第32話 決裂
怒涛の勢いで押し寄せる情報の洪水と、最後に告げられた愛の告白。まるで何の前触れもなく未知の世界に放り出されたかのような衝撃が収まりきらぬ内に、取引の本題に入られても咄嗟に返事はできない。
長い前置きを拒んだアサヒに対する当てつけのようなものか。まだ太陽の眩しさにも慣れていないというのに、様々な秘密を明かされ、アサヒは頭部をハンマーで殴られたような気分だった。
「あー久しぶりだなぁ。こんなに綺麗な空を見るのは。やっぱり、天気が良いと気分も良いね」
サヨはお気楽に大きく伸びをし、自らが蓋をした青空に懐かしさを覚え、感慨深げに目尻を下げる。
「どうしたのさ。さっきからずっと黙りこくっちゃって」
「お前……頭おかしいんじゃないのか?」
「うん? おかしい? 何が?」
「全人類を実験台にするために、空を雲で覆った? お前は一体……何を考えてるんだ……?」
「だから、君みたいな人間を見つけ出したかったんだよ。あたしはあたしと同格の人間を作って、旧人類を駆逐することが目的なんだ。あ、でも、あたしの計画に乗ってくれたら、君の大切な人には手を出さないよ。そこら辺は弁えてるから」
狂気に染まり切っているのに、あたかも正気を保っているかのように理性的なことを言い、ちゃんと会話を成立させてくるのは気味が悪い。
これならいっそ、金切り声しかあげない狂人であってくれた方が良かった。ただの怪物として立ちはだかってくれる方が、何百倍も相手にしやすい。
「それで、女の子から愛の告白を受けておいて、返事をしないのは男としてどうなのかな? ちゃんと答えてよ」
「…………」
「ひょっとして、照れちゃってる? あ、そうだよね。告白なんてされるの初めてだよね。彼女とかいたことなさそうだし、モテなさそうだもんね」
「……いいや、人質を取って告白とは、随分自信がないんだなと思っていただけだ」
これ以上サヨのペースに呑まれるわけにはいかない。余裕は全くなく、ほとんど虚勢のような挑発だったが、今のアサヒにはこれが精一杯だった。
「ふぅん……状況は読めてると思うんだけどね。君は馬鹿じゃない。今はまだ色々整理がついてないと思うけど、あたしの提案を理解はしているはず。だったら、もうそんなに警戒する必要はないと思うけどね。それとも、あたしのことがまだ信用できない?」
「それはお互い様だろ。レナを人質に取らないと、俺に対等な取引を持ち掛けることすらできないんだ。お前の方こそ、俺を全く信用していないじゃないか」
頬を一滴の汗が流れ落ち、舌がビリビリと痺れる。戦闘においては負けなしのアサヒであっても、舌戦だけは例外だ。このような交渉は得意ではない。
それに対し、サヨは常にアサヒより精神的に優位に立ち、自分を中心に話が進むようにあの手この手で誘導を続けている。このままここで会話を続けても、どんどんサヨのペースに乗せられていくだけだ。
そう判断したアサヒは、細かい策など考えず、駆け引きも放棄して、最も自分に合ったやり方でこの局面を乗り切ることにした。
「俺はお前の提案は受けない。頭のトチ狂った女の告白なんてお断りだ。それに前にも言ったはずだぞ。俺は子供なんて作る気はないんだ。俺とお前で新人類を作り上げることは不可能なんだよ」
「……頑なだね。どうして? どう考えたって、あたしの提案を受けた方が得じゃないの? 君の世界はこの子が全てでしょ? この子さえ安全な場所で暮らせるのなら他はどうなってもいいんじゃないの? だったら────」
「そうだな。その通りだ。レナさえ健康に育ってくれれば、他のことなんかどうだっていい。何百人死のうが、何千人死のうが、今の人類が絶滅して新人類が台頭しようがどうだっていい話だ」
アサヒの人生には、ミナとの約束以外何もない。その他の全てが等しく無価値で興味のないことだ。
だからレナへの愛情も、ひょっとしたら本物ではないのかもしれない。レナのことよりも、約束のことを重視している自分に気づいた時、アサヒはいかに自分が短絡的な人間であるかを知った。
生きてさえいれば幸福だなんてことはない。レナの幸福を願うのなら、他の全てがどうでもいいなんてことは有り得ない。そんな簡単なことに、アサヒは今まで気づいていなかった。
「けどな、何かを犠牲にしてレナを救うことはできないんだ。お前の提案に乗ればレナを救えるかもしれないが、多くの人間が犠牲になる。その事実を知ったら、レナはきっと悲しむ」
「へぇ、それで? 悲しむから何? 悲しんで生きるぐらいなら、死ぬってこと?」
「そうは言ってないだろ。お前の提案に乗らないからと言って、レナが助からないと決まったわけじゃない」
大きく息を吸い、肺を空気で満たす。こんなにも温かい風を浴びたのは産まれて初めてだ。なのになぜか馴染み深いような、安心するような気分になる。
突然青空と太陽を見せられた動揺は、いつの間にかすっかり静まっていた。なんということはない。これが本来あるべき形なのだから、体はすんなりこの環境に適応できるのだ。
「お前を倒してレナを連れ帰る。悪いが、もうお前のくだらん実験には付き合ってやれない」
「そう来たか。ありゃりゃ、これはちょっと予想外かも。あたしの告白を受けるとばかり思ってたから……この子を危険に晒してまで断ってくるはずないと思ってたんだけどな……当てが外れたかぁ。案外人質取らない方が勝算高かったかな?」
「どちらにせよ同じことだ。お前の提案は断る」
「ショックだなぁ……最初で最後の告白だったのに。振られちゃったかぁ。百歳越えの青春ってやっぱちょっときついかな」
サヨはポリポリと頬を掻き、残念そうに目を伏せる。気の抜けた言動そのものに変化はないが、明らかにこの場の緊張感が一段階高まった。
「じゃ、無理矢理手に入れることにするよ。やっぱ力尽くでっていうのが、強者のやり方だよね」
彼女がパチンと指を鳴らすと、アサヒの体がふわりと宙に浮き始めた。それだけではない。周りの氷や岩、眠っていたレナも、空に向かって引っ張られるように、地面から放り出される。そんな中、サヨだけは地に足をつけ、平然と立っていた。
「種明かしをすると、あたしは重力を操れるんだよ。自分を中心として半径十キロぐらいなら自由自在にね。これは今無重力の状態だけど、こういうこともできる」
「────っ⁉」
フワフワと漂っていた体が、突然上空に向けて落下し始めた。周囲の物質全てが同じように加速していき、どんどん空へ昇っていく。
「重力の反転。しがみ付く物は何もないから、空に向けて引っ張られる力に抵抗のしようもないでしょ? でも、このまま宇宙までは行かないよ。さっきも言ったようにあたしの能力の効果範囲は大体半径十キロ程度。じゃあ、そこまで上がっちゃえば、後はどうなるんだろうね?」
姿勢の制御すらままならず、無数の土砂や砂利に揉まれながら空に打ち上げられていく最中、レナの位置だけは見失わないように注意していた。
予想外の能力を使われることなど良くあること。五年前まではそうだった。確かにこれほどの規模の能力は見たことがないが、やるべきことが変わるわけではない。
「レナ‼」
アサヒは目一杯手を伸ばしてレナを抱き寄せると、激しく回転させられ上下の感覚もあやふやになる中で、右手を真っ直ぐ地上にいるサヨに向けて伸ばした。
「本家を見た後でやる羽目になるとはな……っ」
手のひらで生み出された小さな太陽は、寸分の狂いもなくサヨの脳天めがけて一直線に発射された。
「それが見たかった‼」
攻撃を視認したサヨは、光の球をキャッチするように受け止め、瞬間的に重力を操作して軌道をずらした。
真正面から受ければ、流石の彼女もタダでは済まない。だが能力を行使すれば直撃を回避するのは容易い。
「防御に能力を使う時は、重力の反転を中断しないといけないらしいな」
サヨが攻撃を逸らすのに能力を使った隙に、アサヒは地面に着地していた。その腕の中にはしっかりと、無傷のレナが抱えられている。
「やっぱりあたしが見込んだだけあるね。君は強いよ。多分、本当にあたしと同格だと思う。勿体ないなぁ……考え直さない? あたし、結構尽くすタイプだよ?」
「だったらなおさら御免だな。お前に尽くされる人生なんて、命がいくつあっても足りなさそうだ」
山の残骸が降り注ぐ中、二人のステップは向かい合う。交渉は完全に決裂し、互いに力で捻じ伏せる以外の選択肢はもう残されていなかった。
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