第二章 序曲

「ハァ……」

 伊東雅美(いとうまさみ)は鏡に映る自分の素顔を見てため息をつく、小さな頃から自分の顔が嫌いだった。

 アジア人特有の一重瞼の細い目はつり気味で、カッターで切れ込みを入れたかのように存在感がうすい。面長の輪郭に低い鼻、肌が綺麗なのだけが救いだった。

「ママまだぁ」

 薄いピンクのスモックを着た娘の春華はるかが小さな鞄を肩から掛けて寄ってくる、三歳児特有のサイズ感で可愛らしい雰囲気はもちろんあるが、首から上は雅美と同じパーツが鎮座している、彼女のこれからの人生を考えると少し気の毒になった。

 しかしこうなる事は生まれてくる前から分かっていた、春華の父親も似たような顔をしているからだ。

「ごめんね、行こっか」

「うん」

 近所には保育園に行くのを泣いて嫌がる子供もいる中で、春華は毎日楽しみに通園していた。夫の陽一郎も見た目はともかく一生懸命働いて家族サービスも欠かさない良い亭主だった。

 陽一郎が会社に出社するのを見送ると春華を保育園まで送っていく、片道一五分の道程だが、夏の日差しが朝から照りつけるこの時期はそれだけで重労働だ。

 汗だくで戻ってくると回しておいた洗濯機から洗濯物を取り出してベランダに干す、朝食で使った食器を洗い掃除機をかけ終わった所でやっと一息つける。

 専業主婦ならこれで娘が帰ってくるまでは自由時間になるのだろうが、決して裕福とは言えない伊東家の財政事情ではそうはいかなかった。

 平日ほぼ毎日シフトに入っているスーパーでのレジ打ちパートがこの後夕方まで続く、短い休憩を挟むと気合を入れてソファから立ち上がり化粧を入念に施す、厚化粧にならないように、かつ少しでも美しく見えるように――。


「雅美さんの肌すごく綺麗ですね、赤ちゃんみたいだ」


 彼はそう言って雅美の頬に触れると優しくキスをした、先日の出来事を思い出して赤面する。小娘でもあるまいし軽くキスをしたくらいで舞い上がるほど若くはない。

 しかし……。

 一八〇センチは超えるであろうスラリとした長身と端正なルックス、近くに寄るといつも柑橘系の甘い匂いを漂わせていた。

 半年程前に雅美の職場にアルバイトとして入って来た二ノ宮聖斗にのみやあきとはあっという間にパート仲間のアイドルになった、まだ幼さの残る二十歳という年齢とどこか影があるミステリアスな雰囲気は芸能人だと言っても誰も疑わないだろう。

 今日も彼に会える、良くない事だとは思いながらもメイクをしながら鏡の中の雅美は口元が緩んだ。


「おはようございまーす」

 スーパーのバックヤードに入ると自分のロッカーに鞄をしまう、店のロゴが付いた緑のエプロンを身につけるとレジカウンターに向かう途中でお惣菜を並べている聖斗とすれ違った。

「雅美さんおはようございます」

 仕事の手を止めて立ち上がると雅美の目をジッと見つめながら挨拶してくる、今日も柑橘系の爽やかな甘い香りがふわりと漂ってきた。

「聖斗くんおはよう」

「今日も綺麗ですね」

 恥ずかしげもなく唐突にこんな事を言ってくる。

「はいはい、おばさんをからかうんじゃないよ」

「おばさんって、雅美さん二十六歳ですよね?」

「聖斗くんから見たらおばさんでしょう」

「女性を年齢で考えたことがないからわかりませんね」

 ニッコリと笑うと再び惣菜を並べ始めた。

 

『女なんて三十超えたら終わりだな』

 テレビに映る三十路のアイドルを見ながら偉そうに講釈を垂れる陽一郎の横顔を思い出す、ニキビ跡がクレーターの様になり肌はボロボロで雅美と同じく目が細い、良く見ると気味の悪い顔をしていた。

 なぜこんな男と結婚してしまったのか、考えるまでもない春華を妊娠してしまったからだ。

 友人に誘われた飲み会は四対四で行われたが、女性陣はアナウンサー志望だという二人に、雅美を誘った女も目鼻立ちが整った美しい顔をしていた。

 完全に人数合わせで呼ばれた形だが当然男性陣は雅美以外の三人に積極的に話しかける、そんな中で陽一郎だけは終始隣に座って雅美にアプローチした、まったくタイプでは無かったが誰からも話しかけられない虚しさを味わうよりはマシという事で二人は意気投合した。

 その日の内に関係を結ぶと妊娠が発覚、めでたくデキ婚の完成だ。あくびが出そうな結婚エピソードだが自分にはこんな物だろうと雅美は諦めていた。


「伊東さんは三番レジお願いね」

 ボーっと考え事をしていると社員から声がかかった、気を取り直してレジに入るといつものルーティンでレジ打ちを始める。

 パートの雅美は一六時には上がる、このスーパーでついでに夕飯の買い物を済ませると保育園に春華を迎えにいって帰宅する毎日だ。

 バックヤードに入ると聖斗がロッカーの前でエプロンを脱いでいる、長い髪を後ろで結んでいたゴムを外すと長髪がなびいた。

「あっ雅美さんお疲れさまです」

「お疲れ様、聖斗くんも今あがりかな」

「ええ」

 聖斗はロッカーを閉めると雅美の前に来て頭を下げた。

「こないだは突然すみませんでした、感情を抑えることが出来なくてあんな事を」

 キスしたことを言っているのだろう。

「そっそうだよー、聖斗くんみたいなイケメンにあんな事されたら勘違いしちゃうよ」

 極めて冷静に返答したつもりだったがおかしな事を言っている。

「勘違いって?」

 高い位置から真剣な目で雅美を見つめてくる。

「えっと、ほら、アタシのこと好きなのかなーなんて」

 おそらく顔は真っ赤で目は泳いでいるに違いなかった。

「好きですよ」

 聖斗に真っ直ぐ見つめられる、吸い込まれそうな不思議な瞳だった。

「ちょっ、好きって、私、旦那も子供もいるしおばさんだし」

 最後まで言い終わらない内に口を聖斗の唇でふさがれた、力が入らない雅美の口内に聖斗の舌が侵入してくるが雅美は抵抗する事が出来なかった。

「お疲れさまです、雅美さん」

 そう言うと聖斗は大股でバックヤードを後にした、雅美はその場でしゃがみ込むと自分の心臓の鼓動を両手で確認した。


「なんだか今日はご馳走だなー」

 陽一郎は食卓に並んだおかずを見ると感心したようにダイニングチェアに腰掛けた。

「ごちそうってなあに」

 春華は不思議そうに問いかけている。

「すごく豪華、じゃ解らないか、えーっと美味しそうなごはんが沢山あるって事だよ」

「すごいねえ」

 春華はパチパチと紅葉のような手のひらで拍手している。

「そんな事ないよ、いつも通りだよ」

 動揺を悟られないようにキッチンに引っ込んだ、なんて浅はかなのだろう。舞い上がっているのだ、無意識の内にいつもより張り切ってご飯を作ってしまった。

 昼間おきた出来事を思い出すと胸がドキドキとしてしまう。

 なるべく平静を保つように努力しながら食事を済ませると洗い物をしてお風呂に入った。

 

「春華もう寝かしつけといたから」

 お風呂から上がると陽一郎が声をかけてきた、春華を寝かしつけるのは夫の役目だ。

「まあ一杯やりなよ」

 冷えた缶ビールを冷蔵庫から取り出すと雅美に手渡した。

「ありがとう」

 そう言うと缶ビールのプルタブを引いて一気に半分くらい飲み干した。

「美味しいー」

「いつもありがとうな、雅美には苦労かけるけど俺も頑張って働くからさ」

 陽一郎はいつもこうして雅美の事をねぎらってくれる、主婦友達の中には旦那はふんぞり返っているだけで何もしないくせに礼の一つも言わないと愚痴る人も少なくない。

 いい旦那なのだろう、自分の行いに後ろめたさを感じながらもキスくらいならと自分に言い訳をした。


「なんか最近可愛くなったな」

 陽一郎はそう言うと雅美を抱き寄せてキスをしようとした。

「ちょっ、ごめん」

 両手で思い切り拒絶すると急いで言い訳をさがす。

「今日は生理だから……、ごめんね」

 ホッとしたような表情になる。

「そっか、ごめんごめん、じゃあ俺は先に寝ようかな」

「うん、ごめんね、おやすみ」

 そう言うと陽一郎はリビングを後にしする、昼間に聖斗としたキスの上書きをされたくなかった。

 甘くてとろけるような聖斗の舌の感触を……。

 陽一郎のざらついた排水溝のような匂いがする舌を思い出すと、とても生理的に受け付ける事ができない、申し訳ないと思ったが仕方ない。

 残りのビールを飲み干すと空き缶をゴミ箱に捨ててソファに横になった。

(明日も聖斗に会える……)

 それだけで雅美の人生に今まで考えられなかったような明るい光が差し込んだように感じた。

 


「ちょっと聞いてよ雅美ちゃん、聖斗くんたら毎日このスーパーのお惣菜でご飯済ませてるんだってさ」

 五十代のパートでこの店一筋十五年の五十嵐さんが休憩に入った雅美に話しかけてきた、横には照れくさそうに頭を抱える聖斗くんがいる。

「いや、料理が苦手でして」

「一人暮らしなんだってさ」

 五十嵐さんが付け加える、初耳だった。

「父子家庭で育って父も料理はまったくでして、小さい頃から惣菜に頼っています」

 ハハっと笑う笑顔が切なくてキュンとした、ご飯なんていくらでも作ってあげたいと心の中で思ったが口には、出さなかった。

「あんたいい男なんだから彼女とかいないの?」

「ええ、そういった人は今のところは……」

「うちの娘でも紹介してあげようか、あなたよりもだいぶ年上だけど」

 ガッハッハ、と笑うと五十嵐さんはトイレに行くと言ってバックヤードから出ていった。

「お惣菜ばっかりだと栄養偏っちゃうよ……」

 説教臭くならないように心がけて聖斗くんに言った。

「雅美さんの手料理が食べたいな」

「え?」

「なんて、うそうそ、冗談です」

 その表情が捨てられた子犬のように悲しげで思わず抱きしめたくなる。

「たまにならいいよ……」

 自分は何を言っているのだろう、考えている事と口から出てくる言葉がチグハグだった。

「え、本当ですか?」

 先程の悲しげな表情から太陽のような笑顔が雅美に向けられる。

「うん」

 ガッツポーズをして喜んでいる聖斗くんを見ながら『ご飯を作るだけ、ご飯を作るだけ』と呪文のように心の中で呟いた。

「雅美さん」

 聖斗くんが目を細めて唇を近づけてくる。

「だめだよ」

 両手で拒むとまた子犬のような顔に戻ってしまう。

「ここじゃ……ダメ」

 一体私は何を言っているのだろうか、ダメだとわかりながら流されていく自分を止めなければいけないのに、頭の中ではすでに聖斗くんに何を作るか考えていた。

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