第30話 本来の空

 氷に覆われた山を登るのは、ステップといえど一苦労だ。道は険しく、下手をすれば滑落の危険もある。登山道など整備されてはいないので、切り立った崖を登らなくてはならない時だってある。


 だからこそ、高い山脈は天然の要塞として利用できる。アサヒもかつては、襲撃者から逃れるためにあえて切り立った山の中へ逃げ込んだりしたこともあった。


 食料や資源があるわけでも、ましてや頂上にお宝が隠されているわけでもない。趣味で登山をする人間など、この世界にはまずいるまい。

 そのため、それなりの高さがある山の頂上ともなれば、異様な静けさと不気味さが漂う。まるで生命が踏み込んではいけない空間のようで、気温も低く、寒さに耐性のあるアサヒですら長居は厳しい。


「────遅かったね。陽山アサヒ」


 そんな地獄のような世界で、赤月サヨは笑っていた。手頃な岩に腰掛け、自分の部屋みたいにのびのびとくつろいでいた。


「レナはどこだ」


 アサヒはサヨの正面、およそ二十メートルの距離で立ち止まり、開口一番にそう問いかける。


「ちょっとちょっと、そう結論を急がないでよ。まずはさ、ほら、あたしについて何かコメントがあるでしょ? 可愛い可愛いヒロイン候補が裏切ったんだよ?」

「裏切りじゃないだろ。お前の目的は初めから俺の能力だったはずだ」

「……割り切ってるねぇ。伊達に修羅場を潜って来てないって感じかな。あたしとしても話が早いならそれに越したことはないんだけど、そうも淡白だといまいち盛り上がりに欠けるよね」


 サヨの様子は驚くほどいつもと変わらない。軽薄な笑みに、挑発的な態度。レナの誘拐を実行しておきながら敵意や殺意は全く見られず、普段と同じ調子で話しかけて来る。そんな異常さには、背筋を走り抜ける怖気を禁じ得ない。


「レナはどこだと聞いてるんだ。早く答えろ」

「はいはい、君の妹はここにいるから、そう怖い顔しなさんな」


 サヨが体を傾けると、その奥で平らな石の上に寝かされたレナの姿が見えた。レナは穏やかな表情で眠っていて、拘束はされていない。服装も最後に見た時のままだ。


「……何もしてないだろうな?」

「傷一つ負わせてないよ。あの、なんだっけ? 君の知り合いの。あの子の腕は折ったけど、それ以外は誰にも手出してないから安心していいよ。けど、無事に帰れるかどうかは君の返答次第かな」


 サヨは右手をレナの首に伸ばし、血管をなぞるようにしながら指を這わせる。その指にほんの少し力を加えるだけで、命を簡単に摘み取ることができるだろう。


「レナに触れるな」

「おっと、ごめんごめん。寝ている女の子にベタベタ触るのは良くないよね」


 サヨはおどけた態度で、軽く舌を出してみせる。この人を苛立たせるような言動に乗せられれば、彼女の思うつぼだ。

 アサヒは顔をしかめそうになるのを堪え、サヨを睨みつけるに留める。それだけで満足なのか、サヨは楽しそうに足をバタバタと揺らしながら勢いよく立ち上がった。


「じゃ、さっそく本題に入ろうか。あたしの提案に乗ってくれれば、君の可愛い妹は返してあげるよ。と言っても、わざわざ人質なんて取らなくても君なら受け入れてくれると思ってはいるんだけどね」

「お前の提案に乗るつもりはない」

「まあまあ、一応聞いてよ。案外良い話かもしれないよ? 君にとっても、妹ちゃんにとってもさ」


 ふざけているように見えて、サヨは片時もアサヒから目を離さず、警戒を怠ってはいない。

 もしアサヒがレナを助け出すべく飛びかかれば、すぐさま人質の首元に手刀を突き付けられるように細心の注意を払っている。


(マヒルの話は本当っぽいな……)


 他のステップと比較しても、明らかに戦闘能力が数段上だ。視線の動きや、重心の移動、指先の角度を見ただけでわかる。

 逆によくこれだけの実力を一年間も隠し通したものだ。自分を強く見せるのならともかく、弱く見せるのがどれだけ難しいか、似たような立場にいるアサヒには理解できる。


 シェルターに住んで五年になるが、未だにノーマルへの擬態が完璧にできているわけではない。見る人が見れば、正体を看破される危険性は常に付き纏っている。

 だがサヨは計画実行の瞬間まで正体を隠し通した。その事実こそが、彼女が只者ではないことを物語っている。


 ソレイユと唯一肩を並べるステップ。自分の実力にある程度の自信を持つアサヒはその評価を疑問視していたが、あながち間違いでもないと認めざるを得ない。


「君はさ、自分のことを選ばれた人間だと思ったことはある?」

「……選ばれた?」

「言い方を変えようか。君には自分が天才であるという自覚があるかな?」

「俺に才能があるだなんて思ったことはない」

「でも君、モルト殺したでしょ?」


 アサヒは何も答えない。その沈黙に解答を得たのか、サヨは目を細め、数回小さく頷く。


「あっと、別に気に病む必要はないよ。あの子じゃ君を止められないなんて、最初からわかっていたことだから。取引をするにしても、ある程度拮抗できる実力が無ければ会話にすらならない。君があの子を殺すのは予定通りだった」

「あいつを捨て駒にしたのか」

「その言い方はちょっと悪意があるな。殺される危険性の高い仕事を、それに見合う報酬を渡した上で引き受けてもらったんだよ。陽山アサヒを勝手に過小評価したのはあの子の落ち度だから。始めから時間稼ぎに徹していれば、あの子は無事に帰還出来て、今頃私の隣に立っていたはずだしね」


 お陰で一人で人質の面倒を見る羽目になったと、サヨは嘆息する。だがアサヒからしてみれば、モルトが人質の監視役になっていた方がいくらか楽だった。

 こうして会話をしている最中でも、なかなかレナを奪還できそうな隙を見出せないのだ。サヨが一人で交渉と監視をやるより、サヨが交渉、モルトが監視と分担してくれた方がまだやりようはあった気がする。


「それでもあの子は、そこらのステップと比べればよっぽど強いよ。境界警備隊の査定で言うなら、ランクAは固いんじゃない? 基準あんま知らないからわかんないけど。そんな彼を難なく倒したんだから、君には間違いなく才能があるんだよ」

「才能なんて、そんな恵まれたものじゃない。ただ、人よりちょっと戦闘経験が多いってだけだ。誰だって毎日毎日能力者集団につけ狙われる生活を何年も続ければ、嫌でも強くなる」

「凡人はその過程で死んでいるんだよ。でも君は生き残った。それは君が選ばれた人間だからだよ。まずは前提として、ちゃんと自分の才能を認識してもらわないと、話は先に進まないからね」


 サヨはそう言うと、唐突に天を指差した。その先には分厚く真っ黒な雲が漂っていて、本来差し込んでくるはずの光を徹底的に遮断している。


「君の才能の話はしたね。じゃあ次の話にいこう。今度はこの世界についてだよ」

「取引を持ち掛けるなら早く本題に入れ。こんな寒い所にいつまでも居たらレナが体調を崩す」

「まあまあ、シスコンもその辺にしときなって。君は気にならないの? この世界がどうして太陽を失ったのか。あの雲は一体どこから出て来たのか」


 アサヒの反応を伺いつつ、楽しそうに話すサヨ。そんな彼女の期待に応えるのも癪で、アサヒは顔色一つ変えないよう努める。


「はぁ……つれないね。せっかく面白い話をしてあげようってのに」

「長い話なら聞く気はない」

「そっか。やっぱり、君とまともに交渉するのは無理そうだね。じゃあその目で見てもらうのが一番早いかな?」


 サヨは右手を掲げ、指を鳴らし、パチンと小気味良い音を立てる。それと同時に空を覆っていた黒雲が彼女の頭上を起点として一瞬で消え去り、目も眩むほど真っ青な空が降り注いできた。


「────ッ⁉」


 表情を変えてやるまいと固く引き結んでいた唇も、あっという間に解けた。産まれて初めて見る青空、そして────本物の太陽。

 遥か遠くにあるはずなのに直視することもできないほど眩く、見つめていると目が焼き潰れそうなほど強烈な光を突き刺してくる。

 それに、体を炙るようなこの熱。産まれてこの方寒さしか感じたことのなかったアサヒには強烈過ぎる日光だった。


「な……なんだ⁉ 何をした‼」


 知識として、空というものは青く、広く、巨大な光の球が浮かんでいたのだということは知っている。だが実物をこの目で見て、冷静さを保っていられるはずもない。


 これが空なのだということすら一瞬理解できず、アサヒにはサヨが大規模な能力を天に向けて行使したようにしか見えなかった。しかし実際に彼女が行ったのはそれとは全く真逆のことだ。


「能力を解除したんだよ。百年前、私が使った能力をね」

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