廃らず村
押見五六三
第1話 滝壺
天狗か
八十吉はそう思いながら苦笑していた。
人里から何里も離れた場所の道なき道。足場も悪い険しい峠なのに、重い荷を背負ったまま目印も無く向かわされているのだから、彼がヤケになってそう思うのも仕方がない話である。
事実、人が住んでるような痕跡が全く見当たらない。
ただただ草木の隙間に自然にできた獣道が続くだけで、耳を澄ましても自分の足音以外は鳥や虫の声すら時折しか聞こえないのだ。
彼も使いで無ければ、こんな場所に来たくは無かったであろう。
息も切れ切れで、そろそろ心が折れそうに成った時の事だ。
「ん? 滝か?」
八十吉の耳に水が流れる心地よい音が届いた。
惹き込まれるように足がそちらに向かう。
やがて木々の間から渓流が現れ、その上流に滝と小さな滝壺が目に入る。
普段は別の経路を使って出町に行き来する八十吉は、こんな所に滝が有るとは露も知らなかった。
滑る足場に注意しながら岩場を歩き、滝壺まで来ると背負っていた籠をゆっくり地面に下ろす。
そして身を屈めて両手で水をすくった。
まるで雪のように冷たい。
八十吉は迷わず汗だくの顔を洗ってから喉を潤した。
大きく息をついてから滝壺を眺める。
濁りの無い、綺麗に透き通った淵だ。
「おや? ヤマメか?」
滝壺の中で何かが動いた。
魚か山椒魚だと思い、八十吉は暫し観察する。
水面をジッと見詰めていると、そこに笠を被った女性の姿が写った。
ハッと思って八十吉は後を振り向く。
「
八十吉の背後の大きな岩の上に、鮮やかな玉椿模様の和服を着た女性が立っていた。
大きな市女笠を目深に被っているので顔はハッキリとは確認できないが、肌艶から見てまだ若い女性と思われる。
その身なりは、正直こんな山奥には不釣り合いに映った。
「もしや、おつう様ですか?」
「いかにも。この山裏に住んでおります、おつうで御座います」
「若狭の行商人、八十吉と申します。
「これはこれは、ご苦労様です」
八十吉は依頼主から聞いた通り、本当に人が住んでいた事に驚いた。
しかも口調も上品な若い女性だ。
色々と不思議に思ったが、これで用を済ませて帰れる事に安堵する。
一時はこんな場所で、こんな荷と夜を過ごすのかと、半ば諦め気味に野宿を覚悟していた。
「荷はどちらまで運びましょう?」
「そこで構いません」
「はっ? ここですか? 埋葬場所まで運ばなくても良いのですか?」
「埋葬?」
「失礼ですが荷を拝見させていただきました。『このような物』と、最初は驚きましたが、何か深い事情がおありなのでしょう。勿論、他言は致しません」
「……『見てはならぬ』と言われませんでしたか?」
「はい。ですが道中、
八十吉が説明中、おつうは岩から降りて距離を詰めると、八十吉の顔面にいきなり体重を乗せながら拳を食らわした。
あまりの突然の出来事に八十吉は鼻血を流しながら、その場に尻もちをつく。
「見たのなら仕方ありません。ならば……」
おつうは暴力を振るったにも拘らず、別段興奮する事もなく、変わらぬ坦々とした口調で話を続けた。
「
「はっ、はああぁ?」
「八十吉殿。共に末永く、安らかに過ごしましょう。ああ、そうだ。これも何かの縁。この子と暮らせばいい」
「な、なんと?!」
おつうは、その白魚のような手を再び伸ばし、今度は八十吉の鼻から流れる血を優しく拭き取った。そして指についた真っ赤な血を、同じぐらい真っ赤な自分の唇に近づけると、長い舌でゆっくりその血を舐めとっていく。知り合ったばかりの赤の他人の鼻血を……。
それを見た八十吉の背筋に、先程触れた滝壺の水よりも冷たい寒気が走る。そして『やはりこんな所には……』と思い返し、この使いを受けた事を深く後悔した。
震える八十吉を見て、おつうは怪し気に笑みを浮かべる。
目は隠れているが、笠の奥からの視線に八十吉は身動きが取れないでいた。
まるで蛇に睨まれた蛙のように……。
「八十吉殿。誤解してはいけません。この子は、まだ死んではおりませんよ。ちゃんと生きております」
そう言って、おつうは地面に置かれた籠の蓋を開けた。
中には頭部の無い、胴体だけの赤子の塩漬けが入っていた……。
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