竜を見るには竜を
下村アンダーソン
1
帰るべきか帰らざるべきか、それが問題だった。
いちおう活動日なのではある。しかし漫然と部室に向かったところで、まるで取っ掛かりの見えない原稿を前にただ唸るだけなのは目に見えていた。ろくな成果も得られないまま、夜道を震えつつ帰る羽目になるよりは、明るいうちに下校してしまうほうが得策には違いない。なにより、しばらくは琉夏さんもいないのだし――。
逡巡しているうちに足音が聞こえてきたので、私は慌てて廊下の隅へと避けた。そのまま昇降口へ向かおうとしたところ、小柄な女生徒が接近してきて、
「えっと、文芸部の志島さん――だよね」
「はい」
「よかった」
安堵したように吐息を洩らす。温和そうな顔立ちに、ウェリントンフレームの眼鏡。どこかで見たような気がして記憶を検索していると、彼女のほうから先に、
「選択のほら、工芸で一緒」
相手は四組の酒入渚さんと名乗った。工芸は週に一度しかなく、基本的に黙々と自分の創作に励むタイプの授業である。本当にただ、同じ教室で見かけただけだったと思しい。
にもかかわらず、とくだん目立つわけでもない私が認識されていたのは、所属している部活動の影響が大きい。この杠葉高校において、文芸部はちょっとした知名度を誇っているのだ――本業の文芸創作によって、ではないのが残念なところだが。
「ちょうどお邪魔しようかと思ってたの。相談事を受け付けてくれるって聞いて。飛び込みでも聞いてもらえるのかな。それとも予約制?」
「ぜんぜん飛び込みで大丈夫。ただ肝心の部長が、今日から来週まで休みなんだよね。模試があるから、帰って勉強するんだって」
「そっか。二年生はもうそんな時期かあ。今後も忙しいかな」
「いや、終われば普通に顔を出すと思うよ。あの人が部活を休むってのが異常事態なだけで」
現部長である倉嶌琉夏さんは、廃部寸前に追いやられていた文芸部をたったひとりで立て直した人物だ。とはいえ現在、部員は彼女とこの私、志島皐月のふたりきり。学校祭の時期にかろうじて部誌を発行したりはしているものの、普段の活動はきわめていい加減と言わざるを得ない。毎日お菓子を摘まんだり、漫画を読んだり、瞑想に耽ったり……私だって取り立てて勤勉なわけではないが、琉夏さんの堕落ぶりといったら凄まじい。人はこうまで怠惰になれるのかと、日々新鮮な驚きがあるほどだ。
散々な言い方をしてしまったが、いっぽうで彼女は特異な能力を有してもいる。一部の生徒がときおりそれを当てにして、あるいは面白がって、文芸部へとやってくる。特異でもなんでもない私は、琉夏さんの助手および事態の記録役といったところだ。
模試は来週の水曜が最終日らしい、と私は酒入さんに伝えた。ならばそのときに改めて、という流れになるかと思いきや、彼女は私を見据えつつ、
「じゃあさ、先に志島さんに聞いてもらって、文芸部で取り上げるかどうか判断してもらえないかな。志島さんが馬鹿馬鹿しいと思えば、すぐ断ってくれていいから」
「進路指導とか恋愛相談とか以外だったら、部長は基本的に断らないはずだけど」
「うん――でもね」眼鏡の向こうの瞳が、少し気恥ずかしげに動く。「本当に子供っぽい話なの。長いこと気になってるんだけど、なかなか人に相談できなくて」
「それは大丈夫だと思うよ。あの人、むしろそういう依頼のほうが好きかもしれない」
ともかくも落ち着いて話をするべく、連れ立って部室に向かった。普段は琉夏さんが使用している、他のものより微妙に座り心地のよい椅子を勧める。
私が紙コップに珈琲を淹れているあいだ、酒入さんは壁際にずらりと立ち並んだ本棚を眺めていた。いちおうは文芸部として活動しているだけあって、蔵書数はそれなりにある。過去の部員が残していった古い文庫本、部費で購入した新刊、琉夏さんが持ち込んできた漫画など、種類はさまざまだ。少し前に生物準備室から譲ってもらった棚のいちばん目立つところには、歴代の部誌も陳列してある。
「児童文学とか絵本もあるんだね」
酒入さんが感想を洩らしたので、私は頷いて、
「部長の研究対象からして、絵本作家の岡麻又郎だから。知ってる? いまだ一冊しか本を出してない、駆け出しの作家なんだけど」
「知らない。すごく専門的な研究をしてるんだね、倉嶌さんって」
あまりにも好意的な解釈なのだが、あえて訂正はしないでおいた。怠惰の化身たる琉夏さんが専門性など意識したはずはむろんなく、岡麻又郎なる作家を選んだのは「読解の負担が極小だから」にすぎない。部誌にかろうじて書きつづけている論文も、水増しに水増しを重ねただけの代物である。
「で、酒入さん。文芸部への相談っていうのは?」
私が切り出すと、彼女は紙コップを両手で包み込むようにしながら、
「正体を突き止めてほしいものがあるんだ」
昔のことだから記憶が曖昧なんだけど、と前置きして、酒入さんは語りはじめた。それは懐かしくて少し物悲しい、彼女の遠い思い出にまつわる物語だった――。
両親が共働きをしている都合で、幼少期の酒入さんはもっぱら、お祖母さんに面倒を見てもらっていたという。落書きや人形遊びに飽きる頃になると、必ず外へと連れ出してもらえた。お祖母さんに手を引かれながらの近所の散策は、当時の酒入さんにとって大いなる冒険だった。
「お祖母ちゃんのこと、本気で魔法使いなんだと思ってたの」と彼女は述懐した。「ふたりだと景色がぜんぜん違って見えた。お祖母ちゃんと一緒に出掛けるのは、いつか魔女になるための修行なんだって信じてたくらい。もちろんいま振り返れば、仕掛けが分かっちゃうこともたくさんあるよ。でもひとつだけ、どうしても謎が解けないことがあって。私ね、竜を見たの」
黒く大きな翼を広げて舞い上がるところ、あるいは舞い降りてくるところだった、という。それも一度きりでなく、二度、三度と繰り返し目撃したのだそうだ。
「お祖母ちゃんが呼んだんだって思ってた。だってお祖母ちゃん、竜に会わせてあげるよって、私に言ってたから」
「竜を見せるって――そう宣言して、酒入さんのことを連れてったの?」
「うん。はっきり覚えてる」
お祖母さんの魔法は、酒入さんが幼稚園に入る頃まで続き、やがて消滅した。今から竜を見に連れて行って、という頼みをこう拒絶されたとき、酒入さんは魔法の終わりを悟った。
「今は会わせてやれない。竜は旅に出て、まだ戻ってこないから」
それからすぐにお祖母さんは体調を崩して入院し、数か月後に亡くなってしまった。竜にまつわる秘密は、けっきょく聞くことができないままだった。
「それを見つけ出してほしい、と」
話を聞き終えた私が問うと、依頼人たる酒入さんは神妙に頷いて、
「夢みたいな話だって、自分でも思う。ヒントがあまりにも少なすぎて、ひとりじゃどうにもならなかったわけだしね。ただ見たって記憶があるだけで、正体に繋がりそうな情報はほとんど覚えてないの。降りてきたのは広い砂地みたいな場所だったと思うけど、どこなのかは分からない。竜の輪郭は鮮明なのに、顔だけは思い出せない。こんな滅茶苦茶な、子供の空想そのものみたいな依頼でも、文芸部は力を貸してくれる?」
「もちろん」一も二もなく、私はそう答えていた。「とっても面白い依頼。酒入さんが竜に再会できるように、部として全力を尽くすよ」
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