吸血鬼の時間

柏木椎菜

一話

 何だか息苦しい――そんな感覚を覚え、テクラはうっすらと目を開けた。浅い眠りを繰り返していたので、異変にはすぐに気付いた。


 視界は真っ暗だった。まだ夜は明けていない。ベッドに入ってから何時間が経っているのだろうか。テクラはぼやけた思考でそんなことを考える。それにしても暑く、息苦しかった。体が熱を持ち、触らずとも寝巻が汗で濡れているのがわかる。依然体調が悪いのは明らかだった。額に汗の粒が流れるのを感じ、テクラは右手でそれを拭おうとした。が、額に届く前に何かにぶつかり、さえぎられる。


「ん……?」


 寝ている自分の至近距離に障害物などあるわけがなく、不思議に思いながらテクラは視線を天井から胸元へ下ろした。そして、見えたものに頭は一瞬で真っ白になった。


 それは暗闇に同化しているようにも見えたが、よく見れば茶の色を持つ髪の毛だとわかった。つまり誰かがいたのだ。しかもその誰かはテクラの上半身にのしかかっており、首元に顔を埋める格好でいた。息苦しいのは体調のせいではなく、のしかかられている重さのせいだと知って、テクラは戦慄した。


「やっ――」


 突然の恐怖に引きつる体は、悲鳴を上手く上げることもできず、ただじたばたともがくことしかできない。だがその時、テクラの首元に埋まっていた顔が、ゆっくりと動いて視線を上げた。その赤く光る目は怯えるテクラを真っすぐに凝視してくる。


 じっと見つめられたテクラは、赤い目に吸い込まれるようにその顔を見返し、そして次の瞬間、瞠目していた。


「……兄さん?」


 自分の目を疑いたかったが、暗闇に浮かぶその顔は紛れもなく、一歳上の兄、テオドールだった。


 のしかかっていたのが兄だとわかり、テクラは一安心するのと同時に、大きな戸惑いを覚える。夜中に、しかも寝ている妹に、これほど密着する理由がわからない。兄との関係は良好で、面倒見のいい兄がテクラに乱暴をすることなど考えられなかった。


「ど、どうしたの? 私を驚かそうとしたの?」


 引きつる表情でテクラは言った。きっと悪ふざけで、驚かそうとしたに違いないとテクラは自分に言い聞かせようとした。だが兄は、夜中にこんないたずらをするような性格でないことを、テクラは誰よりもわかっている。では一体、何をしようとしていたのか……。答えを聞くのが恐ろしかったが、黙り合うこともできない。気まずい雰囲気を和らげようと、見つめる兄に聞いたテクラだったが、テオドールに口を開く気配はなかった。


 答えない兄を見て、テクラはここで初めて違和感に気付く。恐怖で冷静に見られなかったが、暗闇の中で、兄の目は異様なほどに光を放っている。それも赤色という、まるで獣のそれのような色でだ。兄の瞳は本来黄色で、こんな毒々しい赤ではない。これは、本当に兄なのだろうか――そんな疑念がテクラの中に湧いてくる。


「……兄さん、その、目って――」


 恐る恐る聞いた時だった。おもむろにベッドから離れたテオドールは、踵を返すとテクラの部屋から出ていこうとする。


「ま、待って。まだ話が――」


 体を起こして呼び止めると、テクラは強烈なめまいに襲われ、思わずベッドに両手を付く。体調がさらに悪くなったようだった。腹痛は弱まりつつあるが、今度は体の内側が無数の針で突つかれているような、痛がゆい感覚に襲われていた。明日、医者に見てもらわないといけないだろうか――辛い体を支えながら顔を上げると、兄と目が合った。


「に――」


 兄さんと呼ぶ前に視線を外したテオドールは、部屋の扉を勢いよく開けると、目で追えないほどの速さで出ていった。続けて遠くからバタンと扉の鳴る音が響く。


「兄さん……」


 普段のテオドールとはかけ離れた様子に、テクラはふらつく足で部屋の入り口まで行った。そこから先を見ると、居間の奥にある玄関扉が開け放たれ、月明かりが薄く差し込んでいた。どうやらテオドールは外へ出ていったようだった。


「こんな時間に、一体何の音なの?」


 眠そうな声に振り向くと、居間の左の寝室から母ヘレナが出てくるところだった。その後ろには父ヨアキムの姿もある。玄関扉の開いた音で目を覚ましたらしい。


「テクラ、あなたなの?」


 迷惑そうな目を母に向けられ、テクラは慌てて首を横に振る。


「違う、私じゃない。兄さんが……」


「テオドール?」


 兄の名に、ヘレナは自分達の寝室の横を見る。


「あら? 扉が開いてるわね」


 テオドールの部屋の扉は開いており、ヨアキムはその中をのぞく。


「……いないな。夜中にどこへ行ったんだ」


 テクラには見当もつかず、わからないとしか答えようがなかった。しかし、両親には伝えておかなければならないことがある。


「私の部屋に来たんだけど……兄さん、様子がおかしかったの。いつもの兄さんらしくなくて……」


「おかしいって、どんなふうに?」


「私の側で、ずっと黙って……赤い目で……」


「赤い目?」


 ヘレナは疑う声で聞き返した。


「ほ、本当なの。兄さん、目が赤く光ってて――」


「あの子の目が赤く光るわけないでしょう。それはテクラの夢の話でしょう?」


「夢……?」


 あれがすべて夢の出来事なら、どれほど安堵できることか。だがそうでないことを現状は語っている。玄関扉は開けられ、テオドールの姿は見当たらない。兄に異変が起きていることは現実なのだ。


 玄関から外をしばらく眺めていたヨアキムだったが、テオドールの姿がないとわかると、静かに扉を閉め、鍵をかけた。


「まあ、明るくなれば帰ってくるだろう。あいつももう子供じゃないんだ」


「そうね。事情は明日聞きましょう。さあ、テクラも部屋に戻りなさい」


「でも母さん――」


 異変を訴えようとするが、ヘレナはそれをさえぎり、娘の肩にそっと触れる。


「あなたは夢は見たのよ。……ん? 体が熱くない? 熱でもあるの?」


 触れた肌の熱さに気付いたヘレナは、娘の額に手を当て、熱を測る。


「汗もかいてるじゃない」


「ちょっと、体調が悪くて……でも寝れば直ると思うから」


「風邪かしら。空気が乾燥してるし。薬を――ちょっと、どうしたのこれ」


 急に真剣な口調に変わったヘレナは、額から手を離すと、テクラの首元を見つめた。


「これって、何?」


「これよ。首に血が付いてるわ」


 血と言われて驚いたテクラは、自分の首を指先で探ってみる。すると一箇所、触れるとかすかな痛みを感じるところがあった。小さな傷のようだった。だが血の感触はなく、すでに固まっているらしい。


「傷? いつできたんだろう」


 寝る前に傷を付けた覚えはなく、体調の悪さで寝苦しく、無意識に引っかいたのだろうとテクラは思ったのだが、血の付いた傷を見つめるヘレナの表情は見る見る険しく、深刻なものに変わっていった。


「……どうしたの?」


 不思議そうに聞くテクラには何も答えず、代わりにヘレナは夫を呼んだ。


「あなた、これ見て」


 呼ばれたヨアキムは娘の首の傷を顔を近付けてまじまじと見た。


「ねえテクラ、部屋に来たのは本当にテオドールだったの?」


「顔を見たから、間違いない。でも、どうして?」


 首をかしげる娘から離れた父は、うーんと唸り、考え込む。


「どう思う?」


 ヘレナは不安げに聞く。


「俺には判断できない。だが、可能性がないとも言い切れない」


「どうしたらいいの?」


「こんなこと、領主様以外の誰に相談するんだ」


「な、何? 何なの? おかしな傷なの?」


 二人の様子に不安を感じ始めたテクラは聞いてみるが、夫婦はお互いを見合い、そして困惑の表情を娘に向ける。


「テクラ、落ち着いて聞いて。あなたのこの傷、吸血痕に見えるの」


 え、と声にならない声がテクラの口から漏れた。それを見てヨアキムがすかさず言う。


「見えるだけで本当にそうかはわからない。だから明日、領主様のところへ一緒にうかがいに行こう。そうすればはっきりする」


「私、どうなるの……?」


 怯えた目を見せる娘に、ヨアキムは微笑みを浮かべ、その背中を撫でた。


「大丈夫だ。領主様が解決してくれる。心配ない。さあ、戻って休みなさい」


 明日は医者の元へ行こうかと考えていたのだが、思わぬことでさらに不安が増し、このまま休む気にはなれなかったテクラだが、母に背中を押され、部屋に入れられると、おやすみと言われ、静かに扉を閉められた。一人になり、戻った静寂の中で立ち尽くしていたテクラは、自分に起きたことを整理し切れず、呆然としていた。やはりこのままでは眠れないと感じたテクラは、頭の中を冷静に、一度整理しようと、ベッドに腰かけ、これまでの出来事を思い返してみることにした。


 まず、体調が悪くなったのはいつだったか。今朝は何の異常もなく、テクラは父の農作業を手伝っていた。その後の朝食もおいしく食べ、その時一緒にいた兄の様子も、気にしていたわけではないが、特に普段と変わらないように見えていた。


 昼にかけては母に頼まれたものを買い出しに行き、帰ってからはその母と家事をこなし、昼食を挟んで再び父の手伝いをしていた。この時点でも体調に変化はなかった。一方の兄はどこにいたかというと、父の友人の店で働いていたはずだ。確認したわけではないが、三年前からテオドールはその店で働き、欠勤したことはこれまで一度もなかった。その真面目さは友人の店主も褒めるほどだった。


 兄は責任感が強く、そういう性格だから欠勤もしないのだと、表向きには思えるのだろうが、テクラはもう一つの理由を知っていた。実は店の近所に、思いを寄せる女性がいるのだ。もしかしたら彼女に会うために、あの店で働き続けているのかもしれない。毎日会えるように――それがテクラの思う、もう一つ理由だった。


 兄が帰ってきたのは午後、父の手伝いの休憩中だった。時々お土産だと、買ってきた菓子などを持ってくることがあるのだが、この時も一緒に食べようとクリームを塗った小さなケーキを持ち帰ってきた。甘いものが苦手な父は遠慮したが、それをテクラは兄と分けて食べた。聞くと、兄の友達であるノアからの貰いものだという。ノアはテクラも知る穏やかな青年で、家業が菓子店ということもあり、何度か甘いものをごちそうになったことがあった。


 日が暮れ、家族四人で夕食を食べ終えると、兄は約束があると、珍しく夜に外出していった。普段と違うことと言えばそれくらいで、他に変わった様子はなく、夜の外出も、十八になればするだろうとしか思わず、両親も含めた誰も怪しむことはなかった。そして、テクラの体調が悪くなり始めたのもその頃からだった。


 夕食を終え、兄を見送った後、腹に鈍い痛みが生じたのだ。当初は我慢できる程度の痛みでしかなかったのが、時間が経つにつれ次第に強くなり、まるで腹の奥を金槌で乱暴に殴られているような激しさに変わっていった。脂汗が吹き出ると、次には全身が熱を帯び、頭がもうろうとし始め、立っていることが辛くなったテクラは、両親に体調のことは何も言わず、そのまま部屋のベッドで横になったのだった。


 熱と腹痛でなかなか眠れず、浅い眠りを繰り返していたそんな時に、兄は部屋にやってきたのだ。赤い目を光らせて……。確かに、人間の目が赤く光ることなどない。だがあれは寝ぼけて見たものでもない。しっかりとテクラの肉眼で確認した姿だった。兄はあの時、何をしていたのか。妹に密着し、首元に顔を埋めていた理由は……。


 テクラはベッドに寝転がると、強く両目を閉じた。答えはもう出ているようなものだった。首の傷が吸血痕だとするなら、兄は妹の血を吸ったのだ。ではなぜそんなことを? まともな人間がすることでは到底ない。あれは兄に見えて、実は兄ではなかったのだろうか。それとも、酒に酔って正常な精神状態ではなかったのか。しかし、毎日見ている兄の顔を見間違えるわけはなく、あれほど顔が近くても、酒の臭いは微塵も感じなかった。この考えは違う。もっと、想像を超えた何かが起こっているのだろうか――どこにもたどり着かない思考は、やがて睡魔を引き寄せ、テクラは知らぬ間に眠りへと誘われていた。


 目を覚ましたのは、カーテンの隙間から朝日が差し込む早朝だった。


 おぼろな意識が少しずつ明瞭になり、テクラはゆっくりと目を開けた。窓のほうを見て、わずかに差し込む眩しい光に思わず顔をそむけつつ、体を起こす。そして両腕を伸ばし、大きなあくびをした。目覚めた体にはよく眠れた感覚があった。


「……あれ?」


 そこでテクラは気付いた。昨晩までの腹痛や熱、全身にあった痛がゆさが、まるで洗い流されたようにさっぱりと消え失せていたのだ。立ち上がって軽く手足を動かしてみるが、どこにも痛みの余韻はない。昨日の辛さが嘘のように、テクラの体は正常に戻っていた。これで医者に行く必要はなくなり、やはり一晩寝れば治る程度のものだったのだと、気分も晴れやかに着替えて、テクラは部屋の扉に手をかける。しかしそこでふと兄のことを思い出し、上向きかけた気分は急停止した。体の痛みは消えても、まだ解決していないことが残っているのだ。兄の行動の理由と、首に残された傷。これらをはっきりさせないと――テクラは小さく息を吐くと、静かに部屋から出た。


「あら、おはよう。体のほうはどう?」


 居間の端にある台所に立つヘレナは娘をいちべつすると、そう聞いて食器洗いを続ける。


「うん。もう何ともない。寝たら治っちゃったみたい」


「本当? 大丈夫なの?」


「多分。私も驚いてるくらい」


「それならいいけど……食欲があるなら朝食食べなさい。その後で領主様のところへ行きましょう」


 母は背中越しに朝食を促す。視線を移すと、四角い食卓には三人分の朝食が置かれていた。父はいつも一人だけ先に食べて畑へ行ってしまうので、朝食は母と兄と妹で食べるのが常だった。しかし居間には兄の姿はない。


「母さん、そういえば兄さんは……?」


「それが、帰ってきてないみたいなの。何も言わずに外泊するなんて、そんなこと今までなかったのに……」


 ヘレナは疑問と心配の入り混じった口調で言った。兄がいないのでは、何も解決させることはできない。心にもやもやしたものを抱えながら、テクラは朝食を食べようと、いつもの自分の席に座った。


 目の前には豆の粥と昨晩の夕食の残りの、少し硬くなったパンが置かれている。いつもと同じ定番の朝食だ。食欲は問題なく戻っており、むしろ昨日の熱や痛みでかなり体力を消耗した分、普段の朝より空腹感は強いかもしれなかった。しかし、テクラは朝食を見つめるだけで、すぐには食べようとしない。


 器に入った粥を見下ろすその表情は、どこか不思議そうだった。それでも手元のスプーンを手に取ってみるが、やはりそれ以上先には進まない。腹は減っているのに、粥もパンも、なぜか食べる気になれない――自身でもおかしな感覚だとわかっていたが、そう思ってしまうのだから仕方がなかった。別に嫌いなものだったり、苦手なものが入っているわけではない。豆の粥は朝食として何度も食べてきた料理だ。それなのに、今朝に限ってこれらを食べたい気持ちがまったく湧き上がってこない。食べ物として、おいしそうだという魅力が少しも感じられないのだ。それなのに空腹だけは続く。何か口にしなければとテクラを突き動かしてくる。


 席を立つと、テクラは台所の母の元へ向かった。


「母さん」


「ん、何?」


 ちょうど食器を洗い終えたヘレナは、手を布巾で拭きながら娘に振り返った。


「朝食は食べられそう?」


「えっと、その……」


 別のものが食べたいとわがままを言うことにためらい、ふと母の顔を見つめた時だった。


「……どうしたの?」


 優しい表情で聞いてくる母に、気付けばテクラは釘付けになっていた。そして今欲しているものがこれだと、自分でもわけのわからない衝動に駆られていた。


「テクラ……?」


 黙って見つめてくる娘に、母は首をかしげる。その様子を見ながら、テクラは無意識に母へ手を伸ばしていた。


「母さん……」


 肩を強くつかまれたヘレナは、娘の不自然な行動に怪訝な目を向ける。


「ちょっと、何? 話をしたいならこんなに近付かなくても……」


「私、すごく――」


 テクラは半ば母に抱き付く形で身を寄せると、その耳元に顔を寄せて言った。


「お腹が空いたの」


「え……?」


 娘の態度にヘレナが戸惑いを見せた瞬間だった。テクラは母の襟元からのぞく白い首筋に勢いよく噛み付いた。


「きゃあっ……テ、テクラ!」


 驚いたヘレナは自分にくっ付く娘を引き剥がそうとするが、テクラはそんな母の両肩をがっちりとつかみ、首筋に噛み付き続けていた。


「痛い! やめて、やめなさいテクラ!」


 異常な光景に、ヘレナは焦りながら全身で暴れるが、テクラの力は十七歳とは思えないほど強く、まるで大男に押さえ込まれているかのようだった。


「テクラ! 目を、覚まして……」


 呼びかけても、娘は一向に離れる気配はなかった。自分の首筋に噛み付き、ちゅうちゅうと不気味な音を立てている。その音を聞かされるヘレナは、娘のしていることにぞっとしながらも抵抗を続けたが、次第に手足から力が抜け、その場に倒れ込んでしまった。


「テクラ……やめて……」


 最後の力で呼びかけたが、その声が娘に届くことはなかった。もうろうとしたヘレナの意識は、娘が自分の首筋に噛み付いている姿を目に焼き付けると、やがて静かに消えて呼吸を止めた。


「……はっ、ああ、おいしい……」


 床に倒れた母からようやく離れたテクラは、唇に付いた赤いものを舌でぺろりと舐め取ると、恍惚の表情を浮かべた。これが欲しかったのだ。これが空腹を満たしてくれる。だが、まだ足りない。腹は満たされていない――テクラは足下の変わり果てた母の姿には目もくれず、ぎらついた眼差しを窓の外へ向けた。家の外に、もう一人いる――母の血のおいしさの余韻に浸るテクラは、薄い笑みを浮かべながら庭の畑へと向かっていった。


 家の前に広がる畑には、大人の胸の高さほどの青々とした葉の茂る作物が列になっていくつも植わっている。そこには黄色がかった丸い実が点々と生り、もう少しすれば収穫できる状態まで育っていた。ヨアキムはそれらを一つ一つ、丁寧に見て回っていた。ここで実を駄目にするわけにはいかないと、葉や茎に害虫がいないかを根気よく確認している時だった。


 何となく気配を感じて振り向くと、作物の列の間をこちらに向かって歩いてくるテクラの姿があった。


「おお、テクラか。手伝ってくれるか。今虫が付いてないかを――」


 ヨアキムはいつものように、娘が手伝いに来てくれたものだと笑顔で言った。だがそれを言い切る前に、ヨアキムの体は大きな衝撃を受けて地面に倒れ込んでいた。


「なっ……何だ!」


 目を白黒させるヨアキムが見たのは、自分の上にまたがり、体を押さえ込む娘の姿だった。一体これは何なのかと、突然の出来事を理解できずうろたえるヨアキムだったが、そんな父に一言も発することなく、テクラは衝動に促されるまま、首筋に思い切り噛み付いた。


「なっ……何してるんだっ! テクラ、テクラ!」


 畑仕事で鍛えられた腕で娘の体を押すが、それ以上にテクラの腕力は上回っていた。大の男が懸命に押しても、娘の体はびくともしない。そんな父をまるで意に介さず、テクラは夢中で首筋に吸い付いていた。


「やめ、ないかっ……」


 娘の異変になりふり構っていられないと思ったヨアキムは、服や髪を引っ張ったり、背中を強く叩いたりして娘に抵抗を試みたが、これでテクラが怯んで力を弱めることはなく、逆にますます強い力で押さえ込まれてしまった。


 動けない状態で、ヨアキムは冷静な頭に戻って娘の行動を見た。自分の首筋に噛み付き、そこから血を吸っている――そう知って、昨晩見た娘の首の傷を思い出す。あの傷はやはり吸血痕だったに違いない。娘は知らぬ間に吸血鬼に血を吸われてしまったのだ。そして、こんな行動を起こして……。これは、娘のせいではない。テクラは、何も悪くは――ヨアキムの思考はそこで途切れた。


 唇を舐めながら血の味を満喫したテクラは、ゆっくりと立ち上がり幸せそうな笑みを浮かべた。ようやく空腹感が消え、食欲が満たされたのだ。あの全身を支配する衝動は潜まり、テクラの意識は再び正常なものに戻り始めていた。


 澄んだ青空を見上げ、満足した気分を感じながら、テクラは視線を足下に移した。そこには、青白い肌に変わった、ぐったりと横たわる父の姿がある。それを見つめ、テクラは徐々に鼓動を速めていた。次第に呼吸が短くなり、両手が震え始める。理性が戻った意識は、これが自分のしたことだとはっきり認識していた。


「……わ、私……どうして……こんなことを……」


 足はがくがくと震え、立っているのがやっとだった。父は息絶えている。そして家の中では母も……。なぜこんなことをしてしまったのか、テクラ自身もわからなかった。いや、正確に言えば、こんなことをするつもりはなかったのだが、内側に生まれた衝動にあらがえなかったのだ。とにかく血を、ともう一人の自分がまるで勝手に動いているようで、どうすることもできず、こんな結果を作り出してしまったのだった。


 事の重大さに、テクラは頭を抱えて震える。目の前にある信じたくない光景を、ただ凝視するばかりだった。私は、両親を殺してしまった。人殺しになってしまったのだ――あまりに重い罪は、テクラの頭にそんな言葉を繰り返し言わせ続けていた。十七歳の少女の心では、到底受け止めきれない現実だった。

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