「離」に至るための「破」について

四辻 重陽

第1話 「守」と「破」について

「守破離」というのは、千利休が言い出したことであるらしい。

それについては多くを述べないでおく。何しろ千利休について詳しくもなければ「守破離」という言葉についても詳しいと思えないからだ。


さて、この文を読む方々に於いては、無知を晒しながらも何故このような題を取ったかと疑問に思うことだろうと思う。それについては紙幅を可能な限り割いて語る必要性があろうかと思う。


まず、「守」についてである。これは小中学校の頃に品詞分解で学んだのではあるまいか。筆者としては義務教育を受けてからかなりの時間があるが、これを「守る」ことで文章における破綻を避けられることが多いと思わないでもいるのである。


例えば一文の中に於いて主語を統一すべしであるとか、掛かり受けの対応は守られるべきであるとか、主語に対して動詞は能動であるべきかとか受動であるべきかといった、そういったことが挙げられるだろう。


さてここまでで自らの文章に疑問を覚えた諸氏は、このような文を読まずに『国語便覧』でも読んだ方が得る物も多かろうと思う。或いは日本語の文法について学び直すことによって得られることも多かろう。ひとまずそれが「守」である。


では「破」とは何であろうかということになる。


これは端的に言えば「ひとまずの守」を通り越して以てしても、書き手として納得のいかない部分を以てして、己と読者とを納得せしめざるを得ないところを如何にして改めることにすべきかを考えるところであるだとうと思っている。


そして「離」とは何を意味するものであろうか? という疑問も当然あろうかと思う。やがて至るべきと言っておいて、何を意味するであろうかと示さないのは不誠実であろう。


ここで言う「離」というべきものは、これ以降の文を読んでみて「いや、これは自分にとっては良い表現でないな」と思ったり「これでは読者には正しく意図が伝わらないだろう」と思ったりした結果、「この原則は守られるべきではあるまい」と破調をしていくことを指す。


私自身として、世に出し損ねた作品こそ多いものの、どうやって意図的な破調をすべきかと考えると悩みは尽きない。よって、これを読んだ諸氏が「思ったより大したこと書いてないじゃないか」と新作を書き続けることを願ってやまない。


と言った辺りで、序文を締めることとする。

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