第9話

 初めて見たエスクード侯爵夫人は、ジルダの母よりも少し年上に見えたが、それでも今まで見た大人の誰よりも美しく、神話の中の美の女神が現れたのだとジルダは確信するほどだった。

 自分の不器量さを早い時点で受け入れていたジルダだったが、幼心に世の中はなんて不公平なのだろうと胸の奥が重たくなるのを感じたのを覚えている。

 しかし、その美しかった侯爵夫人の頬は青白くやつれ、花びらのようだった唇は白くひび割れてジルダの前で眠っている。

 カインの魔力の圧力に抗おうと、自身の魔力をほぼ使い切ったのだ。

 ジルダの到着がもう少し遅かったら命はなかっただろう。


「シトロン公女」

 ノックの返事を待たず、エスクード侯爵が部屋に入ってきた。

 本来ならば無礼な事であるが、ここはジルダの屋敷でも、ジルダに与えられた部屋でもなく、部屋の主である侯爵夫人はベッドでゆっくりと眠っているので問題はない。

「魔力の消耗が激しいです。王宮でかなりの量をお渡ししたのですが、お屋敷に着いた頃にはかなり減っていました」

「ありがとう。公女。こんな幼い少女に縋るしかできない我々を許してほしい」

 夫人が眠るベッドの傍――ジルダの隣に立った侯爵は、片膝をつきジルダの手を取って言った。

 夫人も美しいけど、侯爵もなんてお美しい――そういえば公子もとても美しかった。

 ぼんやりと先程のエスクード公子を思い浮かべ、さすがこの二人の子供だと感心したが、今はそんな話は関係ない。侯爵が膝をついているのだ。

「おじ様、おやめください――私、おば様が大好きなんです。私のような者がこうやっておそばにいてお役に立てるのが嬉しいんです」

 本心だった。行儀見習いと称して、ジルダはエタニエル師と共に王宮に上り、能力の研究をしながら侯爵夫人からも礼儀作法や所作を学んでいた。

 侯爵夫人の授業はとても厳しかったが、上手に出来た時にはとても優しく褒めてくれる夫人がジルダは大好きだった。

「さっきエスクード公子から吸収した魔力を移しましたので、しばらくは安定すると思います――びっくりしたんですが、公子の魔力と夫人の魔力は同じ……というわけではないのですが、とても安定するんです。もっと早く知っていれば――」

「カインの魔力が――そうか……」

 立ち上がりながら侯爵は遠くを見るような目で夫人を見つめ、呟いた。

 静まり返った部屋の中で、ジルダは少し居心地の悪さを感じたので、用は済んだので帰宅する旨を伝えた。

 侯爵家が、客用の豪華な獣車を用意してくれていたので、ジルダはふかふかの椅子に包まれて、シトロン伯爵家への帰路についた。


 カインの意識は1週間戻らなかった。

 魔力視に優れていると評判の医者は、非常に言いづらそうに侯爵に伝えた。

「公女は、命に影響のないギリギリまでしか魔力を吸収していないようですが、魔力が安定しません」

「どういうことだ」

「公子の中で魔力が拮抗しているのです」

「拮抗?」

 医者の言葉を侯爵は繰り返した。

「はい。通常、人の体には魂は一つしか存在しません。そして、魂の力である魔力も一つのみです。しかし、公子の魔力は一つの魂に2つ存在しているのです。――いえ、正確に言えば一つなのですが、一つの魔力が変質したり戻ったりを繰り返しているのです」

「変質……どういうことだ」

「わ……私もこんな状態は初めてで、すぐにお答えする事ができません。ですので、しばしお時間をいただきたい。公子の容体は眠っているだけですので、私が御傍についていてもできることはありません。それよりシトロン公女の方がよほど今の公子には必要です」

「公女……」

「私では万が一暴走した時に抑える事ができません。ですので、公女に頼るしかないのです。その間に私は心当たりを調べてまいります。――ええ。私も見るのは初めてですが、聞いたことがあるのです」 

 侯爵は医者を信じることにした。そして、急いで伯爵家へ使いを出し、翌日からジルダがカインの看病をする事が決まった。

 

「あなた……カインは」

 部屋を訪れた侯爵に、ベッドに横になったままの夫人が問いかけた。

「まだ目を覚まさないが、明日からシトロン公女が来てくれる事になった」

「ジルダ嬢が……無理をさせていないといいのですが」

「無理だろうと協力を仰がねばならん。カインが目覚めたら存分に礼をすればいい」

 侯爵は疲れていた。度重なる王宮への報告、巻き込まれた貴族達への賠償、目を覚まさないカイン。ジルダを思い遣る余裕までなかった。

 幸いなことに妻は、ジルダがカインの魔力を与えたその日の夜に意識を回復した。

 しかし、ベッドから出ることはできなくなっていた。限界が近いのかもしれない。

 侯爵は考えたくない事を思い浮かべ、すぐに振り払うように頭を振った。

「ジルダ嬢は君が好きだと言っていた。甥っ子のロメオもだ。君は本当に子供に好かれる人だ」

 ベッドに腰掛けると、侯爵は妻の手を取り口づけした。

 妻は悲しそうに微笑むだけだった。

「ジルダ嬢がいれば、すべての問題が解決されるかも知れない。そうすれば君も――」

 その時だった。

 寝室の扉が勢いよく叩かれ、執事の声が部屋に響いた。


「カイン様の意識が戻られました!」

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