第21話 傷
部屋の窓から爛々と煌めく星を見上げていた俺の耳に微かな声が聞こえた。
それは間違いなく魔王――レイラの声。
おもむろに立ち上がると、俺の隣で真っ暗闇の外を見つめていたシュガが気まぐれな猫のような瞳を向けてきた。
口にはしないが、「どこいくのよ」と目が語っている。
俺は本日8つ目の金平糖を堪能しているシュガに断ってから部屋を出た。
目指すは7つある魔王の居室の一室、アメジストの部屋。
「あんなに小さな声も聞こえるなんて、やっぱり余とツダの相性は良いみたい」
扉を開けると、いつものドレスではなく、サックスブルーのネグリジェを着たレイラが腕を広げていた。
俺はドアノブに手をかけたままの姿勢で立ち止まったが、彼女はお構いなしに一歩二歩と近づき、俺を抱き締めて静かに扉を閉めた。
「3人。たったの3人とは言わない。十分な数だと余は思う」
レイラから香るのは柑橘系のすっきりとした甘い香りだ。
いつもは凍てつくような極寒の瞳で周囲を威嚇している魔王なのに、俺と二人きりの時はその冷徹さは鳴りを潜める。
あまりにも慈悲深い笑みと、声と、温度に、反射的に腕を回しそうになってしまった。
「魔族の子は初めての狩りを終えた日、こうして親の腕の中で心のざわつきを抑えるの」
「レイラは俺の親じゃない」
「そうね。余の時は両親じゃなくて、兄がこうして抱き締めてくれたわ。だから、親である必要はないと思うの。そのままでいて。ずっと楽になるから」
こんなことで楽になるはずがない。
お前は初の狩りで何を殺した?
人間か? 脱走した自軍の兵士か?
少なくとも同胞ではなかっただろ。
ここで敵意を向けてはいけないことは重々承知している。
だが、頭では分かっていても体は言うことを聞かなかった。
「ここは心と体のバランスを保つ部屋。なのだけれど、アメジストの部屋の効果でも癒やせないほどの大きな傷なのね」
そりゃあ、同族殺しだからな。
しかも3人じゃない。
5人だ。
俺はすでに勇者イグニスタンと鬼人族のオルダを殺している。
あと何人殺せばいい?
俺は魔王国の情報を抜くためにここにいる。
それなのに、なんで人殺しをさせられているんだ。
そんなのは聞いていない。
それは契約違反だッ!!
さっさと俺を帰せ!
俺を元の世界に。
人を殺してはいけない倫理観のある世界へ――
殺せば警察に捕まる世界に帰せ!
どんどん体が熱くなる。
俺に人を殺させたドゥエチが憎い。
俺を
我が身可愛さに簡単に人を手にかけた俺自身が憎い。
人を殺す感覚に慣れた俺が憎い。
こんな体にして、転生させた女神が憎い。
「ごめんなさい」
俺を抱きしめる魔王の力が強くなる。
「まさかこんな事態になるとは思っていなかった。言い訳はしないわ。ドゥエチが始めたことだとしても、監督責任は余にある。あなたを深く傷つけてしまってごめんなさい」
魔王とは思えない素直で心のこもった謝罪。
燃え上がる憎悪の炎は鎮火しなくても、勢いを失う程度には気持ちが落ち着いた。
「少しだけ、余の話をしましょうか」
魔王は俺を抱きしめたまま続ける。
苦しそうに、思い出すことを拒むように。
嗚咽しながら――
「余の最初で最後の狩りは実の両親だった」
ドンッ!
レイラの肩を押して距離を取ってみれば、彼女は悲しみと後悔と憎しみを含んだ涙を流していた。
「だから、余を抱き締めてくれたのは兄なの」
な、なんで?
俺と同じように何か事情があった?
それとも魔力の暴走?
様々な憶測が頭の中を駆け回り、オーバーヒート寸前だった頭が冴え渡っていく。
「ツダに共感したいとも、私に共感して欲しいとも思わない」
ただ、とレイラが距離を詰め――
「余の血塗られた手であなたを抱くことを許して欲しい」
俺を包み込んだ。
「ここは、これから進むべき道を照らすアメジストの部屋。ツダには何が見える?」
レイラの背後にある薄紫のシャンデリアには、俺と彼女が抱き締め合う姿が反射している。
「俺は、許されるのか……」
「余が許す。他の者たちのことは知らない。でも、あなたの覚悟は余に仕える者たち全員の心に刻まれた」
レイラはそっと離れて、俺の手を取った。
「あなたこそ、余の婿に相応しい」
彼女の数々の言葉で気持ちが軽くなったわけではない。
だけど、怒りも憎しみは一時的に引っ込んだ。
「俺には目的がある。目的を達成するためにレイラを利用するつもりだ。そんな俺でいいのか?」
こくりと迷わずにうなずく。
「余は魔王ぞ」
あどけない少女のような笑みで、それでいて傲岸不遜な態度で――
◇◆◇◆◇◆
高貴を司るアメジストの部屋を退室したツダを見送ったレイラルーシスは、湛えていた微笑みを消し、椅子に体を預けた。
(やっぱり鬼人族はお堅いのね)
肩透かしをくらったのは事実だ。
あの流れなら繁殖行動まがいの行為が始まるかと思っていたのに。
ツダがこの部屋に滞在していた時間はたったの10分だった。
しかも立ち話である。
訓練場での儀式の後、あまりにも弱々しかったツダの背中を放っておけなくなったレイラルーシスはとっておきのワインを準備して、長らく閉ざしていたアメジストの部屋に明かりを灯した。
それなのに――
「余の顔と体では不服か」
レイラルーシスは上等な生地で作らせたネグリジェを見下ろし、自身の体をぺたぺたと触った。特にお腹周りを中心に。
「鬼人族にとって余はブスの部類だからな。ツダももっと太っている方が好みなのだろうか」
種族によって価値観は様々だ。
想像を絶する精神的な疲労と気持ちの整理がつけられていないツダがレイラルーシスに発情しなかったことは、このような誤解を招いた。
「それにしても、あの戦い方は鬼人族っぽくなかった。でも最後のは鬼人族っぽかった」
最後というのは騎士の一人の喉元をかっさばいた状態で、
当然、止血をされていないのだから出血は続く、しかも血液は簡単に肺へと到達する。
必死に移動しても魔王国の国境まで辿り着ける可能性は五分五分だった。
「全部、計算済みってことね。恐ろしい子。ツダ……本当にあなたは鬼人族なの?」
彼は嘘にまみれている。
見た目こそ鬼人族に近いが、簡単に変化する魔力量も、簡単に悪魔と契約する倫理観も、簡単に獲物を狩る戦闘力も。
どれも鬼人族のようで、らしくない。
ただ、唯一、嘘ではないのはさっきの押し殺しきれなかった感情。
あれは紛れもなくツダの本心だ、とレイラルーシスは確信したからこそ、ベッドへ誘う前に無意識のうちに抱き締めてしまっていた。
「どうでもいいか。ツダは余を理解してくれた……してくれようとした唯一の男。だから、余もあなたを理解してみせる」
ネグリジェから伸びるしなやかな足を組み直し、ワインを注いだグラスを一気に傾ける。
「縁組み計画やってよかった」
人族の国に潜入したレイラルーシスの目的は2つ。
1つは兄の死の原因を作った子供を探すこと。
1つは敵である人族の行動を知ること。その中でレイラルーシスは『縁組み』というものを知った。
これまでの魔王は自分の好みの魔族の女を何人も侍らせ、一人でも多くの子を生ませてきた。
だが、レイラルーシスは女性だ。他人に生ませるのではなく自分で生むしかない。
それなら、より強く、逞しく、優しいヒトがいい。
魔王国で色々と探したが理想のヒトはいなかった。
それがここまでレイラルーシスが独り身を貫いた結果だ。
では、考え方を変えてみよう。
――好みの男を自分で育てればいい。
「ツダが鬼人族でなかったとしても、余は受け入れるよ。もっともっと魔族らしくなってね」
レイラルーシスは誰にも見せたことのない恍惚の笑みを浮かべ、ベッドに倒れ込んだ。
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