復讐の螺旋 

桐谷 碧

第1話 プロローグ

「お前が幸せになるなんて許されると思っていたのか?」


 一之瀬は目の前で泣き叫ぶ男に冷たく言い放った。

 男は泣き叫びながら、すでに動かなくなった妻を抱きかかえている。その光景を目の当たりにしてもなんの満足感も覚えなかったがやるべき事はまだ残っていた。

「娘は……」

 男はかろうじてそれだけ発した。

「娘はそこにいる、早く出してやれ」

 一之瀬は近くに放ってあるボストンバックを顎でシャクった。

 男は妻の亡骸をそっと固いフローリングに寝かせるとボストンバックのチャックを開けた、と同時に声にならない獣の叫び声が部屋中に響き渡った。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ」

「はるかぁ、はるかぁ――――――――!」

 四肢と頭部が切断された娘の亡骸をプラモデルの様に組み立てようとする男をみても一之瀬の溜飲は下がる事がなかった。

「どうだ?」

 一之瀬の問いかけに男が振り返る。

「俺の気持ちがわかっただろ?」

 男はコチラを睨んだまま固まっている。

「しかし俺にはお前の気持ちがさっぱりわからん、こんな事して何が楽しいんだ?」

 一之瀬は横たわっている男の妻の亡骸を蹴っ飛ばした。

「やめろ――――――――――――――!!」

男は落ちているサバイバルナイフを手に取ると一之瀬に向かって刃を向ける。

「そうだよ、俺が憎いだろ?」

 一之瀬は笑った。

「うわ――――――――――――――!」

 男はサバイバルナイフを持ったまま体当りして何度も一之瀬を刺した、すでに絶命している一之瀬をそれでも何度も何度も刺した。



 第1話 平穏な家族



「蓮! 早く起きなさい! 学校遅れちゃうよ」

 八歳にしては幾分小柄な蓮は眠そうな目を擦りながら布団から出てくるとダイニングテーブルに並ぶパンにかぶりついた。

「ちょっとパパも早くご飯食べちゃってよー」

 一之瀬明は娘の葵に叩き起こされると一目散にトイレにかけこんだ。

 

「ウオエエエッ――――――」

 

 昨晩、飲みすぎた明はトイレで二度三度えずいていてからリビングに向かった。

「パパ、いい加減にお酒控えなよ。死ぬよ」

 今年で高校一年生になった葵は三年前に死んだ妻にどんどん似てきた。

「大丈夫、大丈夫、食欲もあるし」

 ダイニングテーブルに座るとパンをかじりサラダを口にする、朝からパンを六枚食べる明は身長百八十センチ、体重八十キロと大柄な体型に似合わず中性的な顔をしていた。

 今年で三十六歳になるが肌の艶が良いので二十代後半に見られる事も多い、ましてや高校生の娘がいるとは思われないだろう。

 葵の授業参観に行くと不思議な目で見られる事もしばしばあったが今ではすっかり慣れていた。

「じゃあ私先にでるね、食器は水に付けておくのよ!」

 いつの間にか制服に着替えた葵が慌ただしく家を出て行った。

 

「台風みたいな奴だなあ」

「ねー」

 蓮は優雅にホットミルクを飲んでいる。

「蓮はそんなゆっくりしてて平気なのか?」

「まあね、目の前だから」

 蓮の通う第四赤羽小学校は自宅マンションの目の前だった、走れば十秒で校門をくぐることができる。

「良いなあ、近くて」

「明の会社だって近いじゃん」

「ねえ」

「なに?」

「なんで呼び捨てなのかな?」

「やなの?」

「いや、そういう訳じゃないけど」

「じゃあいいじゃん」  

 

 明はそれ以上は何も言わない、もっと小さい頃はパパと呼んでいたのだがいつの頃からか呼び捨てになっていた。

 自分の体よりも大きくみえるランドセルを背負うと蓮は「いってきまーす」と言って玄関を後にした。

 時計の針を見ると八時を過ぎている、明の職場は王子駅なので最寄駅の赤羽岩淵駅から五分程だ、九時出社なのでもう少し時間に余裕がある。

 食べ終えた食器をシンクに置く、時間があるのだから洗って行けば良いのだがついつい葵に甘えてしまっている。

 髪を簡単にセットしてスーツを着るとネクタイを締めた、シルバーフレームの細いメガネをかけると弁護士の様な出立ちになる。

 仕事柄キッチリとした格好を心がけているがワイシャツを洗濯して綺麗にアイロンまでしてくれるのは葵だ。玄関を出ると雲ひとつない青空が広がっていた、深呼吸を一つして職場に向かって歩き出した。


「おはようございます」

 開け放たれた扉を入るとすでに出社している社員達に挨拶した。

 さまざまな会社が入っているビルの一五階に明の職場『王子第四税務申告会』がある。

 税務申告会とは主に個人事業主や小規模事業者に対して帳簿や決算、消費税や確定申告に関するアドバイスをする会社だ、飲食店経営者や美容室など個人で経営する人間や、占い師や競艇選手など様々な職種が対象だった。

 仕事の性質上仕方ないが確定申告がある一月から三月は考えられない程忙しい、しかしそれ以外の月は残業することもなく定時の十七時には帰宅できる。

 スーパーに寄って夕飯の買い物をしても十八時前には家に帰れるのでシングルファザーとはいえ蓮と葵に寂しい思いをさせる事は少なかった、もっとも子供達が父親の存在を疎ましく思っていなければの話だが。


「一之瀬さんおはようございます」

 パソコンでメジャーリーグの中継を食い入るように観ながら工藤貴之が挨拶をよこした、今年で入社八年目の工藤は仕事中でも堂々と野球中継を観ている、自分の仕事はキッチリこなしているので上司の明も注意をしなかった。

 と言うより自分自身も仕事中に競艇や競馬の中継をしばしば観ているで彼が影響されてしまっても無理はない」

 何にせよ繁忙期以外はのんびりと仕事ができる職場だった。

 

 十七時十分前になると社員全員デスクを片付け始める、時計の針が十七時になったと同時に会社を飛び出すためだ。

「おつかれさまでーす」

 多分にもれず工藤も時間キッチリに立ち上がる、明も続いて会社を後にした。

 明の妻だった咲は三年前にあった事件に巻き込まれて死んだ、まだ小さかった蓮は母親が家に帰ってこないことで大泣きしたが中学生だった葵は自分がしっかりとしなければいけないと思ったのだろう、蓮を励まし続けていた。

 ラインをチェックすると未読が一件になっている。

『パパー、焼きそばに入れる紅生姜がないから買ってきて』とラインに葵からメッセージが入っていた。

『了解』とだけ返すとすぐに既読になる、おそらくもう家に帰って来ているのだろう。明は夕飯を想像して腹を鳴らすと、地下鉄の駅構内に吸い込まれていった。


 玄関を開けるとすでに焼きそばの匂いが家に充満していた。

「ただいまー」

「ほかえひー」

 口の中に焼きそばを目一杯詰め込んだ蓮はキャベツの入っていない茶色い麺をうまそうにすすっていた。

「パパおかえり、蓮がお腹すいたから先に食べるってきかなくて、紅生姜も添えないでキャベツも抜けってさ。誰に似たんだかね」

 葵がキッチンから出てきて蓮の頭を軽くはたいた。

「アイテッ」

 野菜嫌いの明に似てしまったのだろうか、聞こえないふりをすると寝室に着替えを取りに逃げる。スーツからジャージに着替えると手を洗ってダイニングテーブルに腰掛けた、冷奴に枝豆、だし巻き卵としらすおろし。

 居酒屋メニューよろしく明の好きなアテが並んでいた。

「はいパパ、今日もお疲れ様」

 そう言うと葵はキンキンに冷えたグラスに瓶ビールを注いでくれる。

「焼きそば食べる時言ってね、あと今日はその一本だけだからね」

 話し方や仕草、焼きそばの味に至るまで妻に似てきた葵を見て明は申し訳ない気持ちになった。

 本来であれば高校生なんて遊びたい盛りだろう、中学生の頃に入っていた演劇部も高校では入らなかった。

 

「あんまり好きじゃなかったし……」

 

 嘘だと思った――。

 

 中学生の時に演劇部の出し物で観た葵は今まで見た中で一番生き生きとしていた。

「葵、もっと友達と遊んできても良いんだからな、パパ繁忙期以外は早く帰れるし。蓮のご飯くらい作れるから」

「うげ――――――――」

「なんだよ蓮」

「別に、明のご飯はちょっと個性的だからな」

 そんなやり取りをみて葵は微笑んでいる、本当に妻のようだ。

「別に無理してないよ、そうねえ、たまには合コンでも行ってこようかな」

「合コンは駄目だろ」

「なんでよ?」

「葵にはまだ早いよ」

「パパとママが結婚したのって十九歳よね? ママに出会ったのは何歳」

 

 その質問に言葉が詰まった。

「十六歳」

「ほらあ、あたし今年で十六歳だよ」

「そろそろ焼きそばを頂こうかなあ」

 グラスのビールを飲み干した。

「まったく、いつまでも子供扱いなんだから」

「あのー」

「なによ」

「キャベツ抜きで……」

「なに?」

「いや、何でもないです」


 洋風のダイニングには似つかわしくない仏壇に妻の遺影がある、今のやり取りを聞いていたのだろうか、少し笑っているように見えた。

 妻をなくした悲しみも三人だから乗り越えて来られたのだろう、これからも三人なら笑って生きていけるはずだ。


 むろん二人が大人になり、この家を出ていく日はそんなに先の話ではないだろう。


 せめてその日まで、この穏やかな家庭を護っていこう、一之瀬明は妻に誓った。

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