンは初めての生魚であった。

 そのあと、長旅の疲れもあってか、すぐに寝入ってしまっている。

 翌日から、宿屋には「クォン医師」の粗末な看板が立てかけられた。が、待てど暮らせど患者は一人として来ない。

「以前にも、初日は患者が来なかった。こういうのは、だんだんと評判が立つものだ」

 しばらくは地道に、丁寧にやっていくしかない、と心配そうな顔をする妻子を励ますようにユチャンは言った。

 日が南中を過ぎてから、スミンは母親のソユンとともに街へ出た。梅祭りに浮かれる人々のあいだを縫うようにして、母娘おやこは散策の続きを楽しんだ。

 ひときわにぎやかな通りに出たとき、ソユンは妙な胸騒ぎに誘われ、はずむような足どりで前を行くスミンの背中に声をかけた。

「スミン、あまり遠くへ行かないで。道に迷ってしまうわ」

「母上、大丈夫です。私、道に迷ったことはありません」

 それは田舎のカンヌン村の話だ、と思ったが、スミンは足が速い。一方、ソユンはもともと体が弱い方で、足腰も丈夫ではない。

 はぐれてしまった。

 スミンは夢中になって、はるかかなたの水平線や、ダリの無骨な街並みに見入っていたが、気づくと母がいない。四方八方を見渡しても、彼女の母の姿はなかった。

「母上、母上……!」

 猛烈な不安に襲われ、スミンは幾度も母を呼んだ。

「母上、母上!」

 不安のあまり、スミンはもとの道を逆に走ったが、注意を怠っていたために道筋が分からない。迷った。

 湾に面した大きな通りに出て、人に道を尋ねよう。

 ちょうどそこへ、花売りの老婆が通りかかった。迷い子らしいスミンの姿を心配したのか、

「お嬢さん、どげんしたと?」

「あ、あの」

「迷子かいな」

「はい、母とはぐれてしまって」

 スミンは宿の名前を伝え、道を聞いた。どこのなまりか、ダリ周辺の言葉ではないような気がするが、ひどい方言の連続の末に、ようやく聞き出すことができた。

「こっちが近道ばい。ならね」

 老婆は背負った編み籠から、花束を分けてくれた。白、黄、赤、朱、薄紅、ずいぶん豪儀なよそおいの花だ。きっと高価だろう。

「ありがとうございます!」

 スミンは花が格別に好きである。大事に抱えて、人通りの少ない裏道を小走りに走り始めた。

 道の中央あたりにかかったとき。

 ぐわっ、とまるで右腕が宙に飛んで行ったような感覚とともに、スミンの全身は裏道に面した家屋へと引きずり込まれていった。

 その様子をじっと見届けて、くだんの老婆はのびやかな声を大通りに向けて発した。

「花、花、花はいらんかー」

 裏道には、落ちた花束がなおも可憐かれんに咲き誇っている。

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